プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

清俊彦

2016-12-10 22:28:39 | 日記
1966年

これでパーフェクト二回、ノーヒット・ノーランも二回経験した和田捕手は、七回二死後、ボレスの五球目に「記録はできたと確信した」そうだ。「カーブでカウントをとって2-2。つぎは外角直球。サインを出し、清がモーションを起こした瞬間、しまったと思った。ボレスがそこを予想してスタンスをかえてきたからだ。だがそのしまったと思った球をファウル・チップした。つぎ、ミットを高くあげて内角高めを要求すると清が即座にうなずいた。危険なコースのあと、ピタリとバッテリーの呼吸がある。そういうときは必ず記録ができた」清は八回になってやっと無安打を意識したそうだ。「ちっともいいとは思わなかった。第一最後まで投げられるかどうか心配していたらズルズル九回まで終わっていたんだから・・・」ひとごとのように、笑いもしない。「別にいい球もなかった。しいていえば、いつもより直球がきまってたというわけ。ボレス、土井さん、クレス・・みんなこわかった」日ごろから口数の少ないおとなしい男だ。テレビのアナウンサーがいきり立つが、ちょっとも乗ってこない。そんな調子だから、ベンチは七回からムリに清にノーヒットを意識させた。ふつうなら記録達成が近づくと緊張して「そっとしておこう」というところだが、この夜の西鉄は違った。中西監督、高倉らを中心に「あと五人、あと四人・・・」とうるさい。重松コーチもブルペンからベンチに通ずる電話でハッパをかけた。「フラフラするな。直球でドンドン内角をつくんだ」最後の打者伊香が出てくると「清と伊香からセイコー(成功)だ」などと、ダジャレまでとび出す始末。緊張感などまるでない。「和田さんのサインどおりに投げただけです。いまのピッチングではまだだめ。もっと直球のコントロールをつけなくては・・・」昨年好調なスタートを切ったと思ったら流行性肝炎で二か月入院。福岡市内でもっとも美しい公園、大湊公園を一望のもとに見おろす病院で「感ずることが多かった」そうだ。「ただ漠然と、投げていればいつか10勝か15勝くらいできるだろう、なんて考えていた自分の甘さに、気づいたんです」同期の石田投手を誘って自宅(宮崎県高鍋市)付近の山を走りつづけたのはことしの一月から二十日間。重松コーチは「キャンプで見たとき、即座に先発組のローテーションにはいれる」と感じだそうだ。「打ち気にはやる打者の、タイミングをはずしながら投げたのがよかった。清はカーブを多投するから、みんなカーブをねらってくる。そこをシュート、直球、スライダーではずし、カーブをねらわないと見るとカーブばかりで裏をかいた」和田捕手がうれしそうに話す横をのっそり通りすぎた清は、フロにとび込んだとき初めて顔をクシャクシャにして一人で笑っていた。
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松本忍

2016-12-10 22:02:27 | 日記
1967年

中日投手陣の救世主ー左腕・松本投手は、いかにもピッチャーらしいからだつきである。投球モーションを起こしたところを、とくにご覧ねがいたい。「オヤッ?」と気づくことがある。それはこのときの格好だが、実に金田投手(巨人)に似ているという点だ。もちろん、全体のフォームは、金田のソレとはちがうが、上から投げおろした角度のあるカーブには、どことなく共通点がある。打者の手元で、大きく割れながら落ちるカーブは、低めのコースいっぱいに決まる。本紙評論家の大島信雄氏が、この写真を見て「ソツのないフォームだ。とくにいいのは、タマを離す腕の位置が遅いこと。これだけで打者は相当幻惑されるだろう」とうなった。産経打者が、このカーブにマトをしぼったが打ちこめなかった秘密が、こんなところにうかがえる。カーブの制球力は逸品。これで速球にいまひと息のスピードとコントロールがつけば、オニに金棒。とにかく上の写真の投球フォームには、ほとんどケチをつけるところがない。
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松本忍

2016-12-10 21:53:53 | 日記
1967年

若武者の名がふさわしい十九歳の左腕松本が、昨年から産経に地元で通算7連敗とふがいない敗戦をつづけていた中日を救った。これまで、出る投手がすべて産経のホームラン攻勢の前にあえなくお手上げといった現状だった。この夜の松本は8連敗にストップをかけたばかりか、待望のプロ入り初勝利を飾ったのだから、中日にとってはまさに救世主といえる。「小僧、おまえが投げるのか」三回板東が高山に一発をかまされ、四回から松本がマウンドに上がったとき、産経ベンチからこんなヤジがしきりにとんだ。当たりに当りまくっている産経ナインにとって、板東に代わって出てきたのが前日1イニングを投げてはいるが、一見ひ弱な、無名に近い松本だっただけに「なんだ小僧」と思ったのも当然だった。ところが回を追うにつれて、産経ベンチから声が出なくなった。「おや、おかしいぞ」五回ロバーツのタイムリーで同点にしたものの、六回には豊田、徳武、武上がカーブをから振りの連続三振。そして最後までそのカーブが打てない。マウンド上の松本はひょうひょうと投げ、九回あとひとりで初勝利というとき代打別部の三ゴロを権藤が一塁に悪投して、別部は二塁に進み、もし一発出ればすべては無になるという大事な場面でも、顔色ひとつ変えず、最後の打者山本八を三ゴロにしとめた。「よくやった」産経戦に勝ってベンチが大喜びする場面などはかってなかったことだが、西沢監督もわざわざマウンドまでかけ寄ると帽子をとって祝福した。プロ入り初勝利の声は落ち着いていた。「登板は急にいわれました。感想?うれしいが、別にどうってことありません。カーブがよかったので、カーブを投げまくりました」童顔をほころばせながらはっきり答える。公式戦には昨年の対巨人二十回戦に初登板、そのとき2/3イニング投げて王を三振にとった記録はあるが、それにしてもこの夜がプロ入り4試合目の投手とはとうてい思えない。松本はさる三十八年、長崎県諫早市北諫早中学から池田スカウトに見いだされ養成選手として入団。当時池田スカウトはよくこんなことをいっていた。「実に頭がよく、運動神経が発達している。それに父親(定吉氏)も勝ち気な人。いったんプロにはいった以上一人前の選手になるまでは郷里に帰さないでほしいといっていた」と。その松本が翌年からは昼は二軍と一緒に野球に励み、夜は名古屋の中央高校に通って今春卒業した。当時養成担当をした村野コーチは「どんなにつらいことがあっても泣きごとは絶対はかなかった」という。技術面のアドバイスをしてきた大友コーチは興奮のおももちで「きょうの松本の好投は決して偶然ではない。昨年に比べてスピードとタマに刀が出てきた。武器はカーブだが、そのカーブを大小自在に投げ分けるのが強みだ。これも養成中に基本をがっちり身につけたからだ」と満足そう。とにかく中日にとっては待望久しかった本格派左腕の出現である。「今後はもっとからだをつくることだな」と近藤コーチ。現在も1㍍78、70㌔。これからぐんぐん伸びるホープだ。養成といえば西沢監督もかつては名古屋軍の養成選手。この若武者を本紙評論家・吉田正男氏は「産経打者の大振りに助けられた面もあったが」と前置きしながらも「コントロールがいい。ピンチにも動揺せず、カーブには自信を持っている」と文句なくほめ「左投手のいない中日投手陣にとってまことに明るい材料だ」といっていた。
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高島昭夫

2016-12-10 08:42:54 | 日記
1964年

今季プロ入り第一号だった東映のルーキー高島昭夫三塁手(20)=神奈川大中退、1㍍81、80㌔、右投右打=は、十八日の対近鉄戦(神宮)で試合前ナインとともに初練習した。背番号68。背の高い高島はナインの中でひときわノッポが目立った。フリー・バッティングは井上を相手に二、三十本打ったが、振りおくれてほとんどの打球が右翼方面。バットを垂直に立て両足のつま先をやや内側に寄せるフォームで、同チームの捕手鈴木悳に似ていた。「一か月も練習していないのでバットが出ない」と高島はややあがりぎみに弁解していた。藤村コーチは「バック・スイングがまだ小さい。しかし力があるから楽しみ」といっていた。なお高島はベンチ入りはしなかった。
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