1963年
巨人は七日午後零時三十分、東京銀座西の読売新聞社五階会議室で、北海高のエース吉沢勝投手(18)=1㍍80、76㌔、左投げ左打ち=の入団発表を行った。阪急との二重契約問題で話題を投げた同投手だけに報道陣も多数つめかけたが、高橋球団社長、佐々木代表、内堀スカウトの巨人関係者、吉沢選手側から母親よしよさん(54)はじめオジ内堀賢郎氏夫妻、同阿部実氏、実兄常美氏らが立ち会った。同投手は発表後多摩川の合宿で川上監督、中尾コーチにあいさつを行った。なお吉沢投手はきょう八日午前十一時からの練習に参加、五、六日東京に滞在したあと、再び北海道に帰り、来春の卒業まで学業に専念する。背番号は仮番号で77。
球界を騒がせた阪急との二十契約問題の間は北海道にひきこもっていた吉沢選手が、初めて報道陣の前へ現れた。カメラマンもふくめて約三十人ほどが待つ読売本社の五階特別会議室。 学生服をきちんと着込んだ吉沢は、さらりとした表情で席についた。まだ童顔が残る1㍍80という上背は、いかにも投打に評判となった力量をしのばせる。前後左右からたかれるフラッシュにもさほど驚いた顔もみせない。野球選手には欠かせない強い心臓も備えているようだ。「前からはいりたいと思っていた巨人に入団できてうれしいです。一生懸命がんばります。巨人のチームカラーがとにかく好きだった。北海道はテレビも野球中継もあまりはいらない。だからプロ野球はほとんど見てないですが、この間の日本シリーズはテレビで見ていて、僕も早く投げたくてたまらなかった。これまでは直球、カーブ、シュートしか投げたことがない。その中で自信があるのはやはり直球です。伊藤さん、藤田さんのような投手になりたいです。トレーニングは毎日ランニングをやっています」問われるままに巨人入りの感想をとぎれとぎれに話した。札幌は一年のうち半分しか野球ができないそうだが、甲子園出場4回(3738年春、3637年夏)しかも彼の投打にわたった活躍は輝かしい高校生活の思い出となっている。とくに打者としての実績も忘れられないが「プロへはいれば、ずっと投手としてやっていきたいです」とはっきりいっている。また打撃もきく左投手ということは巨人投手陣に貴重な存在だが、生まれながらの左ききにも、小学校四年のとき、オジさんにいわれて字など左右で書くようになおされたという。学校でのあだ名はテク「よくわかんないのですが、テクテク歩くということかららしいんです」とちょっとてれくさそいうに笑っていた。ところで阪急との二十契約問題にふれると「世間を騒がせて迷惑をかけたと思っています。もし巨人じゃなくて阪急に裁定がくだされれば、阪急にも迷惑をかけているので、いけないのじゃないかと思っていました」と下を向いた。横からオジの阿部氏が「その話はかんべんしてやってください」と報道陣を制していたが、この試練を乗り越えて、吉沢がどのように大成していくかも、一つのみどころといえるだろう。吉沢投手が多摩川の合宿を訪れたのは三時ちょっと前。この日巨人は一時からトレーニングを行ったが、早めに切り上げたので柴田、船田 、高橋ら宿舎組以外レギュラーは見あたらず、静かなもの。出迎えた武宮、中尾両コーチが「北海道はもう寒いだろう。向こうでは走っていたか」「北海道は冬の間が困るな」と話しかけると、吉沢は「向こうでは毎日軽いキャッチボールとランニングを二時間ほどしていました」と顔を紅潮させた。そこへ川上監督が顔をみせ、ニコニコ顔で手を差しだした。「やあ、おめでとう。自分の思うところへはいれてよかったな。一度君を北海道で見たことがあるが、こんなに大きかったかな。ウチの渡辺とどっこいどっこいだ。まったくたのもしい」真ん中に吉沢をはさんで、中尾コーチと川上監督が交互に背伸びをして周囲を笑わせた。吉沢は「もう、ほんとうに胸いっぱいでものがいえないくらいです。ただ力いっぱいがんばるだけです」と感激していた。
川上監督の話 一週間ほど東京にいるので、今晩は合宿に泊まってもらって、あすから練習してもらう。吉沢はバネがいいし、体力もあるので、二、三年したら左のエースになってくれるだろう。素質も図抜けたものをもっているから、きっとやってくれると信じている。
母親よしよさんの話 いろいろ世間を騒がせましたが、これで本当にほっとしました。勝は小さいときから勝ち気な子でしたが、プロへはいってもくじけることなく、がんばってもらいたいと思うだけです。
佐々木代表の話 私は吉沢君は二十契約じゃないかとはじめから思っていた。しかしなにかと本人も苦しんだことと思うが、これからは巨人軍で一生懸命やるだろう。卒業までは学業に専念させるが、その間のトレーニングの方法などは中尾コーチから指示があるはずだ。
吉沢投手の横顔
甲子園出場のベテラン飛沢監督の秘蔵っ子のひとりとして、道内では一年生のときから注目された大型投手。一年生のときはエース松谷(現東映)の控えで登板の機会に恵まれなかったが、一部では松谷より高く評価されていた二年生の夏の大会でベスト8に残ったとき、松谷が足を痛めたので初めて甲子園のマウンドを踏み、一躍頭角を現した。今春の選抜大会では決勝戦で下関商池永と投げ合って敗れはしたが、チームを準優勝に導く原動力となった。今夏の大会は予選で函館工に敗退している。バッティングもよく、道産子特有の負けずきらいな性格は人一倍。
巨人は七日午後零時三十分、東京銀座西の読売新聞社五階会議室で、北海高のエース吉沢勝投手(18)=1㍍80、76㌔、左投げ左打ち=の入団発表を行った。阪急との二重契約問題で話題を投げた同投手だけに報道陣も多数つめかけたが、高橋球団社長、佐々木代表、内堀スカウトの巨人関係者、吉沢選手側から母親よしよさん(54)はじめオジ内堀賢郎氏夫妻、同阿部実氏、実兄常美氏らが立ち会った。同投手は発表後多摩川の合宿で川上監督、中尾コーチにあいさつを行った。なお吉沢投手はきょう八日午前十一時からの練習に参加、五、六日東京に滞在したあと、再び北海道に帰り、来春の卒業まで学業に専念する。背番号は仮番号で77。
球界を騒がせた阪急との二十契約問題の間は北海道にひきこもっていた吉沢選手が、初めて報道陣の前へ現れた。カメラマンもふくめて約三十人ほどが待つ読売本社の五階特別会議室。 学生服をきちんと着込んだ吉沢は、さらりとした表情で席についた。まだ童顔が残る1㍍80という上背は、いかにも投打に評判となった力量をしのばせる。前後左右からたかれるフラッシュにもさほど驚いた顔もみせない。野球選手には欠かせない強い心臓も備えているようだ。「前からはいりたいと思っていた巨人に入団できてうれしいです。一生懸命がんばります。巨人のチームカラーがとにかく好きだった。北海道はテレビも野球中継もあまりはいらない。だからプロ野球はほとんど見てないですが、この間の日本シリーズはテレビで見ていて、僕も早く投げたくてたまらなかった。これまでは直球、カーブ、シュートしか投げたことがない。その中で自信があるのはやはり直球です。伊藤さん、藤田さんのような投手になりたいです。トレーニングは毎日ランニングをやっています」問われるままに巨人入りの感想をとぎれとぎれに話した。札幌は一年のうち半分しか野球ができないそうだが、甲子園出場4回(3738年春、3637年夏)しかも彼の投打にわたった活躍は輝かしい高校生活の思い出となっている。とくに打者としての実績も忘れられないが「プロへはいれば、ずっと投手としてやっていきたいです」とはっきりいっている。また打撃もきく左投手ということは巨人投手陣に貴重な存在だが、生まれながらの左ききにも、小学校四年のとき、オジさんにいわれて字など左右で書くようになおされたという。学校でのあだ名はテク「よくわかんないのですが、テクテク歩くということかららしいんです」とちょっとてれくさそいうに笑っていた。ところで阪急との二十契約問題にふれると「世間を騒がせて迷惑をかけたと思っています。もし巨人じゃなくて阪急に裁定がくだされれば、阪急にも迷惑をかけているので、いけないのじゃないかと思っていました」と下を向いた。横からオジの阿部氏が「その話はかんべんしてやってください」と報道陣を制していたが、この試練を乗り越えて、吉沢がどのように大成していくかも、一つのみどころといえるだろう。吉沢投手が多摩川の合宿を訪れたのは三時ちょっと前。この日巨人は一時からトレーニングを行ったが、早めに切り上げたので柴田、船田 、高橋ら宿舎組以外レギュラーは見あたらず、静かなもの。出迎えた武宮、中尾両コーチが「北海道はもう寒いだろう。向こうでは走っていたか」「北海道は冬の間が困るな」と話しかけると、吉沢は「向こうでは毎日軽いキャッチボールとランニングを二時間ほどしていました」と顔を紅潮させた。そこへ川上監督が顔をみせ、ニコニコ顔で手を差しだした。「やあ、おめでとう。自分の思うところへはいれてよかったな。一度君を北海道で見たことがあるが、こんなに大きかったかな。ウチの渡辺とどっこいどっこいだ。まったくたのもしい」真ん中に吉沢をはさんで、中尾コーチと川上監督が交互に背伸びをして周囲を笑わせた。吉沢は「もう、ほんとうに胸いっぱいでものがいえないくらいです。ただ力いっぱいがんばるだけです」と感激していた。
川上監督の話 一週間ほど東京にいるので、今晩は合宿に泊まってもらって、あすから練習してもらう。吉沢はバネがいいし、体力もあるので、二、三年したら左のエースになってくれるだろう。素質も図抜けたものをもっているから、きっとやってくれると信じている。
母親よしよさんの話 いろいろ世間を騒がせましたが、これで本当にほっとしました。勝は小さいときから勝ち気な子でしたが、プロへはいってもくじけることなく、がんばってもらいたいと思うだけです。
佐々木代表の話 私は吉沢君は二十契約じゃないかとはじめから思っていた。しかしなにかと本人も苦しんだことと思うが、これからは巨人軍で一生懸命やるだろう。卒業までは学業に専念させるが、その間のトレーニングの方法などは中尾コーチから指示があるはずだ。
吉沢投手の横顔
甲子園出場のベテラン飛沢監督の秘蔵っ子のひとりとして、道内では一年生のときから注目された大型投手。一年生のときはエース松谷(現東映)の控えで登板の機会に恵まれなかったが、一部では松谷より高く評価されていた二年生の夏の大会でベスト8に残ったとき、松谷が足を痛めたので初めて甲子園のマウンドを踏み、一躍頭角を現した。今春の選抜大会では決勝戦で下関商池永と投げ合って敗れはしたが、チームを準優勝に導く原動力となった。今夏の大会は予選で函館工に敗退している。バッティングもよく、道産子特有の負けずきらいな性格は人一倍。