プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

入谷正典

2017-11-07 21:16:10 | 日記
1970年

入谷正典が明大からプロ野球入りしたのは昭和二十六年の暮れである。彼のもとへ多くのプロのスカウトたちが交渉にやってきた。どのスカウトも、彼が平凡なサラリーマンになれば、とても手にすることもできないような契約金を提示した。そして、彼が選んだのが巨人だった。彼がプロに目をつけられはじめたのは、明大の学部にあがってからであった。旧制大学の最後の卒業生であった彼は、予科時代にはそれほど目立った存在ではなかった。杉下がプロ入りしてから、彼はにわかに脚光を浴びはじめた。おそろしく長い指先から、きゃしゃな体からは想像もつかぬほど速い球を投げた。彼が下手投げという変則投法を身につけたのは、学部の三年になってからである。その年の春、練習中に右ヒザに強い打球を受けた彼は、ひと月あまり入院しなければならなかった。退院したとき、彼は左右の足の太さが十センチほどちがうことを知ってガク然とした。軸になる右足が細くては、投球の際に必要な蹴りがじゅうぶんでなくなる。かつての速球は彼の右腕から消えてしまった。肩の肉も入院生活ですっかり落ちている。やむなく、彼は下手からの速球に活路を見出そうとした。やってみると、思ったより球が走った。(まだ野球がつづけられる)そう思うと、涙の出るほどうれしかった。試合にさえ出られれば、どんなフォームでもいいのだ。彼は懸命に下手投の投法を工夫した。かなりスピードもついてきたし、キレのいいスライダーも出るようになった。なによりの強味は、落ちる球が投げられることであった。長い人さし指と中指の腹をじゅうぶんボールに密着させ、上からきりつけるようにしてはなすと、打者の手もと近くへいって急に沈んだ。たいていの打者は空振りか凡ゴロを打たされるのだった。右ヒザの負傷から一時は採用を断念しかけた巨人も、みごとなカムバックぶりを見て、ふたたび彼に誘いの手をのばした。当時の巨人の投手陣といえば、別所、大友が強力な軸になっていた。別所は本格派だが、大友は下手からの速球と変化球を身上としていた。巨人は第二の大友を狙って、入谷に目をつけたのである。巨人にとって、彼は期待の新人投手であった。しかしナインのすべてが彼を歓迎してくれたわけではなかった。理由の第一は、彼が大学出であることだった。チームの主力選手の中で、大学卒といえば数えるほどしかいなかった。旧制中学を出て、汗と涙でようやくレギュラーの座にたどりついた、文字どおり叩きあげの古強者ばかりだった。そんな中へ、東京六大学出身という花やかなうたい文句をひっさげて入団してきたルーキーに、彼らが暖かい目を向けるはずもなかったのである。ただひとり、大学の先輩だった藤本英雄だけが、なにかと言葉をかけてくれるのが唯一の救いだった。「おまえ、いつの間にそんな投げ方になったのだ」負傷から投法を変えたことを知らなかった藤本は、はじめて入谷のピッチングを見たとき、驚いてそう言ったが、チームになじめずに戸惑っているこの後輩にたえず気を配ってくれるのだった。
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長南恒夫

2017-11-07 20:25:15 | 日記
1957年

長南投手は五尺八寸、十八貫、その左腕から繰り出す内角低目をつく変化球は既に県下高校野球界には定評がある、一年生の時から主戦投手として活躍している名実ともに本チームのエースたる貫禄は十分、過去数試合を通じ必ず相手チームから十五個以上の三振を奪っている、三宅捕手は一昨年度長南投手のリリーフとして大いに活躍したがその球質と強肩を買われ捕手に起用されたもので、豊富な経験を生かし長南投手とよく呼吸を合わせ名バッテリーを組んでいる。


対木更津一戦で延長十八回の投げ合いをやった。匝瑳越川は好投したが、やはり疲労からボールにのびがなかった、これを安房水剣持を中心としたクリーン・アップ・トリオがチャンスによく打ち、よく走って匝瑳を降した、安房水は二回強打者剣持が1-2のあと外角高めの速球を左翼線スタンドぎりぎりにホーマーしてリード、しかし匝瑳もよく食い下り、六回には二死後遊ゴロに出た最上を一塁におき、越川が長南の初球を左翼スタンドに叩き込み逆転、ホーマーの応しゅうにファンを喜ばせた。安房水もこの裏四球と敵失で反撃の糸口をつかみ二死後、剣持、島田の連続二安打で二点を加えてリードを奪った、続く七回にも網代の内野安打と遊撃大木(滋)のトンネルでダメ押しの一点を加え、長南の好投で守り切った、匝瑳も善戦したが長南のシュート、ドロップに手を焼き、越川のホーマーを除いては散発の四安打に押えられ万事休した。
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吉野晃司

2017-11-07 19:48:06 | 日記
1959年

銚子市立高

本年はいままでにないチーム力の充実で張り切っており、大宮大会出場を目指し猛練習を積んでいる。練習試合も活発で銚子商、成田高とは互角の試合を惜しくも失策で失って敗れたほかは多古、旭農、小見川、市原一と対戦して撃破好成績をあげている。投手吉野はアウトコース低目をつく直球とシュートボールを武器に落ちる球とゆるいカーブを使い分けて好調のときは県内Aクラスのチームでも打ちくずすことはちょっと無理、しかもインサイドワークでは県下一と豊田監督自慢の捕手野口の好リードを受け、バッテリー陣は県内でも一級もの、内野陣は主将の寺井を一塁に、二塁工藤、三塁沢田、遊原田の布陣であるが、まだもろさがある。外野陣は何れも俊足強肩ぞろいだ。一方攻撃面では、選球よくネバリのある野口をトップに石毛が二番、これに樫井、寺井、吉野のクリーンアップに、チャンスに強い沢田が続きいままでの練習試合でもここらあたりが得点源となっているが、下位にハリがないのがキズで、この点切れ目のない打線形成に全力をあげている。
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西沢道夫

2017-11-07 19:25:37 | 日記
名古屋軍の養成選手としてプロで生まれた選手。六尺弱の長身を物にして投手としては素直な投球フォームで、投げ下ろしの低目をつく直球とブレーキは小さいが鋭いカーブをもって名軍に相富貢献したのである。全成績五十九勝六十五敗、防御率は二・二二であり、かつては名軍投手三羽烏といわれた一人であった。打力も豊富で金星に転じてからは一塁菊矢の退いたあとを埋めたのが定位置となって今度は打力を生かしている。天分もあるし何時も若さに満ち輝いているのはよい。
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川崎義通

2017-11-07 19:00:46 | 日記
1965年

長崎から船で四時間かかる離島で、地理的に恵まれず、練習相手がいない。従って新チーム結成後の試合数も九州大会予選とNHK杯予選の二試合だけ。しかも昨年から残っているのは川崎、河内の二人だけであり、経験不足が心配。そういったチームだけに昨年につづいてマウンドをふむ川崎が頼り。川崎は昨年にくらべるとスピードは出てきているが、ストライクとボールがはっきりしているのが難点、カーブやシュートも投げるがこのところ直球のコントロールをつける点に重点をおいて練習した結果、だいぶよくなってきた。この川崎はバッティングの面でも中心選手で三割を打ち、長打力もあるところから四番を打つ。このほかシェアーなバッティングをする河内、ファイター三番井川らがいるが、チーム平均打率七厘弱であり、二試合とも得点1点に止まっている。川崎がよくなっているとはいえ、3、4点の失点は覚悟せねばなるまいから、それをはねかえせるかどうか。最近、全般的に上昇しているということだが・・・。
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小川善治

2017-11-07 18:50:40 | 日記
1956年

大映投手陣の中で林とともに最も安定している投手。純粋のオーバースローで、コントロールがよい。最近、横から投げることを覚えたが、まだその必要もなかろう。

千葉商ー明大ー小口工作ー大映、五尺八寸 十七貫 三十一才
右投右打 千葉県 千葉市道場南町三七
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