プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石幡信弘

2017-11-29 17:58:48 | 日記
1969年

社会人時代

投手陣の中心はサウスポーの石幡、清峰伸銅時代は投げてみなければ分からないといった荒れたピッチングで無制球から自滅する場面もしばしばあった。しかし今シーズンはその心配もすっかりなくなったようだ。それだけに相手バッターを恐怖のフチに落とし込む大きなドロップはその威力がやや衰えたが、ピッチングにゆとりがでてきてエースとしての貫禄は十分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮地惟友

2017-11-29 17:37:47 | 日記
1956年

国鉄の宮地惟友投手は、十九日に彼の出身地の金沢市兼六公園球場で行った国鉄、広島24回戦で、日本プロ野球史上三人目のパーフェクト・ゲーム(無安打、無四球、無失策、無得点)をやってのけた。この日の宮地は絶妙のコントロールでのびのあるシュート、カーブ、ドロップ、スライダー気味の直球を投げ、広島の打者はひとりも一塁へ出ることができなかった。九回表に広島の27人目の打者門前の右飛が松田右翼手のグラブにおさまったとたん、四千の観衆からどっと歓声があがり、報道陣の質問攻めにあう宮地投手の顔は汗と涙でクチャクチャになっていた。日本のプロ野球では昭和二十五年六月二十八日青森で行われた巨人ー西日本戦で巨人の藤本英雄投手、昭和三十年六月十九日近鉄ー大映戦で近鉄の武智文雄投手に次ぐ三人目の偉業である。

宮地投手の話 五回に気がつき七回になって完全試合がやれるかもわからないという気持がした。調子は自分でもよかったと思う。出身地の金沢で大記録を作ることができたのはうれしい。

宇野監督の話 ことしの宮地は入団以来はじめての好調ぶりだ。この成長した宮地を郷土の人に見てもらおうと登板させた。勝利投手にさえすればよいと思ったのに、こんな大記録を残したのはすばらしい。彼の投球はその日によってスライダーがよかったり、シュートやカーブがよかったりするが、きょうは三つともそろっており球が生きていた。そのうえバックの守備も運もよかった。もう一つこの快記録を生んだ原動力は、彼がことしはゲームのない日でも走っていたことだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮地惟友

2017-11-29 17:28:39 | 日記
1956年

ファイトがあるのか、ないのかさっぱりわからない。見るからにヌーボーとした男である。スワローズのユニホームを着ることになった昭和二十七年の春、同球団の徳永スカウトが三十㌢もスライダーを投げるからとベタぼれしていたことが思い出される。六尺に近い長身から投げおろすスライダーといいドロップといい確かに威力はあったが妙に彼が登板した日は国鉄打線は打てぬというジンクスがあって、昨年あたりまで不運の投手の第一人者に数えられていた。昨シーズンは3勝10敗と不振、そのうえ背すじを痛めるなど、期待はいつも思わず事故で消えていた。そんなわけで、昨年末の選手の契約更改のときにも球団と条件が折り合わず、全選手中シンガリに契約するといったように、何かママ子的環境におかれていたようでもあった。その彼が今シーズンも七月十七日の対大洋戦で藤井のライナーを左人差指にうけて戦列から遠ざかるなど、その前途はことしもまた不運なカゲがただよっていた。しかし、腰の鍛錬が第一と悟って、走ることに努めたことは彼の投球術の幅をひろげ、また人一倍睡眠と食事に気をくばった摂政は目にみえて自信を深め、八月十五日に初の十勝目を飾った。とかく金田のかげにかくれがちであった宮地が球界三人目の完全試合の快記録を打ち樹てたことは国鉄の若い投手たちにどれほどの刺激を与えたことであろう。快記録樹立の地がその故郷の金沢市であったのもこの上ない思い出となろう。金沢高校出身、二十四才。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする