1966年
「でっかいなあ」-郡山ナインが守りについた一回表、スタンドから思わず歓声がもれた。身長1㍍86、82㌔。マウンドをふんまえた郡山の植村投手の初印象である。植村投手はスタートから力強いピッチングで押しまくった。三回、小千谷先頭の山本の3球目に、はじめてカーブを投げるまで速球一本ヤリ。剛腕投手とあまり手合わせしたことのない小千谷打線は、植村投手の二階から投げてくるようなスピードボールにのまれ、ノーヒットのまま、いつしか八回を迎えていた。この間、走者は四球で歩いた二人だけ。重い速球に二本のバットを折られ、外野には一度しか飛ばなかった。八回裏の二死後、小千谷の広川に打たれた94球目の打球が三塁手のグラブをはじき、ノーヒット・ノーランという大漁を逸した植村投手は、試合後「カーブ、シュートをふくめて変化球は全部で三つ」「ノーヒット・ノーランはおろか、いま何回なのかもよくわからなかった。ただアウトとボール・カウントだけを頭に入れていた」「ホーム・プレートが近くみえました」と語った。つまりあがってはいたが、調子はよかったということになる。王子中学時代からマウンドを踏み始めたそうだが、コントロールのあまさがこの大器の成長をさまたげていた。しかし「3ボールになるまでに、どうすればよいか考えろ」と浴びせられた森本監督の一言がきっかけで、コントロールの重要さと完投のペースがのみこめたという。県予選準々決勝から紀和大会、そしてこの日の試合と、連続5試合完投で、失点は2点だけ。大観衆の見守るヒノキ舞台で、自信を深めた植村投手の真価が問われるのは、むしろこれからだ。