プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

河西宏和

2017-11-26 21:29:33 | 日記
1955年

この一、二年甲子園大会で東京代表が活躍している。二十八年ビッグ・フォアに残った明治高もそうだったが、昨年の沿う実は都会チームの特色を身につけて大いにあばれまわった。その原動力となったのが河西投手である。河西投手は大会前の予選では好投手の話題に入っていなかった。むしろ早実の投手陣は非力とさえ伝えられていたほどである。優勝候補の小倉を破りもっとも注目を浴びている痩実は都会チームの特色を十分生かしている。下馬評では非力といわれた河西投手は、カーブの球道、球質をかえた味のあるピッチングで、二試合17イニング無失点。とくに米子東戦に見せた走者を出せば低目に投げて必ず併殺させるあたりのコツは、高校生ばなれしている。河西は中山(中京商・中日)のように、速球投手でもなければ大きなカーブも持っていない。にもかかわらず安定したピッチングを示すのは、コントロールがよいからである。とくにカーブを、あるいはゆるく、あるいは鋭く内外角に投げわけ、それにシュートをまじえて打者のヒザもとをえぐる。このコンビネーションは走者が出れば、しつこいくらいゆうゆうとけん制して打者の打気をそらすプレート度胸とともに、全く心にくいほどであった。その彼が準々決勝戦で高知商に別人のごとく打たれて(安打9、四球5、得点5)敗戦投手となったのは意外だった。その原因は彼のような技巧派投手の常として球にスピードがのりすぎたためである。折から関西地方を襲った台風5号のため、二日間休養をとったので、当日の肩の調子は非常によさそうだった。私は試合前の彼のウォームアップを見て「いつもよりスピードがありすぎる、過信しなければよいが・・」と案じていた。不幸にも私の予感が当り彼はストレートで外角を攻め、カウントがよくなってはじめてカーブかシュートという単調なコンビネーションで対したので、百戦錬磨の高知勢に外角のストレートを完全にねらわれ、前半早くも四点を奪われた。私も経験があるが、技巧派投手はゲーム前のピッチングで、今月は肩の調子がいい、ホーム・プレートが近く見えると思ったときは、必ずノックアウトされるか、また相当打たれるかしている。これは持前の技巧に頼らず、スピードという魔力にかかり、一つひねってやろうと無造作に投込むからである。技巧派投手がスピードのあるときは、球が軽く高目にいくものだ。そしてこれをねらわれたときほどみじめなことはない。こんごの彼に望むことは、技巧派投手として大成してもらいたいことだ。欲をいえばもう少し球にスピードがほしい水準以上のスピードボールを持たないと、技巧が生きてこない。上背がなく、体格的にハンデがあるので、多くを望むのはむりかも知れないが、フォームとしては右足のけりいわゆるバネが弱いように思う。このバネが強くなりスナップが利けば、もっとスピードが出ると思う。それとシュート、とくに落ちる球を研究しなければならぬ。彼のいまのシュートはプロではストレートと同じだ。大映には投手育成の第一人者の藤本監督、チェンジ・オブ・ペースの名人林投手と、すぐれた指導者がいることは河西にとってこのうえもない幸せといえよう。

プロ入りの動機 私は早大に進みたかった。しかし家庭の事情があり、どうしようか考えているとき題詠からすすめられたので決心した。大学でもプロでも同じ野球をやるのだから・・・。それに自分を求めてくれるところに入った方がよいと思ったので・・・。

身体がないのでせめて腰のバネを強くすること。そのため毎日右足だけのナワとびをしている。技術的には「きめ球」を持つこと。高校時代はドロップをウイニング・ショットにしていたが、だれもドロップとは見てくれず、カーブだといわれていたシロモノですからね。一目みてドロップといわれるようにブレーキを鋭くしたい。

大映の林投手。巧味のあるピッチングを教えてもらいたい。
レコード(長唄・民謡)

五尺六寸五分、十七貫、右投右打、十九歳、背番31。

東京都台東区谷中初菅町1の8
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高田耕作

2017-11-26 19:24:33 | 日記
1954年

足利銘仙で有名な足利市生まれ、北関東のカラっ風の中に育った高田投手は、昭和二十六年足利工高を卒業、すぐ常盤炭鉱に入社した。福島県湯本にその本社があるが、湯本では毎年山の神を祭る行事に併行して、山神野球大会がある。入部早々の彼は石井、荒川を獲得してものすごい張り切り方であった大昭和製紙を四月下旬のこの大会でシャットアウトにおさえ、その名を一躍関東、東北球界に知られた。このとき高田投手は初陣でもあり、無我夢中で捕手の要求のままに投げたカーブ、ドロップが不思議によく、特に直球に伸びがあって、しかも低目低目と入り込んだので大いに威力を発揮したいというところがその後の彼はしばらく受難の時代を送っている。二十七年の第二十三回都市対抗大会にも常盤炭鉱は東北代表として出場しているが、布施(東急)野口、上面らのかげにかくれていた。その間谷口五郎監督のねんごろな指導を受けて着々と腕を上げ、布施の東急入り後はすっかり一本立ちとなって常盤炭鉱のエースにおさまってしまった。二十八年の都市対抗東北予選も決勝戦に進出し、富士製鉄釜石小武方投手とわたり合って好投したが、味方の打撃不振から1-0で敗れ、代表権を失っている。最も彼が好投したのはこの夏の炭鉱大会であろう。彼の怪腕は決勝戦で強豪日鉄二瀬をノーヒット・ノーランの準パーフェクト・ゲームで破った。このニュースはかなりの話題となり、プロのスカウトが耳をそばだてたほどの反響が大きかった。二十八年度の彼の投手成績は、試合数二十二、完投が十、交代九、先発したのが三で勝利投手となったのが十、敗戦投手となったのが七で勝率五割八分八厘防御率は1・21、シャットアウト4、無四球試合2となっている。二十二歳、五尺五寸、十七貫で野球選手としてはとくに投手としては小さい方であるが、手首の使い方がよく、足腰は強く、小躯ながらいい馬力を持っている。しかし体が小さければ小さいほど自分の体を存分利用した投球法を考えなければならないのであるが、彼もまだ腕の伸ばし方に一工夫しなければならない。投球時の右手の出し方が小さくまわってしまうきらいがある。彼の投球はどちらかといえば純粋のオーバー・スローで、相当な速球の持ち主ではあるが、いたずらに速球にのみたよらず、そこに伸びがあるか、どこか変化がないといけない。伸びのない彼の投球は打ちごろになってしまうことを心しなければならない。カーブ、ドロップは小さいが比較的シャープで鋭さがある。低目の伸びのある速球とドロップが彼の生命であろう。人一倍意志強固の努力家であると聞くが、二年間の育ての親谷口氏の一言一句を思い浮かべて精進してほしい。背番号21


谷口五郎氏

私が常盤炭鉱の監督をしていたときに育てた投手だ。身上は鋭く落ちる小さいドロップと外角いっぱいをつく速球だ。これがきまると物凄い威力を発揮する昨年日鉄二瀬を準パーフェクトにおさえたときも、これが鮮やかにきまっていた。しかしときどきこの外角をつく直球が真ん中へ流れて自滅している。もっと的確なコントロールをつけること。上背があまりないのだからウエイトをもっとうまく利用して球に伸びを与えること。肩は強いからこの肩を最大限に使うため膝、腰をもっとなめらかに使うようにつとめること。これが今後の勉強の方向だろう。一見筋肉質でタフなように見えるが、案外内臓は弱く夏バテのおそれも考えられる。十分に健康に注意してほしい。
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松岡光雄

2017-11-26 16:42:00 | 日記
1954年

去る二十二日の午前、松岡は明石に到着した。その途中夜行列車のなかで、生れてはじめて見る雪におどろかされ、まっ暗な午前四時ごろから車窓にヒタイをつけっぱなしで起きていた。明石につき、ミソ汁、ノリ、ラッキョウ、タマゴでメシを五はい食べ、さっそくはりきってグラウンドに出ていった。監督、球友にあいさつし、十分ばかりランニングしたあと、ブルペンで広田を相手にピッチングの練習をはじめた。とても身体が柔らかい。とくにリストはこんにゃくのように柔らかいので、軽く投げる球でもよくのびる。おなじ左投手である松田のあのぎこちないモーションとは正反対で、谷口、新田両コーチも満点をつけた。ただひとつの心配はプレート度胸で、西田投手のようにはじめに自信をなくすと大変だから、水原監督はうまく使うといっている。一塁のケンセイがお家芸で、スピードは十分。カーブの切れもいい。それにフォームの基礎ができているので、コントロールも悪くはあるまい。しいてアラをさがせば別所、大友あるいは金田のようなたくましさがないようで、疲れを知らぬ力のピッチングをかれに望めるかどうか。まず気候に慣れ、日本の野球になじむことである。1950年と51年に母校(イオラニ・ハイスクール)を連続優勝させてから軍隊にはいった。ハイスクールの最後のシーズンの打率が三割一分八厘。こんど日本へ来るまえに計ったベース一塁のタイムが15秒3。与那嶺は「ボクひょりもっと速いヨ」といっている。1951年にはハワイ・ブレーブスのメンバーに加わり、カスパラヴィッチ(近鉄)ルイス(毎日)や西田柏枝らとウイチタの世界ノンプロ選手権大会に出場。また去年の春、サンタマリアの帰りに巨人軍がハワイで試合したとき松岡は四回まで投げて被安打一本。秋には日本にきたロバットの全米オールスターと対戦。五イニング投げて許した安打はやはり一本であった。広島生れの父親は菜園をもち自動車で街にはこんで売りあるくいわば大規模な野菜の行商だったが、二年前になくなった。母親は五つのときに死んで家庭的にはめぐまれない。しかし陽気で、茶目で有名な広田のよき相棒である。兄と姉がふたり、妹ひとりの六人兄妹の下から二番目。1932年2月5日生れ。アメリカ名はダグラス・松岡。それをつめた呼び名はダキ。フラダンスはもちろん、炭坑節もうまい。食べ物で一ばん好きなのはミソ汁とおすし。五尺七寸、二十貫、二十二歳。背番号19

与那嶺要

ボクの弟がおなじイオラニ・ハイスクールの三塁手をやっていたので、ボクは松岡を六年もまえから知っている。柏枝は1949年の一シーズン、イオラニの助監督をやっていたし世界ノンプロ選手権大会にも松岡といっしょにウイチにいった。広田とは朝日球団で一年間バッテリーを組んでいる。そうした関係でボクたち三人と松岡との関係は深い。こんど与儀から阪神に来ないかと誘われたが、松岡はそれをことわって巨人に入ることにきめた。高校時代は大きなモーションから力ばかりで投げていたが軍隊へ入ってからは見違えるようにうまくなった。軍隊では去年7勝0敗の好成績をあげている。一塁ケンセイがうまく、スピードがありカーブの切れも悪くはない。慣れてくれば働くだろう。日本にくるのをとてもよろこんでいま「君が代」を勉強している。
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高橋輝

2017-11-26 16:42:00 | 日記
1950年

国鉄があげた初白星ー対廣島戦にマウンドをふんだ国鉄のエース。高橋投手は期待どおりに左腕からくり出す快速球で田中、白石、岩本、辻井とプロのベテランが顔をそろえた廣島打線をわずか4安打、二点におさえて初のプレートをかざったが、初陣ながら試合度胸もよく九回3-2に追いつめられても悠々せまらず、巧みに1点差を守りきったプレートさばきは天晴れな若武者ぶりであった。東都大学で中大を三度優勝に導き、昨シーズンは得意の速球で三振を奪うこと百九、二シーズン通算すれば二百十四という驚異的な記録を誇る高橋だけにプロ入り早々国鉄の、いやセントラル未来のエースだと騒がれるもの無理はない、だが試合後に「すっかりあがってしまって駄目でした、2ストライクまではとれるのですが、最後の一球となると夢中になってしまって・・・」と正直に若さを語る彼は弱冠十八歳、数万の観衆の拍手と興奮の渦の中にまきこまれた顔を紅くそめた額には、まだ少年の面影さえとどめている。しかし一世の名投手とうたわれた沢村投手が世界最強チームと対戦、懸河のドロップでルースやゲーリックをなやましたのも十八歳のときであった、試合度胸もあり、柔軟性に富む体格にめぐまれて精進をつづける彼には、やがて第二の沢村となりプロ野球の次代のホープとなる栄光への道が約束されている。
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高橋輝

2017-11-26 15:59:12 | 日記
1950年

技術の巧拙は、年齢によって決定するものではない、天性は時によく技術を凌駕するものである。いまの高橋がちょうどこれに当たる。生まれたままのフォームである。わずかに十九歳、五尺五寸の短格は、体質的には必ずしも適格者とはいいがたいが不屈の精神とナチュラルな力がこれを補っている。投げ下ろしの速球とドロップは、なかなか見上げたものであるが、打者の手元にきて、どうしても球速が落ちてしまう。これはやはり恵まれない体つきのためであろう、高橋がこの点をカバーするにはもう少し腰を落し気味に投げることである、腰を落し気味に投げると、それだけウエイトが球にのることになり、球速に伸びも加わり、また非常に球そのものが重くなってくる。シンシナチ・レッズのブラックウェル投手は「投手はいろいろな投球フォームをとるべきである」といっている。この言葉は高橋投手のような体質的に損をしている選手こそ利用すべきはあるまいか、さしてピッチングフォームに大きな欠点もなくむしろ先天的に恵まれた資質を持っている以上、ブラックウェル投手の言は何ものにも代えがたい、大きなサジェスションを与えるものではなかろうか。川上選手も「非常に腰のバネの強い選手である」といっているが、これまた高橋投手のよさを認めているからである。スライドは体に比較してやや大きすぎるが、出来ればもう少し内側に踏み出すと共に、考え合せてピッチングすることである。それだけのことが出来れば肉体的な不足を補って余りあり、技術的に十分な成長を遂げると思う、打者の気を抜くとか打者の打ち気を崩すコツは決して一朝一夕で出来るものでなく、この方は何年間かの投手生活によって体得する以外に手はないのである、高橋の場合はまず己れの才能を十二分に発揮出きるような投球フォームを完成することが名投手への近道である。
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国頭光仁

2017-11-26 15:29:51 | 日記
1954年

昨年四月米子東高から大阪鉄道管理局吹田工場に入ったばかりの若手である。大鉄でははじめ外野手、エース西川の故障で投手に転向した。外野手ではレギュラーになれなかったが、投手になって頭角を現した。昨年の都市対抗第一次予選のリーグ戦では二勝一敗、松下電器と同率のため再度の決戦となり5-4で惜敗した。しかし国頭投手は松下電器に選抜補充され二次予選では富士鉄広畑を2-1、名門鐘ヶ紡化学を5-1と連破、松下を優勝に導いた。本大会では宮原(早大出)の率いる横浜代表日本鋼管に十一回の延長のすえ負けたが彼はこの試合に先発、二回味方が二点リードしたところでベンチの命で降板した。その結果逆に三回に一挙四点を松下は奪われてしまっている。さぞ無念だったに違いない。彼の球は非常に重い。そしてホップする。またアウトコーナーの低目もいい。カーブはあまりよくない。フォームも不完全でとくに腰が沈むのが欠点。腰のひねりを球に乗せればもっともっと球速が加わるはずだ。コントロールもまあまあというところで、全般的にどことなく荒っぽい感じの投手である。五尺八寸、十八貫、二十歳。叩けば面白いともいえる。この際思い切って振り出しにもどり基本からやり直すことだ彼は脚力もあり打撃もいい。外野手にもなれそうだが、あくまで大投手を目指して努力すべきであろう。

大鉄吹田監督 本田竹蔵氏

国頭は外野だったのを体力にほれ込んで投手に転向させた。後で聞いてみると高校時代投手をやっていたそうだが、そうとはみえないほど投手としての型を成していなかった。しかし体力があるので球が重く、将来に楽しみをかけていた。自分が手がけるようになってから一年にもならないのでピッチングの基本も教えきれず私としては、もっと野球を身につけてからプロ入りさせたかった。プロでは飾らずじっくりピッチングのイロハから勉強していくつもりでがんばってほしい。素質もあり、体力もあるのだから基礎が出来たら働くだろう。
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ドゥール

2017-11-26 14:53:05 | 日記
1954年

肩の故障を理由に八月三十日付で高橋から退団を発表されたジェームス・ドール投手(28)はその発表前の二十六日羽田空港からハワイへ帰国したが、同選手の帰国理由に不審をいだいたコミッショナーでは、高橋と同選手との契約がはじめからシーズン契約として正式にとりかわされていたかどうかについて真相を調査することになった。ドール投手は去る六月二十九日来日し、七月一日岡山での対近鉄戦からユニホームを着用、3勝のうち2勝までは東映、毎日を連続シャットアウトするなど高橋球団の新威力となっていたが、同選手の在日中に肩の故障をきいたものもおらず、そのうえ帰国する直前の二十五日にも川崎球場で行われた対西鉄十回戦に先発投手として投げている。これらのことから一部ではこの発表に不審をもっていたが、同選手が帰国してから再び本職の教べんをとるという話もあり、あるいは初めから非合法な二ヶ月契約を結んだのではないかという疑いがもたれたものである。
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神田昌男

2017-11-26 11:04:14 | 日記
1955年

神田がアウト・コース低目をかすめて逃げるカーブときれのいいシュートをきめる。おまけにインターバルが短く目まぐるしく投げてくるのでタイミングをはずされた国鉄はさっぱり振らず散発の四安打。金田も好調で一回手塚に中前イレギュラー三塁打を許しただけヒザもとに入る速球は相変わらず速くドロップは大きい。しかもコントロールよく六回までは無四球、しかし神田の方がツイていた。五回無死小林(章)が三遊間内野安打、一死後高橋の痛烈な三ゴロを中村がみごとにすくいあげたが、二塁送球を箱田がポロリ。南が大きなドロップにやっとバットを合わせたような打球は三塁前絶好の軟ゴロとなって内野安打。しかも神田は1-3後の第五球イン・コース低く落ちるドロップを失敗し小林(章)を三本間に憤死させながら、つぎの同じコースのドロップを空振りするとボールが佐竹のミットをはじいて神田は三振ふり逃げ、金田がホームへかけ寄ったときは三塁走者高橋がホームをふんでいた。大洋はさらに七回一死後南四球神田の三前バントは中村がファンブル、引地が中村の右を抜いて一点を追加した。このリードで神田はより慎重になったが六回中村に中前安打されたときは二死ながらつぎの打者が町田とあって目時の方が心配そう。どうにか町田の中飛にうちとり、九回一死箱田に右中間三塁打されて始めて三塁を許したが小松原、石田を凡飛に打ちとって国鉄連破の立役者となった。

神田投手談「カーブと沈むシュートをおもに投げたが九回、箱田選手に選ぶつもりの直球がストライクになったのを打たれてヒヤリとした」

藤田監督談「神田投手はうちには不思議と強い。タイミングをうまくはずされてさっぱり打てなかった。金田はよく投げていたのだから彼には気の毒だ」
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有吉洋雅

2017-11-26 09:30:55 | 日記
1955年

プロ入りする前当分の間は二軍で苦労して、一日でも早く一軍に入ることを目指すつもりでいたので、夢のような毎日です。学生時代に西鉄のゲームを数回見ましたが、とにかく打つチームだなと思っていました。僕が投げるときもよく打ってくれてツイている感じです。実際プレートに立って投げて見てつくづく思ったのはコントロールが大事だということです。スピードはちょっとあるつもりですが、高校時代ならボールでもそのスピードにつられて手を出してくれましたが、プロのバッターはボールには絶対といっていいくらい手を出しません。あちらこちらと実行するのもいまのところはたのしみの一つ。ボクと同年輩ぐらいの若い選手が多いのでとても愉快です。監督さんは何もいいません、気味が悪いくらいです。ゲーム中はもちろんですが、練習でも合宿でもじっとにらんでいるだけ。僕たち若武者の一挙一同を黙々見つめているだけです。それだけに何事も自分でやっていかなければならないわけですが、プロという本人の世界、実力の世界ではあたり前のことかもしれません。ピッチングについてはコーチの石本さんがいろいろと注意してくれました。正直なところ無我夢中で投げているのでこれといったことはないのですが・・。キャンプ中に覚えたシンカーとフォーク・ボール、これを少し投げているんですがかなり効果をあげているのではないかと思っています。僕が投げるゲームはいつもツイていてとくに失敗して困っているようなこともありません。まだよくわからないということろが本心ですが、比較的変化のないピッチングなので、前で合わせるいわゆる巧いバッターというのが苦手といえばいえます。ことにいやなのが荒川(博)さん(毎日)土井垣さん(東映)です。荒川博さんにはシュート、土井垣さんには速球で勝負するのがいいのではないかと思っています。 はじめは二、三勝よくて五勝をと思っていたんですが、いまとなっては投げられるだけ投げまくるつもりです。細かい点ではシュートのコントロールをつけることが第一です。
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坂上惇

2017-11-26 09:00:51 | 日記
1955年

大映の坂上は横手からの速球をきめ、後半つかれが出てコントロールを欠きはじめるとカーブで逃げ込み完投。大洋は二回一死後四球、別所の左前安打、野手の失策で一点を先取したがその後は無気力な攻撃ぶりで後半の坂上のつかれにつけ込めなかった。坂上は攻撃面でも二回裏レフトへ本塁打して失点を取り返し、四回には左前安打して二走者をかえす活躍ぶりだった。大洋は前半6-1と離されてからは戦意を失い九回表浜田の安打で一点を加えただけで敗れた。
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片田謙二

2017-11-26 08:22:14 | 日記
1956年

ウエスタン・リーグ

広島片田のしゃくるようなくせのあるピッチングはカーブが主武器。そのカーブがサイド・ハンドから外角をねらうため角度が一そう大きくなり、また内角シュートもよく、立上がりと最終回に打たれはしたものの11三振、三回には三者三振という好投であった。広島は一回一死後三原が安打、四球の走者をおいて2-3から好球を左翼二塁打して先行。三回には阿南、桧垣の長短打でまたリードを奪った。このあたりから片田のピッチングはペースにのってらくに試合を進め、四回に選失から藤井の左翼2ランホーマー、六回にも四球、安打、犠飛で加点。七回から代った駒場に八回原田の安打にはじまる三安打、2四球、二失策の打者一巡で、五点をとって大勝。
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宗近守平

2017-11-26 08:07:17 | 日記
1955年

各紙の「キャンプめぐり」や「監督の抱負」を読むと、広島には江津工出身の宗近というあまりファンには知られていない選手の名前が必ず出てくる。江津とは島根県、日本海に面し、最近市になったばかりの小都市である。江津はまったくの無名校宗近の出現で一躍A級にのしあがり、一昨年秋の島根県大会に優勝中国大会でも準優勝、昨春の県大会にも優勝という好成績をあげるようになった。法大に岡崎という左投手がいる体力はあまりないが試合度胸があり、球の配合もうまい。宗近はこの岡崎の身体つきからフォーム、球質までそっくり、岡崎より球質があるだけ宗近の方が上手だ。宗近は中国地区の三振奪取王といわれ、一昨年秋の県、中国地区大会では平均十個以上、昨夏の予選でも六試合で62、とくに東中国大会一回戦では玉島高から三振20を奪って(被安打1、与四球2)いる。このような好成績をあげ、しかもサウスポーという有利な条件を持ちながら、ストーブ・リーグで話題にならなかったのは五尺六寸という短格であるからだ。しかし私は宗近の身体にほれ込んでいる。肩幅、胸囲、腰が非常に発達し身長五尺六寸に比して体重が十八貫もある筋肉質でぜい肉は少しもなくちょうどつい立のようなガッチリした身体つきで、野球選手としては文句ない。フォームはやや固い感じだが下半身が強いので腰のひねり、体重の移動がスムーズ、したがってコントロールがいい。欠点は手首が固いことで、このためにせっかくの強肩と強い腰のバネを持ちながら球にもう一つののびがたりずカーブのブレーキも高いのである。高校時代はこの欠点を意識してほとんどストレート一本で打者と対し、カウントがよくなると外角に逃げるサウスポー特有のシュートで勝負していた。高校生相手ならこれでよかったが、プロではそうはいかない。サウスポーの最大の武器である内角低目をつく速球をマスターするとともにカーブをもっと勉強すべきだ。これまでの宗近のカーブはブレーキも鋭いしスピードも直球にくらべて落ちすぎる。これを研究せねばならない。

プロ入りの動機 早大に進みたいと思っていたが、家庭の事情でプロ入りした。

高校時代からスピードには少しばかり自信をもっていたが、コントロールがないためスピードが死んでしまうことがしばしばだった。まずコントロールをつけることスピードもいままでのものでプロで通用するとは思っていない

目標とする選手 巨人の中尾さんと広島の川本、片田さんです。いずれもサウスポーでありながらコントロールがあり、安定性があるからです。

趣味 映画(西部劇)音楽(ジャズ)

五尺六寸十八貫、左投左打十八歳、背番29。

現住所島根県邇摩郡温泉津いの五八。
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長尾旬 勝利日

2017-11-26 07:29:39 | 日記

1956年10月3日
1956年10月6日
1957年9月15日
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