プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

加倉井実

2020-08-01 08:25:29 | 日記
1982年

加倉井実(48歳)という名前を聞いて中年以上のファンなら、すぐさま、昭和30年の日本シリーズが思い起こされることだろう。南海に1勝3敗。ガケッ淵に立たされた巨人を一気に大逆転に導いたヤングパワー。その筆頭が加倉井さん。現在、水戸市内でアパートを経営、静かな人生を送っている加倉井さんだが、30年のシリーズを語る時はやはり、その言葉に力がこもる。

「藤尾、加倉井」とよくいわれる。このシリーズのヤングヒーローの2人だ。しかし、シリーズでの実質的な貢献度を見れば、むしろ「加倉井、藤尾」の順が妥当に思える。藤尾茂さんの第5戦での3ランがあまりに強烈な印象を与えるので、加倉井さんがワリを食っている感じで、出場した試合すべてに安打を放ち、・455の打率は巨人一。これに比べ藤尾さんの打率は1割台。やはり、加倉井さんがこのシリーズのヤングヒーロー№1なのだ。若手起用で窮状打開を図ろうとした当時の水原監督(故人)は第4戦に2人を代打で使い、第5戦からはスタメンで登場させ、これが見事に図に当たった。2人はポイントになるところで、好打を放ち、水原監督の期待にこたえた。いまでは、シリーズ用兵の古典になっている27年前の出来事である。「あのころの巨人は20才そこそこの若者には、あんというか恐ろしいようなチームでしたねえ。川上、千葉、別所、中尾…。もう、名前だけで縮みあがりましたよ。そんなところで私らを使ったのだから、水原さんも破れかぶれだったのでしょう」だから、加倉井さんも妙な責任感にしばられることもなかった。「南海の投手の宅和なんか同年代でしょう。打てないわけがないんだと自分にいい聞かせると、すごく気が楽になりましたね」無心で打っているうちにシリーズは終わり、巨人は日本一になっていた。水原監督は、この活躍がよほど印象に残ったのだろう。清恵夫人との結婚の晩酌人を快く引き受けてくれた。水原監督が、プロ野球選手の仲人役をつとめたのはこれが初めてだった。「当時の巨人の選手はやることすべてが豪快だった。ナイターの後、そのまま車で熱海に行ってドンチャン騒ぎ。翌日またケロッとしてナイターなんてのがしょっちゅうでした」とはいっても若手には辛いことも。試合後、主力選手が風呂を浴び、帰宅の車に乗るころ、加倉井さんたちは、ようやくベンチを出る。すべてにこの階級性は貫かれており、そのケジメは厳しかった。ファーム時代、左ヒザに投球を当てたのが後々まで尾をひき、選手寿命を縮めることになる。35年に、敬愛していた千葉茂氏の後を追って近鉄に移り、翌年限りで引退した。2人の息子さんも、常北高、母校・水戸商で硬球を握った。アパートにも水戸商の部員がおり、夜になると、加倉井さんの指導を受ける。7年前に大病をして体がやや不自由だが、野球への情熱は変わらない。「いまの野球選手は可もなし不可もなしで毎日を送るだけ。本当のプロが少ないですねえ」30年の4試合に完全燃焼した加倉井さんには、現代っ子が歯がゆくて仕方がないようだ。
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山下慶徳

2020-08-01 08:05:42 | 日記
1982年

強肩強打で鳴らした外野手はいま、東京・大塚で喫茶店「ドリアン」の経営者。「ヤクルトの山下さんじゃない」というお客さんの声にマスターの顔はつい、崩れる。

「肩の強さ、これだけが取柄だったですからね」こういって笑う山下さんだが、その遠投力は群を抜いていた。神宮球場での遠投競争。山下さんがホームベースから軽い助走をつけて白球を空に飛ばすと、ボールはバックスクリーンを直撃した。「120㍍は確実に投げたと思います」と山下さん。左中間、右中間の広い神宮には、うってつけの外野手だった。この肩の強さ、高校時代(和歌山海南)、速球投手として鳴らした名残りである。2年のセンバツ(38年)。山下投手は、下関商の池永正明投手と2回戦で延長16回を投げ合い、3対2で惜敗。2年生投手同士の豪快な投手戦は、この大会のベスト・ゲームといわれた。池永投手は2年後、すぐプロ入りするが、山下さんは社会人(河合楽器)で6年間、足踏みする。「プロでやりたいとは思っていたんですが、会社の引き留めやらなにやらで、結局、45年まで待ちました」この年、ドラフト1位でヤクルトに指名された。この時の3位が若松、4位が渡辺、8位が会田、10位杉浦。大豊作の年だった。2年生の雄伏ののち、3年目に130試合にフル出場、打率も・259を記録、外野の一角に完全に食い込んだ。「当時、三原監督、中西コーチとすばらしい人がいましたからね。とくに中西さんには徹底的に鍛えられました」このころ、池永投手はどうしていたか。黒い霧ですでに永久追放、球界を去っていた。山下さんは運命のいたずらをつくづく感じたという。が、せっかく手に入れたレギュラーの座が、次の年からどんどん遠くへ逃げ去って行った。「慢心したんでしょうねえ」という山下さんだが、江夏(現日本ハム)の速球を打つため、一日1000本の素振りもやった。早出の特訓も志願した。それでも、いったん自らの手から滑り落ちたものを取り戻すのは至難のワザなのだ。やはり、球速がなかった、ということなのだろう。「もう去年は、自分でも力の衰えはどうしようもないとわかりましたからねスッパリやめましたよ」やめてから、次の生活のアテがあるわけではなかった。しかし、11月にやめてことしの2月には「ドリアン」を開店した。男一人、踏ん張ったのである。7月には、あの池永さんがお祝いにかけつけてくれた。プロではスレ違いだったが、19年前の甲子園の思い出話に花が咲いた。「彼を球界から追放したのはまったく間違いですよ」山下さんは語気を強めた。へたをすると14時間ぐらい店で立ちっ放しになる。「なかなかシンドイですよ」長男が少年野球のチームにいる。が、父親はポジションも知らないし、試合も見に行かない。「野球」という過去が、山下さんにはまだ生々しすぎるのだろうかー。
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