1982年
加倉井実(48歳)という名前を聞いて中年以上のファンなら、すぐさま、昭和30年の日本シリーズが思い起こされることだろう。南海に1勝3敗。ガケッ淵に立たされた巨人を一気に大逆転に導いたヤングパワー。その筆頭が加倉井さん。現在、水戸市内でアパートを経営、静かな人生を送っている加倉井さんだが、30年のシリーズを語る時はやはり、その言葉に力がこもる。
「藤尾、加倉井」とよくいわれる。このシリーズのヤングヒーローの2人だ。しかし、シリーズでの実質的な貢献度を見れば、むしろ「加倉井、藤尾」の順が妥当に思える。藤尾茂さんの第5戦での3ランがあまりに強烈な印象を与えるので、加倉井さんがワリを食っている感じで、出場した試合すべてに安打を放ち、・455の打率は巨人一。これに比べ藤尾さんの打率は1割台。やはり、加倉井さんがこのシリーズのヤングヒーロー№1なのだ。若手起用で窮状打開を図ろうとした当時の水原監督(故人)は第4戦に2人を代打で使い、第5戦からはスタメンで登場させ、これが見事に図に当たった。2人はポイントになるところで、好打を放ち、水原監督の期待にこたえた。いまでは、シリーズ用兵の古典になっている27年前の出来事である。「あのころの巨人は20才そこそこの若者には、あんというか恐ろしいようなチームでしたねえ。川上、千葉、別所、中尾…。もう、名前だけで縮みあがりましたよ。そんなところで私らを使ったのだから、水原さんも破れかぶれだったのでしょう」だから、加倉井さんも妙な責任感にしばられることもなかった。「南海の投手の宅和なんか同年代でしょう。打てないわけがないんだと自分にいい聞かせると、すごく気が楽になりましたね」無心で打っているうちにシリーズは終わり、巨人は日本一になっていた。水原監督は、この活躍がよほど印象に残ったのだろう。清恵夫人との結婚の晩酌人を快く引き受けてくれた。水原監督が、プロ野球選手の仲人役をつとめたのはこれが初めてだった。「当時の巨人の選手はやることすべてが豪快だった。ナイターの後、そのまま車で熱海に行ってドンチャン騒ぎ。翌日またケロッとしてナイターなんてのがしょっちゅうでした」とはいっても若手には辛いことも。試合後、主力選手が風呂を浴び、帰宅の車に乗るころ、加倉井さんたちは、ようやくベンチを出る。すべてにこの階級性は貫かれており、そのケジメは厳しかった。ファーム時代、左ヒザに投球を当てたのが後々まで尾をひき、選手寿命を縮めることになる。35年に、敬愛していた千葉茂氏の後を追って近鉄に移り、翌年限りで引退した。2人の息子さんも、常北高、母校・水戸商で硬球を握った。アパートにも水戸商の部員がおり、夜になると、加倉井さんの指導を受ける。7年前に大病をして体がやや不自由だが、野球への情熱は変わらない。「いまの野球選手は可もなし不可もなしで毎日を送るだけ。本当のプロが少ないですねえ」30年の4試合に完全燃焼した加倉井さんには、現代っ子が歯がゆくて仕方がないようだ。
加倉井実(48歳)という名前を聞いて中年以上のファンなら、すぐさま、昭和30年の日本シリーズが思い起こされることだろう。南海に1勝3敗。ガケッ淵に立たされた巨人を一気に大逆転に導いたヤングパワー。その筆頭が加倉井さん。現在、水戸市内でアパートを経営、静かな人生を送っている加倉井さんだが、30年のシリーズを語る時はやはり、その言葉に力がこもる。
「藤尾、加倉井」とよくいわれる。このシリーズのヤングヒーローの2人だ。しかし、シリーズでの実質的な貢献度を見れば、むしろ「加倉井、藤尾」の順が妥当に思える。藤尾茂さんの第5戦での3ランがあまりに強烈な印象を与えるので、加倉井さんがワリを食っている感じで、出場した試合すべてに安打を放ち、・455の打率は巨人一。これに比べ藤尾さんの打率は1割台。やはり、加倉井さんがこのシリーズのヤングヒーロー№1なのだ。若手起用で窮状打開を図ろうとした当時の水原監督(故人)は第4戦に2人を代打で使い、第5戦からはスタメンで登場させ、これが見事に図に当たった。2人はポイントになるところで、好打を放ち、水原監督の期待にこたえた。いまでは、シリーズ用兵の古典になっている27年前の出来事である。「あのころの巨人は20才そこそこの若者には、あんというか恐ろしいようなチームでしたねえ。川上、千葉、別所、中尾…。もう、名前だけで縮みあがりましたよ。そんなところで私らを使ったのだから、水原さんも破れかぶれだったのでしょう」だから、加倉井さんも妙な責任感にしばられることもなかった。「南海の投手の宅和なんか同年代でしょう。打てないわけがないんだと自分にいい聞かせると、すごく気が楽になりましたね」無心で打っているうちにシリーズは終わり、巨人は日本一になっていた。水原監督は、この活躍がよほど印象に残ったのだろう。清恵夫人との結婚の晩酌人を快く引き受けてくれた。水原監督が、プロ野球選手の仲人役をつとめたのはこれが初めてだった。「当時の巨人の選手はやることすべてが豪快だった。ナイターの後、そのまま車で熱海に行ってドンチャン騒ぎ。翌日またケロッとしてナイターなんてのがしょっちゅうでした」とはいっても若手には辛いことも。試合後、主力選手が風呂を浴び、帰宅の車に乗るころ、加倉井さんたちは、ようやくベンチを出る。すべてにこの階級性は貫かれており、そのケジメは厳しかった。ファーム時代、左ヒザに投球を当てたのが後々まで尾をひき、選手寿命を縮めることになる。35年に、敬愛していた千葉茂氏の後を追って近鉄に移り、翌年限りで引退した。2人の息子さんも、常北高、母校・水戸商で硬球を握った。アパートにも水戸商の部員がおり、夜になると、加倉井さんの指導を受ける。7年前に大病をして体がやや不自由だが、野球への情熱は変わらない。「いまの野球選手は可もなし不可もなしで毎日を送るだけ。本当のプロが少ないですねえ」30年の4試合に完全燃焼した加倉井さんには、現代っ子が歯がゆくて仕方がないようだ。