プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

島田幸雄

2020-08-02 23:23:39 | 日記
1982年

ひと振り人生という言葉がある。ここ一番に代打で起用される選手のスリリングな野球生活をさす。が、この言葉が生まれたのはそう昔のことではない。この島田幸雄さん(45歳)が三原監督(当時大洋、現日本ハム代表)の魔術の先兵として、快打を飛ばしていた30年後半ではなかっただろうか。元祖代打男のその後の人生もこのパイオニア精神が大きな支えとなっている。俗に三原魔術といわれるが、その内実は案外知られていない。魔術の中で踊った島田さんの話は、その一端をうかがわせて興味深い。「優勝した35年なんか、われわれ選手は、あやつり人形でしたね。なにをやっても成功した。一度の失敗もなかった」(島田さん)しかし、あやつり人形であることに、まったく不満はなかった。「とにかく三原さんは驚くべき観察力と記憶力で、すべての選手の行動を頭の中に叩き込んでいた。だから、どんな状況でどんな選手を使えばいいかを即座に決めることができた。といって機械のような冷めたさはなく、昼間から選手と一緒にビールをあおることもやりましたからね。知らず知らずのうちに、選手は三原さんの腕の中に吸い寄せられていたわけです」(島田さん)これだけでは、まだ抽象的だが、こんなこともあった。当時は巨人・水原監督(故人)がドジャース仕込みのブロックサインで話題をさらっていた。三原監督はそれを横目でにらみながら「あんなめんどくさいもの、だれがわかる。サインなんか簡単なほどでエエ」とうそぶいた。「三原さんの盗塁のサイン、これどうしたと思います。なんと舌を出すんですよ。ペロッとね」(島田さん)なるほど簡単だが、巨人コンプレックスの強かった当時の大洋の選手には、この、相手を小馬鹿にしたような三原さんの態度が、なんとも痛快に映ったのである。「なんていうか、代打の時の三原さんとの呼吸は、女房とのそれよりもっとビックリ、という感じだった」と島田さん。このっ呼吸が左の島田、右の麻生(実男)といわれた大洋の恐怖の代打陣を作り上げることになる。法大から34年に大洋入り。41年に中日へ。この年限りでプロから足を洗った。実家は神戸の網元。「神戸の島文」といえば、知らぬ人のない大きな網元で、しばらくは家業を手伝ったが、上京してサラリーマン生活に入った。現在は、オフィスなどに設置するコーヒーメーカーの販売業に従事している。「代打人生から学んだものは二等兵精神ですね」と島田さんは笑う。「これ以下の兵隊はいない。そう思ったらなんでもやれますよ。野球では相手は絶対、協力してくれない。だって、打てないからといって投手が下から投げてくれんでしょう。商売なら誠意をもって臨めば相手は協力してくれる。この点は野球の方が難しいかもしれませんね」球場にはよく通う。「最近の若い選手はストライクを平気で見送るのが多い。あれがボクにはわかりません」その一球に全神経を集中した。いかにも代打プロフェッショナルらしい言葉である。
コメント
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