プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

倉持明

2020-08-12 17:03:56 | 日記

1975年

一軍入りは目前。下手からのクセ球は、おもしろい存在。ファームの成長株だ。

1976年

まじめさではロッテでも屈指。地道な努力で昨シーズンは中継ぎ投手としての地位を築き上げた。下手からのくせ球はワンポイント・リレーに効果的。投手王国ロッテでもなくてはならないタイプとして貴重な存在。 

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佐藤貞治

2020-08-12 16:59:13 | 日記

1992年

九州高校球界屈指の左腕投手。2年の春、センバツ大会に出場。投げるだけでなく、バッティングにも非凡なものを見せた。昨年5月26日の対沖縄水産高を1-0で完封した腕前はみごと。度胸も満点だ。相手に臆することなく真っ向から勝負に出る投球に、大小二種類のカーブの制球力も良い。「大野さんや川口さんを目標に一日も早く一軍で投げたい」と希望を語る。宮川担当スカウトは「2、3年後に出てくる」と期待する。 

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望月秀通

2020-08-12 16:56:52 | 日記

1992年

延長11回2死満塁、ヤクルトの7番手鈴木平が投げた5球目、打席に立った望月が右手でバットを高く、一塁側のベンチに向かって突き出した。今季二度目の押し出しサヨナラ勝利だ。思わぬヒーローになった望月が、一塁ベースを踏んだ途端、ベンチから流れ出て来たナインに手洗い祝福を受ける。「何も考えてなかった。ベンチから出る前に監督やコーチからバットを短く持って打て、と言われたくらい」6年目にしてようやくつかんだプロ初勝利。実感もつかめないまま、ひょうひょうと山本監督と握手をかわした。延長11回からマウンドに立った右腕。野手17人すべてを使い切ったため、自らバッターボックスに立って勝利を呼んだ。静岡高時代には通算82勝もさることながら、主砲として打率3割8分、本塁打も10本と打撃に非凡なものを備えていた。「とにかくインコースにきたら当たってやろうと」初白星にかける執念がチームの勝利を呼んだ。


1994年

中継ぎ、抑え、そして先発にとフル回転の昨季だった。48試合に登板し、7勝8敗。特に前半戦は大野とダブルストッパーを組み、チームの開幕ダッシュに大きく貢献した。落差の違うフォークボールを巧みにあやつり、安定感は抜群。夏場、背筋を痛め戦列を離れると同時にチームが下降線をたどったことを考えてみても、望月の存在の大きさがうかがえる。一年間、けがなく働いて「故障がちというイメージを一掃する」ことが今季の第一の目標。そのために、オフはしっかりとウエートトレーニングを積んできた。また、投球練習での球数を増やし、スタミナづくりに励むなど、中継ぎだけでなく先発にも意欲を見せる。「絶対に落とせない試合に、安心して送り出される投手に」昨年以上の活躍を誓ってシーズンに望む。 

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藤原真

2020-08-12 14:52:59 | 日記

1982年

ヤクルトの、というより、やはり「慶応の」藤原といった方がしっくりくる。42年春、前年の春最下位、秋5位というチームをその右腕で一気に優勝に導いた力投は、六大学史上でも特筆に価する。投球回数121は一シーズン最多投球回数としていまだに六大学記録。このドラマチックな球運は、プロ入りしてからも変わらなかった。「とにかく、野球に関して思い残すことはありませんワ」(藤原さん)だから、現在の会社(大阪市東区北浜にある繊維メーカー)にも、なんのためらいもなく移った。そしていま営業第一課課長のエリートコース。野球でも仕事でも完全燃焼の慶応ボーイである。

プロ通算23勝48敗。目立つほどの成績ではない。だが、プロ入り初登板で初勝利。しかし相手は巨人。最初に対戦した打者が長嶋。初被ホーマーが王。そして王に300号ホーマーを献上したのも藤原投手。ついでだが、慶応時代、法政・田淵(現西武)に、六大学新記録の9号ホーマーを打たれてもいる。こう並べれば、藤原さんがいかにドラマチックな投手だったかがわかろうというもの。「本当に、野球をやっていてよかった」という藤原さんの言葉は、まさに実感なのだ。だから、選手藤原にはさほど未練はなかった。だが野球そのものに対する愛着は、そう簡単には消えなかった。「一度だけ、かなり迷ったことがあるんですよ。日本ハムの大沢監督からピッチングコーチとして残ってくれないかという話があったんです」この時(51年のオフ)すでに野球選手をやめることを決めていた藤原さんだが、やはり野球の二文字にグイグイ吸い寄せられた。「でも、その時31歳。失敗してもやり直しがきく。思い切って新しい世界へ飛び込もう。そう考えてこの商売を選んだのです」と藤原さん。この選択は成功した。藤原課長の社内評は「人間に迫力がありますね。それでいて細かいところまでよく気の付く人」(第一課員の話)と上々。課内には活気がみなぎっている。「ボクはすばらしい野球人生をすごしたと思う。そして現在の仕事にも満足している。あの藤原はどうしてる?と聞かれたとき、今、どこでどうがんばっている、と立派にいえる人生を送りたいですね」という藤原さんだ。今のプロ野球については、自分にとってはもう過去のこと。あまり勝敗にこだわらないで野球を見ているという。しかし「私がアトムズ時代(現ヤクルト)、武上さんには、東京で隣に住んでいたこともあって、いろいろお世話になりました。今のヤクルトを見ていると、監督は大変だろうなあと思います」と古巣・ヤクルトの惨状は、やはり気になる。「そして、大阪に住んでると、どうしても阪神が気になりますね。安藤監督が慶応のOBということもありますが、子供が、阪神、阪神でしょう」と藤原さんはニガ笑い。だが、長男・孝クン(小4)、次男・実クン(小2)は、野球は見るだけで、サッカーに夢中。「やっぱり親としては、野球をやらせたいですね。プロ野球の選手に、という夢もあるんですよ」いまはエリート・サラリーマンの藤原さんだが、その人生のルーツはやはり野球なのだ。

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ラドラ

2020-08-12 14:32:58 | 日記

1958年

今シーズンの東映は爆発的な人気を集めている。原因はいろいろあるが、ラドラの活躍も一因であることは間違いない。躍進東映打線の推進力だからだ。ラドラは昨年米国マイナー・リーグBクラスのスリー・アイ・リーグのぺオリアにいた。これはヤンキースのファーム・チーム。ラドラがヤンキースと関係を持ったのには次のような話がある。三十年ヤンキースは毎日新聞社の招きで日本にやって来た。途中一行はハワイで土地のノンプロ・チームと親善試合を行った。この時ハワイ・チームの中堅を守ったラドラは好守強肩を見せた。ステンゲル監督はすっかり気に入り、これが縁で三十一年同じリーグのクインシーに入団が決定した。昨年はペオリアに移った。ここで打率二割八分九厘、本塁打十五、打点七十、盗塁三十一を記録した。ラドラは二月伊東のキャンプに入ったが、素晴らしい打撃振りを発揮、岩本監督の目を細めさせた。ペナント・レースになって、初めは悪かったが、徐々に力を上げた。長打力を持ち、強肩好守は非の打ちどころがない。大毎の小野投手は「球を良く見る。それに真ん中から外は絶対に強い。振り幅が狭く、確実だ。ピンチに強い。恐い打者だ」といっていた。技術面で秀でているばかりでない。職業意識に徹しているのもラドラの長所だ。こんな話がある。いつだったか布施投手が好投した。ところが味方打線がさっぱりで、布施に報いることが出来ず敗れてしまった。ラドラと橋本は布施にすまないとなんどもあやまり、監督からもよろしくいっておいてくれと頼んだという。もう一つ。某選手が全力疾走を怠って併殺を食ったことがあった。ラドラは色をなして怒り、岩本監督にその選手を減給にしてもらいたいと申入れたそうだ。だから彼のプレーはいつも真面目である。十八日現在の成績は試合数四十九、打数百七十八、安打四十五、本塁打六、塁打七十九、打点二十四、打率二割五分三厘で第十五位である。ひところベスト・テンに顔を出していたこともあるが、右腕の故障でしばらく休んだ。これがたたってか、このところやや低調、だがこれからまた出て来るだろう。祖父はポルトガル人、祖母がスペイン人。この間に生まれた父と中国とフィリピンの混血の母とに出来たのがラドラ。奥さんは日系米人。身長一・七八㍍、体重七八・八㌔、きりっとしたつら構えだ。

 

岩本監督の話 プロ野球に徹している。今大きなのを打とうとして力み過ぎ、調子が落ちているのでやや焦りが見える。しかし実力はあるのだから、心にゆとりを持てばまだまだ打てる。守備や走塁についてはいうことはない。

 

ラドラ選手の話 今は余り調子は良くない。しかしこれからまた打つよ。こんな成績ではチームに申訳ないからね。自信はある。日本の投手はなかなか巧い。

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