2001年
大リーグ・フィリーズから経験豊富なサウスポーがやってきた。ずば抜けて速い球を投げるわけではないが、抜群のコントロールとカーブ、シュート、スライダー、そしてウイニング・ショットとなるチェンジアップと多彩な変化球を織りまぜながら、打たせて取るハッカミー(前ヤクルト)に似たタイプの技巧派。キャンプ中は森野球の全てを吸収しようと、何事にも積極的に取り組んでいた姿勢は、シーズン本番で必ずや生きてくるだろう。
2001年
大リーグ・フィリーズから経験豊富なサウスポーがやってきた。ずば抜けて速い球を投げるわけではないが、抜群のコントロールとカーブ、シュート、スライダー、そしてウイニング・ショットとなるチェンジアップと多彩な変化球を織りまぜながら、打たせて取るハッカミー(前ヤクルト)に似たタイプの技巧派。キャンプ中は森野球の全てを吸収しようと、何事にも積極的に取り組んでいた姿勢は、シーズン本番で必ずや生きてくるだろう。
1998年
干場崇永投手が5月30日の近鉄戦(大阪ドーム)で、6年目にしてうれしいプロ初勝利を飾った。「最初は、僕が勝利投手なんて知らなかった」先発の武藤が3点リードの4回2/3、あと一人で勝利投手の権利を得るという場面で降板。その後、小刻みの中継ぎリレーが展開され、5番手として最後の2イニングを無失点に押えた干場に、貢献度から勝ち星がついた。「本当はもっと早く勝ちたかったけれど、力がなかった」入団当時は、MAX150㌔の速球で伊良部二世と言われた逸材。しかし昨年、右肩を手術、球速は衰えたが、その代わりに開幕後、二軍で新球・シュートを会得。ピッチングの幅が広がり、才能が一気に開花。普段は表情を表に出さない右腕だが、この時ばかりは満面の笑顔を見せた。チームにとって今や、ロングリリーフができる、貴重な中継ぎ、今後も注目だ。
1991年
目標は大きく、遠藤2世だ。東北のジャンボ右腕は、希望に胸をふくらませた。「大洋の遠藤に似たフォームで、手が大きい。フォークボールをマスターしやすい条件はそろっている」と三宅スカウトは、将来性に富んだ素材として評価した。全国的には無名だが、140キロ近いストレートとしっかりしたコントロールは大きな可能性を秘めている。
1994年
助っ人獲得で再三ヒットを放っているベイスターズが「何人かいた候補の中で最も欲しかった投手」がスコットだ。サイドハンドぎみの右腕からフォーク、ムービングファーストボールをコントロール良く操る。三振奪取率に目を見張るものあり。25歳の若さだ。一昨年3Aでチームメイトだったローズ同様、日本での大成の可能性十二分。近藤監督の構想はストッパー役だ。
1998年
昨年秋の鴨川キャンプ、来日した翌日、早速ブルペンに入り、ビュンビュン投げ始めたのにはびっくりさせられた。メジャーの経験こそないが、しなやかな左腕から投げ込むキレのいい速球がミットにはじけ、小気味良かった。軽く145キロはクリアしていたはずだ。一見、若い頃のサミー・デービスJr.に似たやさ男らしからぬ豪腕に首脳陣の目がキラリと光った。外国人枠という厳しい壁があるものの、25歳という若さが、楽しい夢を描かせてくれる。
1999年
登板2戦目で殊勲の星を挙げた。4月12日のオリックス戦(東京ドーム)7回途中から4番手で登板、打者10人をノーヒット、4奪三振を完璧に抑えこみ、延長10回、自軍のサヨナラ勝ちを誘い出している。スクリュー気味に落ちたり、フッと沈んだり。得意のシンカーを駆使しての味のあるピッチングも、この1勝のみ、というのは寂しかった。ストレートに制球力をつけて、まずは打者を押し込んでいきたい。26歳の若さはまだまだ大きな可能性を秘めている。
2000年
あのチャンスをモノにしておきたかった。8月に入って先発陣が苦しくなり始めた頃、左打線対策に起用された時だ。15日の西武戦、続く22日のダイエー戦に先発したが、いずれも中盤に打ち込まれている。左腕からのくせダマも常に四球がからみついては防ぎきることは出来なかった。やっと29日の近鉄戦(東京D)で唯一の勝ち星を挙げたが、これも5回7安打、6四球。2失点に止められたのが不思議なほどの内容だった。粗削りな魅力は確かにある。キレのいいストレートに鋭い変化を見せるチェンジアップ。27歳という若さが拍車をかけて大化けしそうな雰囲気をその周辺に漂わせているが、四球から崩れる最悪のパターンから何としても抜け出したい。オレラーノが一軍の座を不動のものにするにはイチにも二にも制球力の取得にかかっている。
1990年
「外人選手は、あれだけ高い金をもらっているんだから、働いて当然」といわれる。近ごろでは「若い、安い」の選手を日本で育てることも多いが、それでもやはり「助っ人」なのであるから、チームを助けてもらわなければ、お話にもならない。目下、5位のヤクルト。その窮状を救うべく、15日の巨人戦、わずか3日前に来日したばかりの新外人・ロックフォードが先発した。来日の記者会見で「ゲームから3週間遠ざかっているが明日(13日)投げろといわれれば投げる」と、自ら即先発登板をアピールしてはいたものの、番記者はみな加藤(もしくは内藤)を先発を予想していた。開けてビックリ、玉手…いやロックフォード、といったわけだが、野村監督にしてみれば、初モノに弱い巨人相手。3失点は覚悟しなければならない加藤なら、いっそのこと未知数のロックフォードで…の胸算用があったのかもしれない。新助っ人への期待。だが結果は、3被本塁打4失点で、5回降板。元広島のランスから来日前に日本球界のレクチャーを受け「最初が大事と聞いている」といっていたロックフォードも最初の登板後は「4試合ぐらい投げなければ、日本野球の印象はわからない」に早変わりしてしまった。そういえば、パ・リーグの某チームには、6試合投げても打たれてばかりの新外人もいるけれど…。それに比べりゃ給料が安い分、救いといえば救いだが、ロックフォードが本当の助っ人になってくれるまで、果たしてヤクルトは待てるだろうか…。
1992年
頑張り屋。ひたすらにプロ野球選手をめざした。一年前の春、大学進学を断念。プロ野球入団テストへ向けて、一年間ひそかに、ひとりぼっちの孤独なトレーニングに耐えて励んだ。カープには3度にわたるテストを受けて合格。「ややサイドスロー気味の変則な投球ながら手首が柔らかいし、キレのいい球を投げる」とは備前チーフスカウトの評。今後、体全体の筋力がついてくれれば、著しい飛躍も期待できる。
1973年
好投手と折り紙つきの高松・植上投手が、やはり評判どおりひと味違うピッチングをみせた。落着いたプレートさばきで外角速球とカーブ、内角シュートを自信たっぷり投げ込んだ。
1993年
日本ハムが第三の外国人選手として大リーグ、シカゴ・ホワイトソックスの傘下のAAA、ナッシュビルの右腕・フランク・カンポス投手(25歳=186㌢、76㌔)に候補を絞り込んだことが明らかになった。さっそく11月1日に、コミッショナー事務局にカンポス投手の身分照会が行われ、早ければ今月5日から始まっている千葉・鴨川での秋季キャンプ中に同投手をテストすることになる。日本ハムには現在、マット・ウインタース外野手、リック・シュー内野手の両外国人選手がいるが、来季から外国人出場枠が3人と増える。3選手の同時出場には投手、野手の組み合わせが必要になる。そこで、来季優勝を目指す日本ハムは投手獲得に動いていた。カンポス投手は今季、19試合に出場して7勝5敗。防御率は3.55の数字を残した。昨年、AAAに上がったばかりの成長株だけに、カンポス投手の実力に注目が集まる。
日本ハムの新外国人選手候補、フランク・カンポス投手(25歳=AAA級ナッシュビル)が11月10日、テストのため千葉・鴨川の秋季キャンプに合流しました。熱いベネズエラの長旅の疲れも見せず、初日からいきなり、首脳陣にやる気をアピールしていました。カンポス投手はすでに妻カルメンさんに、一男一女の父親ということもあって、日本ハムの入団に必死の覚悟での来日だった。球場に到着するや、いきなりTシャツ姿となってランニング、キャッチボールを開始するなどやる気満々でした。アップが終わるとブルペンで約40球のピッチングも披露。また、本格的なピッチングではないものの、「オレにとっては日本のプロ野球はアメリカのメジャーリーグと同じ。必ず受かる決意で日本に来た」と意欲を見せていた。これに対し大沢監督も「ベネズエラか、サボテンの国から来たな。とげにひっかからないよう、丁重に実力を見ないとな」と、相変わらずの大沢節で来日を歓迎し、獲得へ前向きな姿勢を見せていた。
日本ハムの第三の外国人選手としてフランク・カンポス投手が決定した。11月18日に大沢監督ら現場サイドが獲得の最終判断を下し、これに球団側も「現場の意見を最優先していきたい」と、獲得決定を表明しました。カンポス投手は今月10日から鴨川の秋季キャンプに参加してテストを受けてきましたが、ベネズエラから来た陽気なカンポスはすぐに選手にとけ込んだ。「絶対に受かるつもりで、日本に来た」と、必死に練習に取り組む姿勢を大沢監督も高く評価し、「まだまだ実力的には満点といかないが、野球に対する態度や25歳という若さを考えて、取ることに決めた。球も重いし、これからコントロールを磨いて、ウチの戦力になってくれればいいんだがな」と、獲得の理由を説明した。「日本ハムでプレーすることができて、うれしい。チームの優勝のために頑張る」と、カンポス投手は朗報を胸にいったん帰国し、来年、再び日本に来る。
1994年
日本のお勉強にぬかりはない!?「だいぶね、日本のチームのクセ、傾向と対策がわかってきたよ」何故か新外国人フランク・カンポス投手は自信満々だ。「教材?これこれ」と宿舎ホテルの自室を指差したのですが、何とファミリーコンピューターのセット。ご存じ、ファミリー・スタジアムの野球ソフトで極秘密室チェックをしているという。で、ついでに室内を見渡すと「外国人労働者のための日本語」なんていう本が、パラパラとめくってみると、工事現場で使う専門用語や季節労働者の賃金交渉の仕方、なんてのがズラズラと並んでいる。助っ人野球選手も確かに、外国人労働者であるわけで、そこは間違っていないがピントが・・・。心配しているうちに、グラウンドでもピント外れ。フリー打撃、紅白戦に登板しても半分がボールと、ストライクが入らない。まさか日本の野球のルールが違うなんて、思ってはいないか。
昨年秋の鴨川キャンプに南米ベネズエラから馳せ参じ、一週間のテストの結果、晴れて合格証を手にした。休日のときでも「投げたい」と首脳陣に申し出るひたむきさは「どうしても日本でプレーしたい」という強い気持ちの表れだった。昨年、ホワイトソックスの傘下3Aナッシュビルで7勝5敗、防御率3.55の好成績をマーク。メジャーまであと一歩と迫りながら、強く日本でのプレーを希望するのは「これまでもそういうチャンスがありながらいつも挫折感を味あわさえれてきた」からだ。サラリーが低く、生活も苦しかった、ともつけ加えた。185センチ、85キロのがっちりした体から投げ込むストレートに切れ味鋭いスライダーが武器。鴨川のテストではわずかに制球力に不安を残していたが、環境のちがい、緊張感もあっただろう。ハングリー精神をプンプン臭わせながら、晴れて日本でメジャーを目指す。
1995年
外国人投手当たり年の今季、カヤの外状態だった横浜だが、シュワーズを解雇して代わりに契約、6月26日に来日したバークベックが、7月2日、初登板初先発のマウンドで安定感あふれる投球をみせて初勝利を挙げた。大リーグでの通算成績は12勝19敗。今季はメッツで4試合に先発、0勝1敗ながら、防御率1.63と安定したピッチングぶりを買われての横浜入りだったが、デビュー戦でいきなり、パームボールがさえて、中日打線をほんろう。6回を2安打無失点。四死球ゼロとテンポのいいピッチングを披露したのだ。MAX139キロで威圧感こそないが低めをていねいにつく投球は、当たり年にふさわしい掘り出し物を感じさせてくれた。何でもこの新助っ人、試合前にはピッチング練習をせず、バッティング練習で体をほぐす程度で気楽!?にマウンドに上がるという変わりダネ。体のどこにも余分な力の入らないピッチングぶりは、こんな調整法にも秘密があるのかもしれない。ブルペンはセ・リーグでも№1を誇る横浜だけに、このバークベックが先発ローテーションに加わってくるとなれば、ガ然、元気が出てくるというもの。大崩れしそうにない助っ人右腕に、セ・リーグ打者は戸惑いそうだ
1977年
「あんな気の小さなやつもそうそういるもんではないで。試合で投げるたびビビッていては話にもならん。ある意味でピッチングとは度胸なんやが、あれではなあ…」カネやんの評価はすこぶる厳しい。これまで7試合に登板。投球回数20イニング、被安打16、被本塁打3、四死球17、自責点14で防御率は6.30。さんさんたる成績だが、キャンプ、オープン戦での期待度は、かなり高かった。ストレートには力があったし、低めへくると微妙に変化したものだ。カーブはといえばブレーキの利いた鋭いもの。キャンプ、オープン戦でのスティーブを見た評論家諸氏も一様に、「おもしろいピッチャーだ。第2のバッキーになれるのでは」を連発したものだった。が、いかんせん心臓が弱い。もちろん度胸のことだ。190センチ、97キロの恵まれた体格を持っていても、ノミの心臓では、第一線の戦いで能力を十分発揮できようはずがない。4月8日、三度目の登板となった大阪球場での南海2回戦は直接勝敗に結びつく大切な場面だった。8回まで6-2とリードしていながら、突然招いた9回のピンチ。締めくくり役でマウンドに立ったが、3四球を連発。そのうち二つが押し出しで大逆転を許すという、ひどいものであった。そのときは経験不足からビビったようにもとれた。が、それ以後登板するたびに、ガタガタ、ブルブル。試合後は、ピンク色に陽焼けしているはずの顔をまっ青にして、頭を抱え込むばかりだ。「ワシはダマされた。体は大きいくせに、ヒツジちゃんじゃ、使いたくても使えんワイ」と自ら手塩にかけて「育てる」と言明したカネやんもゲンナリ。お陰で5月1日、登録まっ消こそ免れたものの、二軍行きの断が下った。とはいえ、一長一夕に心臓が強くなろうはずもない。依然、四球連発を恐れることからボールを置きにいくピッチングのまま。イースタンのマウンドに立ってもパッとしない。ファームの首脳陣からも「あれでは試合にならない」と見放された格好だ。かつて(50年)、ロッテにマクナルティという一発屋がやってきたことがあったが、からっきしダメで、そのため今季のスティーブ・マクナリティは、縁起をかついでファーストネームをスティーブを呼称としたいきさつがあるが、今のところ球団の思いやり?も通じていないというところだ。「やつが一人前になるには、かなりの時間がかかるやろな。どうせ育てるのなら、スライダーかフォークか、少なくとももう1種類は球種を増やさなきゃならんし…」カネやんの展望はお先まっ暗と出ている。投手陣のふがいなさから不振のスタートを切り、現在も火の車の台所を考えると、スティーブの立場は、いきおい弱いものとなる。「外人ワクは2人だけなんやで。スティーブを育てることには変わりないんやが。もっと外人ワクを有効に使わんことには苦しいで。なあ、そうやろう」カネやんの言い分はもっともである。ところが、渡る世間に鬼はないーとはよくいったもので、野球で災いした純情が、タレント業ではセールスポイントとなった。ロッテ本社の新製品野球リーグ、フウセンガムのCF撮りの際、新鮮な魅力を発揮した。「がんばれ!ペアーズ」で人気を博したテイタム・オニールばりの甘いマスク。変な外人と言う珍しさもあって、CFの方は大成功を収めた。現在CMタイムに各家庭へ顔を出しているが、こちらは好評で、なかなかのものだ。こんなタレントとして力を発揮していては簡単にポイとはできぬ。おまけにロッテ本社から「なんとか育ててみては」のアドバイスがあってはなおさらだ。とはいえ、勝負の世界は厳しいもの。スティーブに力のつかない限り、一軍のマウンドはあり得ない。力のないアイドルはお荷物になるばかりだからー。
1977年
テスト生としてチームに合流していたスティーブ・マクナリティ投手(23)=195センチ、97キロ、右投右打、ウォーターベリー(2A)=の採用が決り、4日正式契約が行われた。契約はキャンプ終了後、東京で行われる予定だったが、オープン戦登板のため早められた。
西垣球団代表は23日、東京・新宿の球団事務所にスティーブ・マクナルティ投手(23)=190センチ、97キロ、右投げ右打ちを呼び、退団を通告した。わずか4カ月前、スティーブは期待を躍らせて羽田空港に降り立った。童顔の金髪投手は、ロッテの入団テストを受けるためだった。自主トレ、キャンプを通じ、投手としての評判が日増しに増していった。持ち前の重い速球に、タテに大きく割れるカーブをたたきつけた。周りの投手陣が、まだ六分程度の力でしか投げ込んでいなかったときだけにスティーブの球威は一段と強いものに映った。「即戦力にはならないが、先が楽しみなピッチャーやで」カネやんがその素材にほれ込み、正式採用を決めたのが3月4日だった。チーム内でもアイドル的な存在で、この異色金髪投手は陽気さを振りまいたものだった。そのうえ、育ちのよさもあって純真そのもの。カネやん以下、先輩ナインのアドバイスにも「イエス」と、黙々と練習に取り組んだ。そのかいあってか、ドジャースの2Aからきたテスト生は開幕からベンチ入り。初登板も、開幕日の4月2日、仙台で村田のあとを受けついであこがれのマウンドをすぐさま踏んだ。が、ブルペンとは異なり、実戦のマウンドでは、本来の持ち味は出なかった。重くて速いストレートは、打ちごろのボールに変わり、走者を許せば二塁はタダ同然のマウンドさばき、さらに、コントロールも狂って、それまで得ていた評判も吹っ飛んでしまった。カネやんが、こんなスティーブに解雇の断を下したのは「投手としての体裁のなさ」が原因だった。ことに、ノミの心臓とまでいわれた度胸のなさだった。「技術が未熟というならまだしも、度胸のなさはどうしようもないで。いくら時間をかけたって、直るものでもないからなあ」7試合に登板、0勝1敗、防御率6.30。開幕から2カ月足らずでユニホームを脱ぐ羽目に陥った。「日本が好きだ。それに日本で野球の勉強がしたい。ロッテがダメなら、他のチームでも…」とあくまで日本でのプレーを望むスティーブだが、周りの情勢は厳しい。
1993年
ブラックス、ローズに続く第三の外国人選手として、エンゼルスのダリル・スコット投手(25歳)=185㌢、84㌔、右投右打)の入団が決定した。2年契約で、年棒は推定50万㌦(約5400万円)今季は日本のファームに当たるAAA級チームのバンクーバーで、ストッパーとして活躍。ストレートを武器にした本格派で、成績は7勝1敗15S。「アグレッシブさと冷静さを兼ね備えたところが、オレの持ち味。コントロールも問題ない」とスコットは、自信たっぷりのメッセージを日本に届けてくれました。これまでは救援主体でしたが、近藤監督は「先発として10勝を期待している」と話していた。抑えには盛田、佐々木のビッグ二枚看板が控えており、駒が足りない右の先発陣を考慮してのものだが、細かい起用法は本人が来日して首脳陣との話し合いで決まる。
1994年
春の珍事、といわせていただこう。新外国人のダリル・スコット投手にはとんだキャンプ初日となった。来日の途中でお尻に腫れ物ができ、痛みが限界にきたため、宜野湾市内の病院で緊急手術。キャンプ初日は、結局報道陣用の写真撮影だけで、宿舎に引き揚げるハプニングとなったものです。長旅の疲れだったというのだから、自宅のある米国サクラメントからロサンゼルスを経由しての成田到着。1日おいて今度は羽田からの沖縄入りという3日がかりの大移動により、尾てい骨の下に小指の先ほどのオデキができてしまった。スコット自身も「プロに入って練習を休んだのは、きょうが初めて、残念ね」と意気消沈していましたが、問題はキャンプでの投球練習ではなく、シーズンの働きぶり、一つ貸しを作ったと思って、開幕以降に期待しよう。
1989年
何やら、異様なムードに包まれていた。狭い神宮室内練習場は30人を超す報道陣でごった返し、押すな押すなの盛況ぶり。「いったい、何があるんだい。ビッグ・イベントでも始まるのか?」いつもは主役のパリッシュだが、この日、5月30日ばかりはお目当てが違った。ターゲットは途中入団の新外人・ロン・デービスだ。前日の29日来日し、注目の初練習。大リーグ通算130セーブの右腕に、ウの目タカの目が集結したわけだが、そんなフィーバーぶりにも、デービスは顔色ひとつ変えない。室内練習場の屋根を激しく叩く豪雨に、「ナイス・デー!?」とジョークを飛ばす余裕すら見せた。初投げは35球。真っすぐにスライダー、フォーク、それにライジング・ファストボール(浮く速球)、シンキング・ファストボール(沈む速球)と、ひと通りの持ちダマを披露した。「状態はすこぶるいい。試合の方は二、三日見てほしいが、ベンチ入りぐらいならOKだ。近くで(試合を)見るのも勉強になるからね」いきなりの優発言。昨年、ヤクルトにいたデシンセイに雰囲気が似ており、外見だけみてもマジメタイプ。「デーやん2代目って感じだね!?」と、関根監督は早くもニックネームをつけて、ハシャいでいたが、問題はその中身だ。アイケルバーガーが、とんだ食わせものだっただけに、デービスに対する関心は並のものではない。ヤンキースを皮切りに、ツインズ、カブスなど、大リーグ通算11年間で47勝53敗130セーブ。ストッパーひと筋として働き、ツインズ在籍時代の82年から85年にかけては4年連続20セーブ以上をマーク。これはツインズのチーム・レコードとして、今も残っている。さらには、こんな数字もある。ヤンキース在籍時代の81年5月4日の対エンゼルス戦。7回一死から8連続三振でゲームセット。次回登板となった対マリナーズ戦でも先頭打者を三振に取り、2試合をまたがっての9連続三振をマーク。これもア・リーグのレコードだ。「これだけの数字を残しているんだから、すべて、本人任せでいいんじゃないの。いい状態になったときに、パッと使ってみたいな」と初投げ、そして過去のデータに、すっかり安心の小谷投手コーチ。「本人も日本に来たがっていたからね。新しいところで、気分的にも違うだろうし、きっとヤッてくれるでしょう。実をいうと、デービスは二、三年前からリストに挙がっていた選手なんですよ」と、関根監督もご機嫌だった。しかし、ここで、にわかに素朴な疑問が浮上してくる。何で初めからデービスを取らなかったのか、という部分だ。相思相愛であり、かつデービスはここ数年、マイナー・リーグが主戦場。しかも獲得には何の障害もなかった。何も、アイケルバーガーに高い年棒を持って行かれずに、済んだはずである。関根監督の説明はこうだ。「確かにリストアップはしていたけど、実際の資料がなかったんですよ。去年、渡辺(守備コーチ)をアメリカに行かせたときに、ビデオを収めてくるよう指示したんだけど、1週間デービスを追っかけて、全然投げなかったのです。だから、ユマのテストでよかったアイケルバーガーを、とりあえず…という感じになったんだよね」そのアイケルバーガーが撃沈し、そして、デービス。獲得に至る経緯は理解できたが、結局、こちらも海のものとも山のものとも分からないままのサイン、極端な話、投げてみなけりゃ分からない‥‥という怖さは、アイケルバーガーと変わりないのだ。さて、そのデービス。大リーグでの実績がアイケルバーガーより上だけーという現時点の評価ではあるが、それでも全盛時は炎のストッパーとして名を売った男。ウワサされるヒジ、肩の故障説についても「いったい、誰がそんな根も葉もないことをいったんだい?断っておくが、体にメスを入れたことは一度もないよ」と、顔をしかめて見せる。85年以降の極端な成績落ちについては、同年のシーズン中、打球を素手で捕りにいって、右手中指の第一関節から指先まで裂傷したのが発端とか。普通なら投げられないケガだったが、当時のツインズの投手事情は火の車、投手コーチから「無理してやってくれ」といわれ、スーパー・グローという医療用の強力接着剤を付けてプレーを続けた、という。これが元で、一気に下降線を辿る。他にも、85年の対ヤンキース戦でマティングリーにサヨナラの一発を浴び、この試合で3試合連続救援失敗。マウンドでおいおい号泣したエピソードもある。どちらかといえば日本的な浪花野球人らしい。「チームのため、勝利のためにオレは投げる」とデービス。炎のストッパーはヤクルトを救援できるか!?