プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

待井昇

2020-08-06 16:29:38 | 日記
1973年

新人の背番号は、ときとしてその選手への期待度を現す。真弓(電電九州)の2、中村(東芝)は10は、差し当たり即戦力に近いことを意味している。そんな中で44という重い背番号を背負わされながら、グッド・プレーヤーの評判を得たのが待井外野手。平和台の自主トレでは、左右への好打に「素質はいいね」くらいだったが、その経験から島原キャンプに入って「こいつはいける」と急ピッチに階段をかけのぼった。「体力、素質、センス…。待井はプロ野球選手として必要なものをすべて備えている」稲尾監督以下コーチがこうだから間違いない。ドラフトの指名は第九位だった。金のタマゴとして、注文を集めている。認められた方が福転じて福だったのもツキ男らしい。島原キャンプ初日の練習は、前夜にバットの素振りでマメをつぶし閉店休業のはずだった。だが、痛めたのは左手の中指。「それなら投げさせてみよう」となって、日大三時代のにわか投手となった。180㌢、70㌔。軽く投げているようでもタマはホップする。腰がガッチリと安定して、しかもバネのある回転。「いっそのこと、投手として育ててみるか」稲尾監督と河村コーチに、こんな密談をさせたほどである。高校時代の待井は輝かしい球歴でいっぱいだ。二年生のときは選抜大会優勝の中堅手。そして昨春の同大会準優勝では、島原キャンプと同じ中堅手と投手の両投使いだった。不動の三番打者として印象は深い。「力がありながら戦力として計算できないかたわ的ケガ選手とは逆に、待井はころんでもタダでは起きぬタイプの選手だ。もちろん、外野手を希望する本人の気持ちは尊重してやりたいが、みすみす宝を持ちぐされにはしたくない」と稲尾自身もとまどっている。「ボクはまだ十八歳。外野には力のある選手が多いのでとてもかないません。でも、二、三年後にはその先輩もトシですからね」謙そんと思えばそうでなく、劣っていく先輩を見極めて、チャンスに食い込もうという見通しを立てているのだ。この選手、単純でない。実力が余裕を生み、時を冷静に判断するハイセンスな男だ。その半面、野武士的なガラガラな一面がある。ライオンズはこんな男が来るのを待っていた。
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大津秀美

2020-08-06 15:15:45 | 日記
1967年

二度めの休日はあいにく雨がばらついた。宿舎にいるのも退屈なので映画館をのぞいたが、好きな喜劇映画は上映されていなかった。キャンプでは考える野球と力の差を痛感している。より高度のインサイドベースボールのマスターに死にもの狂いで取り組んでいかなければならない。捕手は高校時代に三か月ほどやっただけだ。投手陣はまだ変化球を投げていないがタマの伸びはすごい。捕球するのがこわいくらいだ。バッティングの向上が最大の課題。浦田さんにいろいろ指導してもらっているが、捕球姿勢、ミットの使い方など勉強しなければならないことがいっぱいある。高校時代、バッティングと走力には私なりの自信をもっていたのだが、いざプロ入りしてみると、あまりにも力の差がありすぎる。基礎的な体力から鍛えなおしてがんばらなければならない。プロの世界は考えていた以上にきびしいが要は努力であり、あせらぬことであろう。すべてを野球一本に打ち込んで一歩一歩着実に自分の力を伸ばしていきたいと思う。
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中山俊之

2020-08-06 15:09:38 | 日記
1975年

巨人は十日、東京・大手町の球団本部でドラフト2位指名の中山俊之投手(24)=172㌢、68㌔、右投げ右打ち、大昭和北海道=の入団発表を行った。推定契約金一千万円、年棒二百四十万円、背番号26。同投手は巨人・沢田スカウト部次長によると「投手として小柄だが、バネが抜群でタマの切れはノンプロ屈指。藤田元司(現大洋コーチ)二世といっていい」という実力派だそうだ。函館大谷高から北海道産業短大と投手一本で進み、四十八年大昭和北海道のエースとして夏の都市対抗全国大会には準々決勝まで進出した。同年秋、中日がドラフト3位で指名したが、入団に応じなかった。昨年は夏の都市対抗で優勝、秋の社会人選手権大会では三協精機に敗れたが、山口高投手(阪急)らとともに社会人オールジャパンの主力投手としてキューバに遠征、4試合に登板して8イニングで自責点3を記録している。

巨人・正力オーナーの話 中山投手は長島・巨人の即戦力として期待している。国内の補強はこれで十人とも全部契約、パーフェクトとなったわけだが、これに要した補強費は一億円をはるかに超えた。

中山投手の話 一昨年中日の指名を断ったのはもう一年ノンプロで腕をみがきたかったからです。巨人入りして期待にそむかぬようがんばるつもりだが、目標はこんどコーチになった宮田さんのようなピッチャーになりたい。現役のころの宮田さんをテレビでしかみていないが午後八時半の男としてピンチにリリーフしては沈着にさばいたあのピッチングにほれぼれしたものです。
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市原稔

2020-08-06 14:20:42 | 日記
1969年

市原稔(21)=171㌢、67㌔、右投げ右打ち=早大出。南海の新人である。ここまでならふつうのルーキーと変わりないが、大学時代の四年間というもの、野球部に全然籍を置いていない。早大教育学部教育学科で学問に励んでいた人物である。そして、三月二十五七日の卒業式には、卒業証書と体育の教員免状(高校二級、中学一級)を受け取ることになっている。だが市原は現在プロ野球選手だ。テストで入団した彼は「なにかで自分の力をためしてみようと思い、高校時代やっていた野球を選びました」と意欲を燃やし、急転してことしから学問でなく、野球に励むことになったのだ。市原が野球を始めたのは千葉市立葛城中学時代からで、千葉東高では二塁手として活躍した。彼の存在は注目されるほどのものではなかったが「大学へはいって、神宮でひとあばれしてやろうか」という夢はあったらしい。だが早大の入学試験にはみごとパスしたものの、市原という選手は野球部の新入生の中にはいなかった。「一応野球部にはいろうと思ったが、自分は野球をやるために大学へはいったのではない」と考えたという。しかし「なぜ大学野球を断念したかといわれると、それははっきり説明する理由はないんです」といいながらも、少し考えてから「野球をやると授業を受けられないということを耳にしたことがある。それが一番の原因だったかも知れませんね」と笑う。では、四年間全然野球をやっていなかったかというと「そうでもないです」という。市原は大学へ通学しながら母校千葉東高でノックバットを握り、学生監督として総勢二十人の部下を率いて、四十一年秋には全くの無名チームを関東大会にまで進出させている。しかし、高校では市原監督であったかもしれないが、プロの世界へ飛び込んだ現在では、キャリアも実績もない。全くの無名選手である。彼にあるのは冒険心と、野球に打ち込んでみたいという人一倍の情熱だけだ。昨年のオフの新聞で同期生である田淵、富田らには一千万円だの二千万円だの、なんと花やかであったが、死にもの狂いでテストを受けた市原には、そんなものはなかった。「どうしてもプロ野球の世界で自分の力をためしてみたい」と思った市原は、スポーツ紙で各球団のテスト生募集という記事を目の色を変えて捜したのである。そしてまず産経に書類を提出したが、二十一歳という年齢はテストするまでもないと見られたのか、書類選考で落とされてしまった。東映にも受けにいったが、惜しくも最終選考で失格。市原は最後の望みを南海に託した。「どうしても合格しなければ…」と必死の彼は、テストを担当したコーチ陣の前で「十八歳です」と堂々と三つもサバを読んだ。このときの市原はずうずうしいというより「うかりたい」という叫び声であったに違いない。こうした努力のかいがあって合格したが、四年間のブランクというものは見のがせない。だが「これでだめだったとしても悔いはないですよ」と現代っ子らしい割り切ったところを見せている。彼の名前がいつになったら第一線に出てくるかわからないが、市原は「やることだけはやってみます」と自分の晴れ姿を夢みて連日の練習に取り組んでいる。
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浜口春好

2020-08-06 13:15:12 | 日記
1967年

東映の泣きどころといわれる内野から水原監督は西園寺を放出した。そのアナ埋めに岡島を迎えたがすでに三十二歳。シーズン途中でいつガタがくるかわからない。このチャンスをねらって「今季こそは三塁はオレのものだ」と意欲をみせているのがプロ入り二年めを迎えたこの浜口だ。ノンプロで最優秀選手に選ばれ、東映に入団したが守備の未熟さ、鈍足などがたたって、昨シーズンは優勝も決まったあとにやっと公式戦に出してもらった。11打数3安打。新人としては申しぶんない打率だが、わずか六試合ではまだ実力を計ることはできない。「もし優勝を争う大事なときだったら、これだけ打てたかどうかわからない。楽な気分でバットをもてましたからね」と本人も昨年のことにはそれほど関心をもっていない。「しかしどれだけやれるかは別にして、昨シーズンでプロの世界はだいたいわかった。見通しというか、自信に似たものはつかんだ」とつけ加える。自信というのはとても体調がいいことだ。昨シーズンは足の故障で悩みつづけていた。それがいまではすっかりよくなった。「いちばん大きな欠点は足のおそいことだが、練習さえできればあるていどカバーできる。むしろこのキャンプで研究したいのは左右に打ち分けられるようにすること、それにゴロのさばきかた」だそうだ。以上の話しぶりでもわかるように、今季の目標はより実践的な方向に広げている。三塁は岡島、浜口のほか高島がおり、さらにガリードがくれば遊撃の佐野も三塁にまわってくる予定。だから浜口が常時出場できるようになるにはこれからが勝負どころ。水原監督は「みんなにチャンスを与え、勝ち残ったものを使う」構想だし、浜口を特別教育している飯島コーチは「典型的な中距離ヒッターですばらしい素質をもっている。それにオレはノンプロ時代に四番打者だったんだというプライドがある。打力に関してはたしかに大物ですよ。第一線に出てくるようになれば、そのシャープな打力にお客さんも驚くだろう。ただ西鉄の太さんのように太ってくると困るが・・・」といっている。欠点もある浜口が、これだけ期待されるのはもうひとつ東映のなかで右投げ、左打ちという希少価値もあるのだろう。
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溝口健二

2020-08-06 12:52:40 | 日記
1967年

十日間の島原キャンプを終ってまだほんとうのところ自分がプロであるという実感がわかない。最終日の紅白戦を見学して思ったのは、やはり守備、攻撃の連係プレーや、バッティングにすばらしいスピードがあるという点だった。高校野球に比べると雲泥の差がある。プロ野球のきびしさをしみじみと感じたのが島原キャンプだったが、コーチの人たちからいろいろな注意を聞き、いまは教えられることを一つ一つ着実に身につけるだけで精いっぱいだ。バッティングのとき腰を落としすぎないことや、ボールを捕球するときグラブの真ん中でつかむ、つまり自分のてのひらでつかむなど、野球を基本からしっかりたたき直してもらっている。一日も早く一軍に追いつくのが目標。死にもの狂いでがんばっていく。
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鳥谷元

2020-08-06 12:36:56 | 日記
1967年

順調に仕上がっている中日投手陣のなかで、いまいちばん調子がいいのが二年生の鳥谷だ。特設ブルペンで毎日目を光らせている西沢監督も、そのスピードとコントロールのよさに驚きの表情。近藤ピッチング・コーチは「現段階では小川とともに抜群。この調子で伸びてくれれば、紅白戦、オープン戦でどんどんテストする」と期待している。鳥谷は昨年、福岡県築上中部高から中日入り。九州では本格派の剛球投手として知られ、中日吉江代表も村山ばりの力投にほれ込んだが、松山キャンプではパッとせず、ついに公式戦のマウンドを踏む機会を一度も得られなかった。そんな鳥谷がやっと頭角を現してきたのは昨年、中日球場で行われた秋季練習のとき、球質が重く、えげつないシュートがよく決まって若手打者を大いに悩ませたものだ。秋季練習で自信をつけた鳥谷は、一月十日から十九日までの十日間、大分県中津市で門岡、豊永、秋元らの吸収組と合同トレーニングし、からだづくりに専念。そしてキャンプインと同時にビュンビュンとばした。好調の原因は、こんなところにあるようだ。昨年に比べてよくなった点は、ストレートのコントロールがよくなったことだと、鳥谷は言う。確かに内外角低めにタマがよく決まっている。あとは、このキャンプで決めダマシュートのコントロールをよくすることだろう。「まだシュートが思い切って投げられない。打者のアゴにぶつけるような気がしてこわいんです。でもぼくが一軍ベンチにはいるには、やはりシュートのマスターが先決だと思う。キャンプの課題にします。若いんだから、これからもビュンビュンとばしますよ。ベテランに追いつかれないだけの自信はあります」と、一軍入りのチャンスにヒトミを輝かせる。「球質が重いだけでなく、切れもいい。シュートを武器にする投手はウチにも少ないだけに、鳥谷が出てきてくれたら大助かりだ」と、西沢監督が鳥谷の成長にひそかな望みをかけるのも無理はない。はたして昨年の北角のように思わぬ戦力になりうるかどうか。ことしの鳥谷は楽しみな存在だといえる。
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