1979年
広島カープから移籍したオーバーハンドの本格派で変化球を武器にしてプロ入り3年目の本年こそロッテ・オリオンズで花を咲かせようと決意もあらた。
1979年
広島カープから移籍したオーバーハンドの本格派で変化球を武器にしてプロ入り3年目の本年こそロッテ・オリオンズで花を咲かせようと決意もあらた。
1970年
西鉄時代ヒザを痛め不遇をかこったが、故障もすっかりよくなった。ワンポイントリレーには欠かせぬ存在で、数少ない左投手の一人。移籍、結婚で心機一転をはかっている。
1997年
197センチの長身から投げ下ろすストレートは、MAX146㌔。2回から落ちてくるような、という形容がぴったりの威力だ。日本にはちょっといないタイプのピッチャーだけに王監督の期待も大きい。ノルマは15勝。しかしそれ以上の数字を残しそうな本格左腕がやってきた。
1970年
気が強く巨人の黒江タイプとの評判だ。学生時代4度首位打者を獲得、またプレーイングマネージャーをつとめるなど、野球知識は豊富。問題はプロのスピードをこなせるかどうか。
1996年
ロッテは、まだ8試合目の新外国人・チェンバレンの一発でチームの3連勝を決めた。五回2死一、二塁でダイエー先発、ボルトンの4球目の甘いスライダーを見逃さずバックスクリーン左に3号3ラン。「ずっとスライダーで攻められていたから。初対戦というのは投手が有利なものだが、あの1球はちょっとキレがなかったね」と得意げなチェンバレン。打席ではせわしなく動き回り、ミスを露骨に悔しがる挙動は、早くもムードメーカー。
1991年
どちらかといえば、前日までの10連勝は、打力で築き上げてきた。だが、この日は違った。投手にとって一番厳しい1-0の試合をバートサスがしのぎきっての11連勝。野村監督と握手するバートサスの目は「投手も忘れちゃ困るぜ」とでも言っているようだった。野村監督は当然継投策を考えていた。連勝の第一歩となった九日の広島戦は勝利投手となったが、5回で降板、十五日の大洋戦でも5回3分の1でKOされている。来日以来、まだ完投のない実績が野村監督をそうさせていた。やはり、立ち上がりは不安だった。一回いきなり、先頭打者の和田に中前打され、岡田、八木に四球を与えて二死満塁のピンチ。「慎重にいかねば、と思いコントロールを乱してしまった」と振り返ったバートサスだが、続く真弓を右飛に打ちとって冷静さを取り戻した。それからは、2年目の阪神・葛西との投げ合い。あれだけ打った味方打線が葛西の前に沈黙していても、淡々と阪神打線をかわしていった。2㍍の長身から投げ下ろされる速球は伸びがあり、フォーク、スライダーの変化球はコースを突いた。女房役の古田が七回に貴重な1点をたたき出すと、初体験となる八回以降は三振を取る投球から打たせて取るピッチングに変えての頭脳投法。一番心配していたスタミナも「走り込みで減量中」(バートサス)が奏功してか、初の完投をやってのけた。たった1人の投手でまかなった野村監督は「こういうこともあるんだな」とうれしい思惑はずれにニンマリ。二十五日からは「調子が上がってきたな」という巨人と対戦するが、ムダ遣いをしなかったことで投手陣は休養十分で臨める。連勝街道をゆくヤクルトに、何とも大きなバートサスの完封劇だった。
1990年
二度目の登板のロックフォードが、またも打ち込まれた。初登板の巨人戦(7月15日)は原、ブラウン、西岡に本塁打を浴びて敗戦投手。来日直後で体調が万全でなく、緊張感も相当なものがあったと思うから、力がどの程度なのか、断を下しにくかった。が、この夜の投球を見て「先発ではちょっとシンドイ」と言わざるを得ない。三回途中で降板。直球、スライダー、チェンジアップを多投したが、何せ投手の基本ともいえる直球の威力に物足りなさを感じる。球速は133、4㌔。遅くともそれなりに打者の手元で伸びればいいのだが、そうでもない。悪いことにシュート回転となる場合が多い。三回、宇野に2点本塁打されたのも高めのこの球。生きた直球ならバックスクリーンまで運ばれずに済んだだろう。だいたい、投手と打者が初対決の原は「投手有利」がささやかれる。なのに、このありさま。以前、星野監督がこう言った。「打者の助っ人はいいのが来ても、投手となると難しい。日本の投手を育てるしかないよ」と。