プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田村勲

2020-08-15 13:19:43 | 日記

1982年


プロに入って8年目。ロッテに入団して、早くも3年目になる。サイドスローからのシュート、スライダーを武器に常時一軍を目指す。タイプとしてはリリーフ投手だが、くせ球が低目に決まれば先発も夢ではない。 

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望月秀通

2020-08-15 13:15:04 | 日記

1993年

泣かせる男である。望月は今季、開幕から大車輪の働きだった。開幕戦から4連投。7試合を終了した時点でも6試合に投げていたのだった。それでも「疲れた」なんて言葉は残さない。今季は片瀬が右ヒジ痛で不在とあって、リリーフ陣では望月ひとりが頼られる。無理もない。一軍初体験の小早川幸、高橋英、それに秋村と近藤はイマイチ信頼が薄い。そんなコマ不足の状況に加えて、ゲームが接戦となるのだから当然なのである。だが、登板過多は時として神通力を失わせる。4月18日の対巨人戦(広島)では、バーフィールドに決勝アーチを浴びて今季初黒星。それでも望月は「体調の維持はしっかりやってます。バーフィールドにホームランを打たれても、気持ちの中ではすぐに切り替えるようにしています。今はベンチに座っているより、投げる方が気持ちいいんです。早く投げたい、早く投げたいとばかり思っているんです。連投になっても、明日も登板があれば…という気持ちでいます」と強気なことをいうのだ。もちろん登板して抑えていけば年棒をアップさせることになる。投げなければ始まらない。望月は稼がねばならないのだ。おカネへの執着。それには理由がある。昨年12月5日に父・憲二朗さんがガンのため亡くなった。享年56歳だった。2年前に倒れた時から覚悟するようにいわれていた。最後に会ったのは昨年10月のこと。プロ入り初勝利を挙げて、リリーフとして4勝2Sの数字を残した息子に、父はいった。「もう少し勝てていたぞ」と。望月父子は漫画「巨人の星」を地でいった。小さいころからキャッチボールをやった。山には島カゴがあり、タイヤを利用して打撃マシンを作ってくれた。ノックの嵐、ヘトヘトになるまで球を追いかけた。投球から打撃から、守備からすべて叩き込まれた。タクシーの運転手をしていた父は野球に関してはカネを惜しまず、不自由をさせなかった。そんな父に親孝行ができなかった。プロ初勝利を喜んでくれたことは母から聞かされていた。それは遺言からも分かる。最後に父は「よく一軍に上がってくれたな。お父さんの夢をかなえてくれてありがとう」と母にいい残していたという。「ベンツを買ってあげようと思っていたんです。そしたら亡くなってしまった。だから墓を自分で作ってあげようと思ってます。もう土地はある。今年頑張って稼いで、しっかりとした望月家の墓を作るつもりです」約300万円かかるという。望月は5月3日の対巨人戦(ドーム)では好リリーフして、2勝目を挙げた。開幕直後のように連投、連投ではなくなってきた。そして望月は真価を発揮している。

1993年

野村監督が「体重を乗せてうまく打ったな」と珍しくほめたのが古田だった。六回に片瀬の内角高めのシュートを右越えに同点2ラン。九回には望月の真ん中高めに甘く入ってきたスライダーを2打席連続で右翼席にもっていく勝ち越しソロ。 

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望月秀通

2020-08-15 11:23:30 | 日記

1992年

望月が右ヒジ痛に襲われたのは、一昨年秋のことだった。その年、望月はプロ4年目にして初めて一軍のマウンドを踏んでいた。静岡県の静岡高校から86年ドラフト4位で入団した。この年の1位は三菱重工神戸の栗田聡投手(現在、阪神の打撃投手)だった。広島はこの望月の4指名を最後に5、6位指名はパスした。静岡高校は県立の名門進学校。甲子園の名門でもあるが、望月のころは弱かった。「ボクの時は2回戦ぐらいでいつも負けるチームでした。1年秋にヒジを壊して、2年夏からエースでしたが、高校時代は甲子園は夢でしたね」プロではウエスタン・リーグで投げる日々を送った。そしてプロ4年目の4月29日の中日5回戦(広島)ゲームは負けていたが、8回に登板が巡って来た。初めて対戦するバッターはメジャー選手のバンスロー。しっかりと抑えて、1イニングを無失点に封じた。目立たない場面だが、これが望月のデビューだった。その年、4試合に投げた。5回3分の1で1失点。中継ぎとして希望を少し持ち始めた。しかし、望月は奈落の底へ突き落されてしまった。「軟骨があったんです。ネズミと呼ばれるヤツですよ。それが痛みの原因でした」昨年3月に、二度目の軟骨の除去手術を受けた。「そこで、ボクは自分がケガをしたとは考えないようにしたんです。登板するとどうしてもかばってしまう。だから、自分は故障していないと思い込むことで、鍛え続けたわけです」1年を棒に振りはしたが、今年、望月は故障前と変わらぬくらい投げられるようになっていた。心なしかストレートの切れも、故障前よりあるように感じる。ヒジ痛の恐怖に脅えなくなったことで腕がしっかり振れるようになったのかもしれない。一軍に昇格したのは開幕直後の4月11日。しかし登板のないまま19日には二軍に落ちていた。この時もプラス思考を忘れなかった。「一軍にいても投げられないのなら、二軍で思う存分投げた方がプラスになる」と。5月4日に再び一軍昇格。同14日の大洋戦(広島)では、敗戦処理ながら1イニングを三者凡退に抑えた。16日の巨人戦では、1イニング3安打され2点を失った。「ヒット1本打たれたら大騒ぎ。お客さんが多く、いつもと違う雰囲気。緊張するタイプじゃないけど雰囲気に呑まれてしまったというか、あの雰囲気に慣れれば、ちゃんと抑えられるようになると思います」ここでも望月は悲観的にならない。「登板したら、とにかく打たれないこと。そして一軍で投げ続けたい」その目標が成就した時、望月の復活劇は一応、終止符が打たれるのだ。

おまじないが望月秀通投手に幸運をもたらしています。望月は投げる前にマウンド後方にしゃがみ込んで、右手の人さし指でマウンドの土に何やら書いているのです。呪文かと思いきや…。「あれですか、自分の名前を書いているんです。マスコミの方に、僕の名前を書いておくとグラウンドが味方になってくれると教えてくださって、それからずっと名前を書くようにしているんです」望月は昨春、改名しました。「一(はじめ)から「秀通(はじめ)」へ。母・明実さんの知り合いが、姓名判断ができる三島市の高名なお寺の住職さんを紹介してくれたとか。苗字より名前の字画が多い方がいい、ということで「秀通」プロ入り後、右ヒジを手術するなど不運があっただけに、望月は「芸名みたいなもの」として改名したといいます。新しい名前は「1年辛抱したあと、道を開いてくれる」と望月は希望を持ったのです。その通り、今年になってプロ初勝利、プロ初セーブを記録して、大野につなぐリリーフとして信頼を得ました。8月21日の対ヤクルト戦(広島)では先発初勝利も。これぞ、改名効果です。


1994年

今年の7月に長内美穂子さん(26歳=会社員・茂氏の長女)と入籍をすませていたことが明らかになった望月秀通投手。昨年9月に望月が東京遠征に行った時に2人が知合い、それからトントン拍子に話が進んでスピード入籍となったようです。さぞや新婚気分と思えば、望月はまったく逆です。10月23日からリハビリのため湯布院へ行くことになっていたのですが、これを断って広島に居座ることになりました。というのも本人が「広島でシッカリ練習を積んでおきたいから」というのがその理由だそうです。今シーズンは49試合に登板して6勝5敗3セーブをマーク。でも首脳陣は「まだ物足りない」と来年にかなり期待しています。結婚を期に来年は先発ローテーション入りを狙う望月にとって、いちばん大切なのはこれからの練習です。「今年は先発のチャンスをもらったのに結果が出なかった来年こそ自分で納得できるピッチングをしたい」奥さんをもらい責任も重大になった望月がはりきるのも、当然といえば当然でしょうか。

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ニコルズ

2020-08-15 10:44:01 | 日記

1997年

ニコルズは捕手が捕りそこなうほど変化の激しいフォークの持ち主で、王監督は30セーブを期待。

昨季3Aリッチモンドで20セーブをあげたニコルズは締めくくりとしては球威不足。 

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玉井信博

2020-08-15 08:30:50 | 日記

1976年

関本と共に巨人から入団した、性格はおとなしく、あまり目立たないタイプだが、マウンドに上がると、まるで別人のような積極的なピッチングをする。巨人時代はカーブ投手と見られていたが、これは巨人の捕手にカーブ中心のリードをするタイプが多かったためで、本人は「シュート主体の攻めるピッチングをするのが夢だった」という。ライオンズ入りと同時にシュート投手に変身、速球にカーブ、シュート、さらに要所にフォークボールをまぜ幅のあるピッチングが出来るようになった。連投もOKのタフな男。投手回転がけわしくなる夏場に、東尾、関本と共に頼れそう。

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市橋秀彦

2020-08-15 08:29:54 | 日記

1979年

九州工高、近鉄→日本ハム→ロッテ(54年)1㍍82、82㌔、右投右打
49年9月20日日本ハム 妻=史、長女=香也子
テストに合格。野球生命をかけて努力を重ねている。 

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安木祥二

2020-08-15 08:15:54 | 日記

1980年

先発に、リリーフに貴重な左投手。決して派手なピッチングではないが、カーブ、シュートを巧みに駆使し、ベテランの持味を発揮してくれるだろう。

1982年

今年14年目のベテランサウスポー、派手さはないが、カーブ、シュート、フォークと球種多彩で経験豊富なピッチングは、今年も先発にリリーフに大いに期待されている。 

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杉田久雄

2020-08-15 08:06:21 | 日記

1979年

プロ入り九年目のシーズンを迎えた。入団当初はスピードボールを生かした右の本格派。しかし最近ではサイドハンドから多彩なクセ球をあやつる投手に変身した。日本ハムから移籍して2年目、そろそろチームの空気にもなじんできた。キャンプでも調子がよかった。「今年はフォークボールにみがきをかけて、相手にいやがられる存在になる」とやる気一杯。うまくすべり出せば2ケタ勝利が期待できるピッチャーだ。

1980年

この3月15日、30歳を迎える働き盛り。速球を主体とする本格派から、変化球をこなすようになったが、あともう一押し。10年選手の意地をみせるチャンスだ。 

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アルー

2020-08-15 08:02:50 | 日記

1976年

米大リーグの野球教科書にも載っているユニークなバッティングの持ち主。重さ1㌔を超える専用のアルー型バットでボールをひっぱたく打ち方をする。打球はライナーやゴロで内野手の間を抜けていくという寸法だ。大リーグ時代は打球が内野手の正面をついてもヒットにするほどの快足ぶりを誇ったものだったが、最近は脚力がやや衰えたこともあって、長打もあるバッターへの転身を図っている。独特のクラウチング・スタイル(上体をベースにかぶせる姿勢)はフトコロが深く、内角球はもちろん外角球も楽に打てる。ただ、そのせいでボール打ちの悪いクセが抜けないのは困りもの。とはいっても、どんなタイプの投手の球もヒットに出来る貴重な二番打者。定評の二塁打打ちのうまさは、今シーズンも光っている。来日二度目の3割打者を目指し、真価発揮の年である。 

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三宅宗源

2020-08-15 07:58:09 | 日記

1980年

台湾の三振奪取王。ストレート、二種類のカーブ、スライダー、シンカー、フォークボール、パームボールと、七変化のボールを持つ。村田投手とスピード争いをしても、決してひけはとらない。公式戦への出場は野球協約改正待ちで来年になりそう。伸びのあるストレートを目の前で披露されれば、日毎に評判は高まるばかりで、宗源投手のデビューが首を長くして待たれる。 

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沢幡誠士

2020-08-15 07:56:23 | 日記

1984年

スライダーが武器の技巧派投手。広島から移籍し二年目、なんとかことしはプロでの手応えをつかみたいところ。決めダマをひとつマスターすれば大きく成長するのだが…。 

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上田卓三

2020-08-15 07:53:16 | 日記

1975年

昨シーズンのはじめ、野村監督からバッティング投手を要請されたそうだが上田にはまだやれるという自信と意地があった。昨シーズンの上田はショートリリーフとしての役割を果たした。小粒ながら左腕独特の右打者のふところに喰い込むスライダーと絶妙のコントロールをみせるチェンジ・アップの冴えは天下一品。ワンポイント的には欠かすことができない。 

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中山孝一

2020-08-15 07:47:23 | 日記

1976年

孝一、孝チャンと呼ばれている中山は28歳、どことなくおさなさが残っているポーカーフェイス。球威においては1,2を争うものをもちながらコントロールに難点があった昨シーズンはこの悪幣も是正されて入団6年目で始めて10勝ラインに到達、かつ勝越しを記録、やっと中山らしい片りんをのぞかせてきたが後期戦、ライナーを顔面に受けて退場、一時はどうなることかと心配されたが再登場まで約1カ月、この間の欠場は痛かった。チームも本人にとっても。ロッテ、太平洋に自信をもって、両チームに関しては孝チャンは肩で風を切るさっそうぶりをみせるが阪急、近鉄のようにコツコツ打ってくるチームには散々。上位に勝つことが大成へのステップになりそうだ。 

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