プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

1976年 太平洋 入団選手

2020-08-11 16:37:52 | 日記

1976年

太平洋クラブ・ライオンズの中村長芳球団オーナーは十九日、福岡・博多駅南の博多都ホテルで、広島東洋カープから金銭トレードで獲得した児玉好弘投手(30)ら五選手の入団発表をした。この日入団した選手は、児玉を除けば全員無名の選手たちだが、中村オーナーは「児玉君は実績があり、体の故障もないということなので一軍の戦力として期待している。また新入団の四人は、いずれも初対面だったが、目の光が違っている。将来きっと一流に育ってくれるはずだ」と、期待をこめて報道陣に紹介した。入団選手を代表して、児玉は「とにかく一生懸命やる。私自身について言えば、カープ在籍は一年だけで、パ・リーグの方がなじみが深い。勝手もわかっているので、ぜひ一暴れしてみたい」と決意を語った。

【入団選手の横顔】
投手 児玉好弘(30)=178㌢、70㌔、右投げ右打ち。山口県鴻城高卒、阪急ー広島東洋のプロ生活五年間を通じ136試合に登板、22勝12敗、防御率4.06の成績を残した。完投はないが、中継ぎ逃げ切りに絶妙のピッチングを見せてきた投手で、速攻型の打線を持つライオンズには貴重なリリーフの戦力。

内野手 大原徹也(18)=177㌢、70㌔、右投げ右打ち、大阪福島商。大型の遊撃手として将来性を買われ、推薦入団。

外野手 川島日出雄(18)=183㌢、67㌔、右投げ右打ち、広島盈進高。一昨年夏の甲子園大会で注目を集めた強打、強肩の選手。推薦入団。

投手 吉野秀幸(22)=176㌢、75㌔、長崎県鹿町工卒、名村造船所(伊万里)からテスト入団。体力、センスとも抜群で、将来性を買われた。

捕手 大慈弥功(19)=168㌢、74㌔、右投げ右打ち、大分県中津南高。体力とパワーを買われ、内野手から捕手に転向してテスト入団。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半田実

2020-08-11 15:02:32 | 日記

1970年

九回裏二死、十個目の盗塁に成功した飯島が三塁にいるが、点差は四点。代打・西田のカウントはツー・ワン。九日夜の東京球場での近鉄・ロッテ八回戦の大詰めである。結局、西田は見送ればボールトなる落ちるカーブを引っかけてショートゴロ。安井の一塁送球を待たず、二千人に満たぬ三塁側スタンドからは歓声と共にテープが舞う。お定まりの勝利風景であるが、お定まりといえないのは、勝利投手がプロ二年生で、よもやと思われた二線級の半田であったことだ。このゲーム一回裏、トップの榎本に右翼越しに第四号ホーマーを食ったときは、あと何人に投げられるか、、、。と危ぶまれた半田だったが、それ以後は二回二死後、醍醐、広瀬に安打を連ねられ二塁失で一点を加えられただけで、大きく割れるカーブと重そうな速球をビシビシ投げこみ、打率二割五分六厘のロッテ打線を七安打の散発に押さえてしまったのである。この日の先発予定は、左の神部であったが、背筋が痛いとあって、試合前に三原監督は、中原コーチの進言で半田投手を起用したもので、七日の西鉄二連戦で五人の投手を使っており、休養充分なのは佐々木ぐらいしかいなかった苦しい台所はあったにしても、昨年ウエスタンで一勝しただけの半田を、しかも、今シーズン初めに先発で出て打たれているロッテ打線に立ち向かわせたのは、三原監督にとって大きな冒険だったかもしれない。榎本のホームランを喫したときは、三原監督も「危いなア」と感じたそうだが、次の池辺、ロペス、アルトマンを平凡な当たりに仕止めたので、これならいけると「二回でかえられると思った」という半田に続投させたのである。この半田は、中原ピッチングコーチから、その重い球質の速球を認められて昨年入団したもので、公式戦には、この日までに七試合にマウンドを踏んでいるが、すべて敗戦処理で、一番多く投げたのが四月十五日の東映二回戦で、このときは四回から登板して、モートンと金田と張本の三人に打たれただけで四球も一個で、無得点におさえていた。この好投が買われて、十七日藤井寺でのロッテ二回戦に先発したが、中一日の休みだけの起用は無理だったようで、一回は三者凡退に退けたが二回に四球の後に三連打され三点を失い敗戦投手となっている。この初登板のノックアウトと一回の榎本のホームランで、ロッテ打線が組み易いと感じた油断はあったにしても、ロペス、アルトマンの主砲を無安打におさえた半田は、昨年の岡田にかわって、清、佐々木につぐ右の三番手投手の位置を占めたようだ。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モートン

2020-08-11 14:40:18 | 日記

1970年

東映の大川毅オーナー代理は十七日午後二時、東京・霞が関ビル内の東映不動産で、黒人大リーガーのブッパ・モートン外野手(38)=178㌢、82㌔、右投げ、右打ち=の入団が決定したと発表した。同日午前十一時、同オーナー代理がモートンとの交渉に当たっていた東映ニューヨーク出張所の遠藤所長に電話した結果、東映入りを確認したもので、二月十五日ごろ婚約者を同伴して来日、直ちに伊東キャンプに参加する。モートン選手は三十六年、大リーグのタイガースに入団、そのごブレーブスを経て、四十一年にロサンゼルス・エンゼルスに移籍、現在にいたっている。大リーグ時代の通算打率は・267で、三十九年にタイガースの一員として来日したこともある。昨季は八十七試合に出場、百七十二打数、四十二安打、本塁打七本で、打率・244をマークしている。どちらかといえば中距離ヒッターだが、エンゼルス時代は「大リーグでも代表的な代打者」との折り紙がつけられていた。東映では張本・大杉につぐ強打の外人を獲得して70年の優勝をめざそうと、昨年暮れ大川オーナー代理が直接渡米、米大リーグのドラフト会議が開かれたフォート・ローデルデールで各球団のオーナー、監督などに候補者の選考を依頼するなど、積極的に動いていた。一方、西鉄もボレス外野手を通じてモートン獲得に動いていたが、東映の条件が四万㌦で西鉄を上回ったこと、ヤンキースのマックヘル・ゼネラルマネージャ、ホーク監督ら強く推薦したのが、モートンを東映入りに踏みきらせたもよう。なお東映ではモートンの獲得にともなって、コーチ陣の一部編成替えを行い、英語の話せる村野力男コーチ(ファーム担当)を一軍コーチに起用することも検討している。

松木監督の話 守備位置や打順などは本人とよく話し合ってみなければわからないが、三塁を守った経験もあると聞いているので、三塁をやってくれれば一番いいと期待している。打順はいちおう、一、二番か五番を考えている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花田敏郎

2020-08-11 13:36:38 | 日記

1970年

「福岡で知っているのは太宰府と板付空港。中学三年生のときに修学旅行で来たからです。その時の宿舎がどこで、博多の町がどうだったか何一つ覚えていない。板付でデッカイ飛行機の離着陸を見て驚かされた」と思い出を語る。もちろん、平和台球場など知るよしもない。「やっぱり、こんな球場で練習するとピリッと身が引きしまりますね」地方の球場では味わえないものをハダ身で感じたという。「西鉄に入団できてよかった」花田はプロ選手になったということがたまらなくうれしいそうだ。百道寮では柳田(延岡商)と同室。ともにいい意味でのライバルになることを誓い合ったそうだ。また、花田にとって心強いのは川内商の球友上薄遊撃手とともに西鉄入りしたことである。「高校時代の延長みたい。だからなんの心配も不安もない」この分だとホームシックはなさそうだ。趣味は「魚釣りで、ちょっとした腕前だそうだ。「川内の家から海岸までは五百㍍。ひとっ走りで夕食のおかずを釣ってくる」ほどだからたいしたものだ。「百道の寮からは50メートルで海。でも、百道のにごった海岸では魚も寄ってこないでしょう」と残念そう。ニックネームはハナちゃん。「ハナちゃんは弱々しそうなので、何か考えてみる」という。目標は「池永さんのような選手になりたい」そうだ。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳田豊

2020-08-11 13:20:15 | 日記

1970年

サーキット・トレーニングが苦手。「みんながへっちゃらの顔でやっているのがうらめしい」と柳田はいう。「スタミナのないこと」がくやしくて、合宿入りしてからは朝夕に人一倍のランニングと柔軟体操を続けているそうだ。「柳田はがんばり屋です」という同室の花田(川内商)とはとくに仲がいい。柳田はアンダースローだ。「高校二年の時、監督から下から投げてみろといわれて…」急に下手投げになった。それまでのオーバーハンドでは「かなりのノーコン投手」で、相手打者をこわがらせている。しかし、その当時でもスピードは県下で、一、二番を争うほどと自慢してみせた。「自分ではかなりの自信がありましたが、西鉄に入ってみて驚いた。みんないいタマをほうりますね」と柳田は感心している。もっともプロ一年生と割り切った考えで「ぼくはぼくなりに一人前になろうと思っている」という。目標は二年後で、それまでに河原をはじめとする泉沢、古屋などの下手投げ投手を手本に「いいところをいろいろと盗んで勉強したい」と欲のあるところをみせていた。ニックネーム「ありません」趣味「山登りくらいかな…」性格は「さあ、どうですか」-、質問にはポツンポツンと答える。「ぼくはやっぱりおとなしいんです」こういってはにかんでいた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泉沢彰

2020-08-11 13:12:05 | 日記

1970年

「私服のときとユニホームを着てマウンドに立ったときでは、まるっきり別人のように変わる」泉沢の獲得交渉を担当した城島渉外課長はこう語る。第一印象ではこんな細型でほんとうに投げられるのかといった感じを与えるが、見かけとは違って「そりゃー、試合ではたいした心臓ぶりを発揮する」そうだ。平和台球場のマウンドに立った泉沢をみて「うん、やっぱりピリッとするものがある」ともらしたのは稲尾監督だ。「アンダースローのタイプとしてよくまとまっている。問題は投球のフィニッシュの瞬間だ。彼の場合、投げ終わった右腕が理想的によく伸びている」が稲尾評。「そうですか。いいといわれたことはさらにみがきをかけてみます」泉沢は素直だ。百道の寮生活。「ええ、もうだいぶ慣れました。みんないい人ばかりで…」ところが、博多の町にはこの二週間でたった一度だけしか出たことがない。「うわついた気持ちになれない」が理由。寮生活といえば盛岡鉄道のときも寮にいたという。「三百人ほど入っていましたね。二人一部屋。二段ベッド。機関区、車掌区、保線、駅、それに野球部員、もちろん、独身ばかり」-。泉沢が入寮したのが三十九年だからまる六年間も世話になったわけ。「寮のヌシ。最後は寮長」ということから百道寮でも、どうしても節度ある生活になるそうだ。「九州弁?むずかしいですね」目下のところ同室の阪口(直方学園)に「よか、よか」と指導してもらっているそうだ。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャクソン

2020-08-11 11:44:48 | 日記

1966年

産経のルー・ジャクソン株が高騰している。湯之元のキャンプではバッティングがあらすぎる。三割はどうか?と疑問視されたが、オープン戦では好守、好打文字どおり産経のけん引車ぶりを発揮している。「日本の野球に慣れるのが精いっぱい」とジャクソンは控えめだが、どうしてどうして、魅力の乏しかった産経に、新風を吹き込んでいる。ジャクソンの打撃は豪快だ。バットを立てて大きく後ろに引き、左ヒジを思い切り上げる。バットの先端をぐるぐると回して投球を待つ。打撃はほとんどライナー。十五日の対南海戦で放った初ホーマーといい、二十七日の対大洋戦で新治から奪った2号ホーマーといい、日本のプロ野球ではなかなかお目にかかれない豪快なもの。三十日現在52打数16安打、3割8厘、8打点。二月初め来日したとき、ジャクソンは「本塁打35本、打率三割、打点90」と大きなことをいった。ところが、キャンプ初めは強引に引っ張るバッティングで、打球は右翼ファウルばかり。内角も外角もない。ファウル打ちの名人とまでアダ名された。あれでは日本の変化球投手には、手もなくひねられるのではないか、と専門家筋やナインが首をひねったものだ。それが、岡本コーチからスタンスを変えることと、レベルスイング(水平打法)をアドバイスされて、すっかりあらさがとれた。「ルーのよさはすなおなことだ。九年間もアメリカで野球をしてきた者なら、そう簡単にフォームを変えようとはしないだろう。それが、彼の場合は、日本の野球にはそれが必要だとわかると、すぐフォームの矯正に努力した」と飯田監督も感心している。もちろん、ジャクソンの魅力は強打。そのフルスイングにある。それを簡単に変えることはできない相談である。まだまだ荒っぽさが残っているが、低めのタマが得意というから、日本向きの外人選手といえよう。すなおなだけでなく、岡本コーチのアドバイスをすぐ実行できる器用さも待ち合わせている。ジャクソンも「私はまず日本の野球を知らなければならない。飯田監督や岡本コーチのいうことをよく聞いて、日本の野球に合ったバッティングをしたい。ぼくがただ一人で日本に来て、なんの心配なく野球ができるのはベースボールは一つだと確信しているからだ」と熱をこめていう。いわば、郷に入れば郷に従えというわけだ。ジャクソンの魅力はパワー・バッティングだけではない。打っても守っても、ひときわ光快足だ。ただいま盗塁7個。全盛期は百㍍を10秒4、5で走ったことがあるといい、足にはかなり自信を持っている。二塁ベースの手前5㍍ぐらいから猛然とヘッドスライディングする。本塁から一塁まで3秒4、ベース一周は全盛期に13秒フラット、いまでも14秒は軽く切る。左バッターの利を生かして、スキあらば二塁をねらうだう。まずセ・リーグの盗塁争いに一枚加わることは確実だ。それにもまして、その俊足をとばしての守備、矢のような返球がすばらしい。すでに何度か産経のピンチを救った。二十一日の対東映戦ではジャクソンがカゼのため欠場、強風のためもあるが、産経の外野は目測を誤ってうろうろ。飯田監督をして「ルーがいたらなあ…」と嘆かせた。彼がいるといないとでは大きな違いなのだ。とにかく、ジャクソンはいまや産経の大黒柱。ジャクソンも元大リーガーとしての経験を、できるだけ産経ナインに吸収してもらおうとしている。例をあげると、走者がいるときの外野フライのとり方だ。すぐ返球できるように右ききの選手なら、顔の右側で捕球する。すばやく返球できるからだ。ベースランニングでは、次のベースをねらって走るときは、左足でけった方が小さく回れる、と産経選手に口をすっぱくして説明していた。あたりまえのことだが、これまでの産経選手はそのあたりまえのことすら守っていなかったわけでもある。身長178㌢、体重76㌔。日本選手とあまり変わらない。しかし、その爆発力、ハッスル・プレーは産経になかったもの。豊田が本調子でないだけに、ジャクソンの活躍はなおさら光る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正垣泰祐

2020-08-11 11:06:16 | 日記

1968年

身長165㌢、体重66㌔ー。プロ野球選手の体格としては極小の部類にはいる。阪急には山本というチビ選手がいるが正垣は体重こそ、この山本より10㌔多いが身長はまったく同じだ。ところがこの小男、日大時代東都大学リーグに旋風を巻き起こした。四十一年秋、一シーズン6ホーマーと四死球19(打数41)という新記録をつくったのを手はじめに、四十二年春までに通算13ホーマーというデッカイ新記録を樹立したのである。最後の年は、肉離れや死球禍に出くわして思うぞんぶんに活躍できなかったが、四年間の通算打率・294、13ホーマー。二年から三年にかけて連続四回ベストナインに選ばれている。正垣が阪急の自主トレに参加して数日後のことだ。長池、森本、岡村らチームではユビ折りの力持ち連があっけにとられた。ひょいとバーベルを持ち上げた正垣が、肩の高さで水平に前後屈伸を五回、六回・・・・と軽くやってのけたのだ。そして胸から肩にかけて盛り上がった筋肉、太い腕をまのあたりにして二度びっくり。西本監督が、パンチのきいた正垣のバッティングにウーンとうなったのはその直後だった。「とにかく、あの馬力にはほれぼれする。フォームに難点がないこともないが、タマのとらえ方は悪うないし、あのままでやらせてみる。そして、壁にぶつかったらそのとき改めて考えるつもりや」-西本監督と関口コーチは早々に合格点をつけたのだった。「なんだが、こわいような感じがした」と西本道場の感想を語っていた正垣だが、高知キャンプでは伸び伸びと力を発揮している。長池に負けず劣らずポンポン外野席にはじき出している。「足と肩には自信がある。バッティングも外角球をもう少し打ちこなせば…。大学では外角球を力で左へ持っていけたが、プロではそうもいかないでしょうからね」とキャンプの課題を外角打ちに置いている。「ウチの外野はビッコが多くまともなのは長池一人ぐらい。正垣のバッティングがホンモノとなれば、三拍子そろっているだけにポジションを奪うことになるだろう」と西本監督は正垣が即戦力となることをにおわしているが、当の正垣も「からだは小さいが、馬力と負けん気ではだれにも劣らないつもりでいる。なんとしてもポジションを取らなければ…」と闘志をムキ出しにしている。熊本県は宇土の出身。幼少のころからスポーツ万能の正垣は親の猛反対を振り切って、野球をするために熊本工に進学したという。負けずぎらいときかん坊では数々のエピソードを持っているとか。ともあれ新入りの小兵・正垣の株は日増しにあがっている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊川昭二郎・脇坂隆志・田端謙二郎

2020-08-11 10:33:35 | 日記

1967年

近鉄の明石キャンプで鎮西の三人男が注目されている。菊川昭二郎内野手(22)脇坂隆志外野手(21)田端謙二郎投手(20)の三人がそれ。「やけにめだってきた。三人三様にことしはきっと活躍してくれるだろう」と小玉監督を喜ばせている。三人は口をそろえて言う「後輩には負けられません」これが飛躍の理由。それもそのはず、春の選抜大会に母校鎮西学園高が初出場するからだ。そこで張り切る三選手のキャンプぶりをのぞいてみた。

「先輩、きょうは当たっていますね」フリーバッティングの投手を終えた田端が額に汗を流しながらこう話しかけた。「いやー、そうでもないぜ、それにしてもおまえのタマは日に日によくなるのう。詰まって打てんバイ」菊川が右手首を振りながら痛そうなしぐさをしてみせる。こうしたやりとりを見ていた小玉監督が「オー、練習張り切っとるの…」と二人に声をかける。右翼では脇坂が左右に打球を追っていた。この三人、ともに鎮西学園の出身。脇坂を中に先輩菊川、後輩田端となるが、いずれも九州高校球界では、ちとばかり名の売れた選手だった。もちろん、プロ入りするときも三人三様に花やかなもの。遊撃の菊川は軽快なタマさばきをみせることから、飛エンの名手、右翼手脇坂は別当監督みずからが金のタマゴとPRにつとめ、田端投手もノンプロ球界で話題となったカミソリシュートを売り物、そのデビューは大いに期待された。ところが、どうしたことか入団の年は決まって不運がつきまとう。菊川はまだしも脇坂は腰を痛め、また田端はキャンプ早々に肩をやらかして一年間を棒に振ってしまうといったぐあい。鎮西勢のめんぼくはまるでなかった。だが、小玉監督が誕生した昨年の秋季連取ではまず菊川が頭角を現し、つづいて田端が復調の投球をみせる。明石キャンプでは「いまいちばん楽しみなので脇坂の伸長だ」と芥田社長が目を見張るほどになった。足並みそろった三人。ではどうしてこんな結果が出たのだろう。先輩株の菊川が答えてくれた。「母校鎮西が選抜大会に初出場するのです。発表は今月の六日でしたが、選出されるのは母校が昨秋の九州大会で決勝戦に進出したときからわかっていました。そこで三人が話し合ったのです。母校のためにも恥ずかしくないプロ選手になろう。また、後輩の模範となるような選手になろうと。こんなわけです」-。脇坂は「甲子園高井の祝電を打った日にジーンとくるものがあった」という。やる気がいやがうえにも燃えあがったそうだ。菊川はすでにベンチ入りしている。昨年は28試合に出場しているが「こと守備にかんしては近鉄随一。しかも二塁、遊撃どこでもござれ。とくに併殺プレーはあざやかだ」小玉監督にも絶対的な信頼がある。だが173㌢、64㌔という小柄なことから打撃にパンチ力がない「シャープな打法だが、いま一歩…」と小玉監督は言う。そこで菊川は体力をつけることにつとめている。「目標の体重70㌔はムリかもしれないが、そのわかり足腰と腕力をとことん鍛えている」そうだ。「あんないい素質を持った選手がどうして伸び悩んでいたんだろう」脇坂のことを芥田社長はこのように言う。182㌢、80㌔の体格は巨砲ボレス、土井をしのぐほどで、しかも強肩の持ち主、外野手の資格はどれをとっても不足はない。だが、欠点はあった。「脇坂は入団当時にちやほやされて、そのあげくに長打を打つことのみが頭にこびりついた。だから、どんなコースでも長打しようとする」と芥田社長は指摘する。「だから言ってやったんだ。ヒットを打つなら試合に出してやる。フライが出たらダメだとね。とにかく恵まれたからだをしているから、まともに当たればヒット性でも長打になるはず。いまはそれがわかって野球の楽しさを味わっているよ。こいつはきっと戦力になる」と結んでいる。一方、田端は正月を返上しての勝浦温泉(和歌山)ですっかり復調した。明石キャンプでは痛みをこらえていた昨年のぎこちないフォームは完全に一掃されている。「タマの威力そのものはキャンプの段階だけにどうこういえないが、真っ向から投げおろす速球には角度があり、その投球からの変化球が投げられるとしたらやはり実戦ではじゅうぶんな威力となる」と沢藤コーチは言う。やがて変化球を思い切って投げることになるがカミソリシュートの再現を小玉監督も期待したいところだ。田端は「三月七日を楽しみにしている」と言う。その日の熊本で近鉄ー産経のオープン戦が予定されているが、ご当所で再起した姿をファンに疲労したいそうだ。もちろん菊川、脇坂の両先輩も意気込んでいる。「鎮西必勝、近鉄躍進です」近鉄の鎮西トリオはがっちりと肩を組んだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩崎良夫

2020-08-11 10:04:36 | 日記

1968年

ことしも広島には七人の新人が入団した。身長1㍍88、体重85㌔と、外人選手を除けば十二球団でもっとも大きい植村秀明投手(奈良郡山高)関西社会人のベーブ・ルースとうたわれたリストアップ一位の井上弘昭外野手(北陽高ー電電近畿)ら大物新人のなかにあって岩崎は線の細い感じだ。リストアップ四位、身長1㍍73、68㌔、作新学院から立正佼成会で活躍した選手だが、プロ選手としては小粒だし、井上弘、植村ほどのハデさがない。それでいて、日南キャンプでは新人のなかで岩崎株が急上昇している。「からだが柔らかく、バッティングは実戦的なものを身につけているから、現段階ではうちの秘密兵器だ」と岩崎の動きに注目しているのが上田コーチだ。深見コーチは「きゃしゃな感じだが、からだが柔らかく、バッティングのカンは実にいい。肩もよく、足もあるので、内野手としての素質はじゅうぶん。これから守備力をつけることが必要じゃないか。それに練習でも自分から進んでからだでおぼえるだけの欲がほしい」と注文をつけている。ホームシックにおちいりがちな新人のなかで、岩崎は「高校、社会人と合宿生活になれているので日南キャンプで家が恋しいと思ったことはない」とすっかりキャンプのなかにとけ込んでいる。「からだが小さいので、やはり自分のからだに合ったシャープな打法を身につけたい」と自分の行く道をしっかりつかんでいる。性格も素直でまじめな選手。西鉄の基内野手ばりの実戦的なバッティングに「ニガ手」という守備力がつけば、ことしの広島の新人中で一番にとび出しそうだ。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥坂九十九

2020-08-11 09:25:49 | 日記

1976年

ふざけた野郎がいる。重たそうな数字を背中にくっつけて、求められて筆を走らせたサインの最後が99。近鉄の鳥坂九十九投手はこのバカでかい自分の名前を、四年がかりで背番号に張り付けた。「重たくなんかありませんよ。これからはピッチングに精を出すだけです」と満足感にひたりきっている。入団したとき背番号99を要求した。球団側は「これはやれない。近鉄が日本一になってパレードするとき、99と100番は代表、オーナーがつけることになっている」と突っぱねた。しかし鳥坂は昨年暮れの契約更改で再び切なる思いを打ち明け、年棒は上がらなかったが、念願の99を獲得した。名前はつくもと読む。父・勝次さんが「100㌫完成された人間はムリとしても、努力しだいでは九九㌫まで近づくことができる」そんな人間になって欲しいというので命名したことになっているが、鳥坂は「郷里に九十九という名の小島がある。めんどうくさいからそれをとったのでしょう。五月生まれの妹の名は五月です」といっている。瀬戸内海に浮かぶ小豆島に生まれ、子供のころから99番をつけてプロ野球のスターになるのが夢だった。高校を出ていったん日産自動車に入社、その後念願をはたすためにテストで近鉄へもぐり込んだ。二十二歳の若さ。第一線でファンに自慢の背番号をお見せする日はまだ時間がかかりそうだが、鳥坂の胸のなかは99よりまだ大きくふくらんでいる。ふざけてなんかいないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二宮忠士

2020-08-11 09:15:59 | 日記

1968年

東映の新人のなかで、この二宮の入団が一番先に決まった。どうせプロに転向するのなら、一日でも早くという意欲がうかがえる。キャンプを見にやってくる付近の少年ファンのあいだでも二宮の名前がなかなか売れている。新人といってもノンプロの東芝で四年間、中心打者として活躍しており、高校を出てすぐはいってきた選手たちより、同じ新人でも年期がはいり、野球のむずかしさを知っている。守備は堅実。打つほうもハデなのは飛びださないが、なかなかしぶとい。打撃面を受け持つ藤村コーチは「腕力はそれほどあるほうではないが、変化球にもうまくバットを合わせる。こういうタイプが実戦むきだ」とひそかに期待を寄せている。昨シーズンのノンプロの成績は約50試合に出場して3割3分の好打率を残している。174㌢、76㌔のむしろ小型の選手だが、本塁打も10本たたき出しているという。「打つのはかなり自信をもっている。しかしいくら打てるからといってもその場を与えてもらわねばなんにもならない」と現在の二宮はまず実力を認めてもらうのにひと苦労。東芝時代のポジションは遊撃だったが、この位置は大下が一年めでがっちりつかんだ。さいわいなことに二宮は遊撃だけでなく二塁、三塁もこなせる。足も速い。百㍍を11秒台で走る。キャンプでは二塁と三塁の両方を練習させられている。二塁には青野、岩下、巨人からきた松村、三塁は佐野、高島、さらに新人の末永もねらっているから。二宮がこれらの競争相手をしりぞけていくのはかなり苦しいが、闘志さえあれば、それだけ張り合いもあろう。東映は午後三時近くに練習がひととおり終ると、毎日新人を二、三人ずつ残して特訓をする。努力型の二宮はこのときがチャンスとばかりに、進んで特訓を受け、苦しみに向かっていく。むしろ、しごかれるのが楽しそう。やっと練習から解放された二宮は「早くスピードになれたい。投手の投げるタマだけでなく、野球そのもののスピードがノンプロと違う。まだついていけない」と率直にプロのきびしさを述べている。おとなしい性格だが、シンは強い選手である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高木真一

2020-08-11 08:56:32 | 日記

1978年

九州六大学野球から、ことし門田(西南大)が大洋にドラフト一位で入団したが、九州六大学出身のスターは「なにも門田クンばかりでは、ありません。ボクだって…」と門田にライバル意識を燃やしているのが、今季広島にドラフト六位で入った高木真一投手だ。高木は、久留米大中退、生粋の九六派とはいえないかもしれないが、門田より先輩。「負けてたまるか」と意地で門田をしのぎ、九六出身のスターとしての自己を主張しようとしている。

高木は、四十年山口県下関市の早鞆高から久留米大に入学した。その年、早くもエースの座を確保、秋の九州六大学野球リーグ戦での久留米大初優勝の原動力となった。同年、久留米大は全国大学選手権に出場、東京六大学二位の明大、四国代表の松山商大を破って九州六大学では初のベスト4に食い込んだ。「このときぐらい痛快だったことはありません。九州のレベルもまんざらではないと自信を持った」そうだ。四十八年秋のリーグでも優勝したが、三年のときの四十九年、家庭の事情で学校をやめなければならなかった。このとき「南海から声がかかった」が、家族が「将来が不安」と反対、手堅いノンプロの道を選び、五十年、三菱広島(広島市)に入社した。ノンプロで力を出してやると張り切っていたが、企業の水はからかったようだ。会社では、高卒扱いで、現場に出された。野球でも、下積みで「勝手にフォームをいじられて頭にきた」という。やっとエースに浮上、13勝をあげて広島のスカウト陣の目に止まったのが昨年。「ドラフト指名は下位で不本意だったが、この機会をのがしたらもうダメとプロに飛び込んだ」「門田クンは、三年のとき少し投げ合ったことがありますが、たいした投手と思わなかったですがねー。それがドラフト一位ですか…」いまでも九州六大学ではオレが上と思っている。大変な負けずギライである。ルーキーといっても二十四歳。「ほかの新人のように何年後に一軍なんて言っていたら投手生命は終わってしまう。一日一日が勝負と思っています」早くもレギュラーに食い込まんばかりの勢いだ。首脳陣も高木を即戦力とみている。「サイドスローで、コントロールがいい。カーブはなかなか鋭いものがある」と若生コーチ。先発、投げ切りというより中継ぎ、抑えの投手として期待されている。本人も「いまさらタマが速くなるわけでなし、目先を変えてうまくかわしていくだけです」とその点を自覚。池谷、高橋里ら先発型の多いなか、的確に存在価値をアピール、あわよくばセーブの切り札・江夏を食おうかなの勢い。図太さで、まずは、キャンプ「合格」のようだ。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石井邦彦

2020-08-11 08:32:47 | 日記

1978年

日本ハムのルーキー石井(大東文化大)が、多摩川グラウンドの合同自主トレで大物ぶりを見せつけている。ランニングをすれば、ナインの一団からはるか後方をノッシノッシ、腹筋や背筋の柔軟体操では、他の選手が次の種目に移っているのに、前の種目に「ヒーヒー」言いながらアタック。ドラフトは一位だったが、自主トレはなにをやってもドンジリだ。これには、さすがの大沢親分もあきれ顔だが「いい加減にやっているんなら問題だが、あいつの顔を見てると精いっぱいやってるみたいだ。それにしても大物だね」と変なところで感心することしきり。あだ名はギョロ目。これは高校、大学を通じてのもので、走るときに目をむくことから、先輩がからかい半分でつけたものらしいが、プロに入って密度の濃い練習に、そのギョロ目はますます飛び出しそう。しかもアゴは出っ放しで、なんとも珍妙なるスタイルで走るのだから、大沢監督以下全コーチの目にとまり「コラーッ!石井ッ」と怒鳴り声が飛びっ放しだ。だが、石井はけっしてピッチを早めない。185㌢、82㌔の巨体を持てあまし気味に、のんびりと走り続ける。「大学のとき、一、二年まではランニングもやっていたんですけど、三、四年になったら下級生にオマエらちゃんとやっとけよと言ってるだけだった。その罰をいま受けているんでしょう。練習のつらさより朝早く起きるのが、自分にとっては試練ですよ」とケロリ。監督コーチのおしかりはまるで聞こえないようだ。それでも、大沢監督の期待は薄れていない。「あのくらいの足腰で、大学時代はエースだったんだから、一、二年ビッシリ鍛え込めば大変な球を投げるようになるぜ」下手投げに弱い阪急対策で、ドラフト一位に指名されたことは本人も承知している。エース高橋直に次ぐ下手投げの切り札として「一日も早くマウンドに上がりたい」ときっぱり。大沢監督は「うちは投手陣の層が厚く、簡単には一軍に入れないよ。将来は楽しみだけどね」と即戦力には加えていないが、本人は「大学では全試合に登板、連投連投でヒジや肩のことを気づかって、右打者の手元に食い込むシュートは投げていなかったけど、登板間隔のあるプロでは思い切っていけそう」と、ランニングのみじめさとは打って変わって胸を張った。確かにスケールの大きな新人だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉持明

2020-08-11 08:18:09 | 日記

1980年

ロッテの倉持がセーブ男の本領を発揮した。連敗すれば見えかけている優勝に黄信号がともる大事な試合だったが、鮮やかな火消しぶりをみせた。すでに八セーブをあげ、ロッテ躍進の大きな力となっているが、改めて「頼りになる男」ということを証明した。鼻の下にヒゲをたくわえた倉持が、マウンドに向かったのは八回。6点を1点差まで追い上げられ、なお一死二塁。ヒットでも同点、一発を食えば逆転打。しかし、倉持は落ち着いた投球をみせた。長打力のある王天上に対し、初球はカーブでストライク、ファウルで2-0と追い込み、三球目はチェンジアップ。この一球が心にくい配球だ。王天上はファウルしたものの、完全にタイミングを狂わされた。そして、一球ボールの後、五球目はヒザ元に速球をズバリ。王天上のバットはピクリとも動かなかった。次の山本雅も内角速球で詰まらせ、右飛にうち取った。「気力ですよ」と倉持、この日の倉持は「疲れから肩が重かった」試合も中盤で6点をリードし、出番はないだろうと思って、すでにベンチに上っていた。それが信じられないようなピンチ。急きょ、ブルペンで十球程度の投球練習をし、マウンドへ上がったのだ。倉持は四十七年にロッテ入り、クラウン(現西武)を経て、昨年、古巣に戻った。八年間の通算成績は十一勝十敗八セーブ。さして目立たぬ存在だったが、今季は勝ち星こそないものの、すでに九セーブ。十六試合、三十一イニング三分の二を投げ、被安打18、自責点5、この自責点も、四月二十日の近鉄戦で一度に四点を失ったもので、あとはいかにパーフェクトな投球をしているかが分かる。この日、すでに十勝へ一番乗りし、山内監督が自信を持って起用した仁科が打ち込まれた。もし、負けていたら、ショックは数字以上に大きいものになったろう。それだけに、倉持のピリリとしまった投球が光った。ラストスパートに入り、倉持の登板は多くなりそうだ。「気力しかありません、あすもいきますよ」と倉持は頼もしい言葉を口にした。


倉持がセーブ男の本領をみせた。1点差で迎えた八回無死一塁の場面から登板。後続三人をなんなく抑え、九回二死から島田誠に打たれ、柏原に一発が出れば逆転サヨナラというピンチに立ちながら、落ち着いて切り抜けた。これで14セーブ目、両リーグを通じて江夏(広)の13、金城(南)、遠藤(洋)の8をシリ目にトップに立った。
ーがんばったね。
「前日、打ち込まれているし(四日の阪急戦で、2点リードしながら最終回、同点に追いつかれて引き分け)きょうは絶対負けられないと思っていた。ストレートが走らないので気力で投げました」
ー八回のピンチで、千藤のとき、八球もけん制球、「ヒット・エンド・ランを防ぐのと、自分自身投げ急いでは危ないと思っていましたからね。根気で勝負したんです」
ーこれで日本ハムから5セーブ目。
「えっ、そう。別に相性がいいというわけではないんですが・・・」
試合前、山内監督は全選手に「前期の自信でやろう」とハッパをかけた。しかし、点を取れば取られる危なっかしい展開。「胃に悪い試合だった」そうだ。しかし、倉持が大詰めで力投、監督の期待にこたえた。相変わらず「抑えのエース」として頼もしい存在である。

1981年

倉持が今季初勝利。八回から登板して南海を2安打無得点に抑えた。一昨年は18セーブ、昨年は11セーブとロッテ抑えの切り札だったが、右手指にマメができる不運でシーズン初めに二軍落ち。しかし、約1カ月の調整が実った。「カーブを多投したが、投げられてホッとした。マメも徐々に良くなったし、ボツボツやりますよ」とニッコリ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする