プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

木原義隆

2018-01-29 19:44:08 | 日記
1964年

近鉄入りが内定していた法大木原義隆投手(22)=1㍍83、72㌔、右投げ、右打ち=は十三日、東京・武蔵小杉の法大内で行われた納会後、正式に「近鉄のお世話になります」と近鉄入りの意思を表明した。同投手は海南高校時代甲子園大会に出場、法大二年生の秋季リーグ戦で好リリーフをみせ、優勝に貢献、三年生のときは山崎(現巨人)竜(現東京)の陰にかくれ目立たなかったが、今春エースになった。プロ球団は近鉄のほか、南海なども誘いをかけたが、スタートから近鉄が独走したもの。なお同投手はきょう十四日、和歌山県海南市の自宅に帰り、近鉄との正式契約は十八、九日のいずれかになる模様。

木原投手の話 近鉄さんは最初からずっと変わらぬ誠意をみせてくれたし、好不調にかかわらず常に僕を買ってくれていました。また高木さんや根本さんら先輩もいるので、最初から近鉄以外は考えていませんでした。もちろんプロでやれる自信があるからはいったので、同じ人間がやるのだし、ある程度いけると思っています。何勝するというより、まず最初の1勝をめざしたい。目標は杉浦さん(南海)秋山さん(大洋)ですね。やはり同タイプの投手ということになります。
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迫田七郎

2018-01-29 19:42:51 | 日記
1964年

ペナント・レースが終わったとき東京の幹部達は、なんとか小山坂井につづく、第三の投手を得たいと思った。トレードでその候補を物色するかたわら、連日の練習では若手を一人前にすることにとりかかった。その若手の一番手が三十一日足利市での対大洋オープン戦に先発した迫田。ベスト・メンバーに近いオーダーの大洋打線相手であり、ひとつの試金石とみられたトライアルだった。これを六回まで4安打の散発、みごとな投球で投げ切ったあたり、来シーズンへの大きな希望の光りが輝いたといえる。迫田七郎、昨年秋、鹿児島から知人の紹介でひょっこり東京へやってきたときはまったく無名だった。マウイ・キャンプへも行けず突風吹きすさぶ川口球場で、ホオを真っ赤にさせて黙々と投げていた。そのピッチングは、ねちっこいという形容詞がぴったり。残留組の坂本、三浦、植村三コーチの秘蔵っ子としてサコとかわいがられていた。ナインの評判も「サコの球は自然に落ちる」「シュートがいい」とよかった。六月一日の研修明けまで迫田は、イースタン・リーグでのヒーローだった。ジュニア・オールスターにも選ばれ「サコが出ると勝てる」とナインの信頼もピッチングに自信をつける要素となった。六月からは待望の一軍入り。だが、好事摩多しというのか、先発を予定されていた東映戦で二回も雨で流れ、そのうち一軍で神経を使ったが、八月十日から病に倒れた。川口球場でまるまると太っていた顔がいまでは見る影もなくやせて、ゴツゴツした感じだが、その肉体的な苦労とは逆に、彼のピッチングはますますみがきがかかってきた。イースタン・リーグの成績は11勝4敗。もう来シーズンへの欠かせない戦力である。「このオープン戦4試合は、毎日でも投げさせるんだ」と真田コーチも期待をかけ、そのことばどおりこの日の先発となったが、なみいる大洋打線をピタリと押さえた力投に「サコがよく投げられるようになった。まだスタミナの点で完投はむずかしいが、後半までもちこたえることができたのだからりっぱだ」と本堂監督も賛辞を惜しまない。「病気をしてからピッチングが少し変わりましたがかえって前よりもよくなった感じです。腰の入れ方をちょっと少なくしたのがよかった」と、とりかこまれた迫田は小声で語ったが、大先輩小山のピッチングを目のあたりに見て、いままでの投球にムダが多かったことを見出し、それを自分で直したところにも、彼の良さがうかがわれる。「とにかく一軍で投げたい。そして新聞に乗った記録や写真を鹿児島の家へ送るのが、なににもまして僕の楽しみです」とシーズン中いいつづけてきた迫田だが、来シーズンこそ、その夢もかなうだろう。
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飯尾為男

2018-01-29 19:38:15 | 日記
1959年

「オールスターに選ばれてこんなうれしいことはない」素直に受け、手ばなしで喜ぶ開きっぱなしの快青年。飯尾とはこんな男である。「プロ野球に入ったとき(大映)ぼくは一番若いプロ野球選手で十六歳だった。当時の球団にはスタルヒン、飯島、伊賀上というベテランのお父ちゃんばかしやった。毎日毎日三十分間、夏でもフリー・バッティングのピッチャーをやらされてきた。シンドかったよ。それがいま東映ではぼくが一番トシヨリになってしまった」十年選手。しかしまだ二十六歳。十年たてば去ってゆく名選手の多いこの世界で、十年たってようやくエースの地位に近づきプロ野球選手のすべてが望むオールスターに選ばれた。変ったコースを歩む、本格派投手飯尾とはこんな男である。「大映では藤本さんや先輩が、コセコセ投げるな。速い球を投げろ!といわれて育った。十年たってまだ肩もこわさず、ますますコンディションが出そうなのは、この指導のお蔭だと思う。カーブや変化球を投げさせられていたなら、十年ですっかりメチャメチャになっていたでッしゃろな」自分を育ててくれた監督や先輩に、常にその感謝の念を忘れぬ男、飯尾とはこんな男である。「だからぼくはいまでも、多少スピードは全盛時代よりも落ちると思っとるけれど、ゴマカシの球は投げないつもりや、タマにゃあ打たれてもいい。豪速球をドカンと通したい。その球で三振を取ったときの気持は、真夏のサカリに、冷たい生ビールをグートやったときのような気持やな」飯尾とはこんな男である。「もう一人ぼくには尊敬すべき先輩がいる。もと大映のショートをやっていた山田潔という人、いま大毎の二軍のコーチをしているんだけど、十年間つき合って、最初から最後までボロの出ない誠実な人だ。地味で堅実でウソがない。ぼくはこんな人を手本に、ぼくの人生を歩いていきたい」飯尾とは、こんなことをいう男である。一・七六メートル、七〇キロ。昭和八年生まれ愛媛県の出身。新居浜高から大映、高橋東映とその恵まれた体格と剛球を武器に十年間。ようやく東映でその実力を発揮するキザシに立っている。五人兄弟のオトンボ(末っ子)。東京では姉美智子さんとの二人暮し。大田区上池上に立派な家を建ててヒッソリと住んでいる感じ。お嫁さんはまだらしい。「早ようもろうてもらわんと、わたしお嫁にいけません」とお姉さんがいう。「もうもらわなあきませんか」とは無責任な返事。「もうそろそろとは思うてますが、これというのが見つかりませんので・・」二十六歳だが十年選手の経験がそうさせたか、三十すぎた分別もある。「どうせもらうなら、ショートパンツぐらいハイて、やあ為さん!とくるような女房がいいね」ときた。飯尾とはこんな男である。「ぼくは子供が好きでね」と話を逃げる。「家の表で遊んでる近所の子供とソフトボールをして遊ぶんです。昼間ね。すると夜の試合のとき身体がやわらかくコンディションがいいんです。昼間、家の中でゴロゴロしてると身がナマっていけまへんな」飯尾とはこんな男である。「ピッチャーは大変ですよ」話は野球にもどる。「バッターを向こうに回して戦うのは当たり前の話ですが、審判との戦いもある」ヘエーと驚いてみせると、「くさい球をボールに、しかも大切な所でボールにとられると、たいてい頭にくる。しかし、カーッとなって審判に頭にくるような抗議をするとやっぱし損だ。次からのくさい球はみんなボールに取られちゃう」なるほど十年の経験だ。「また審判によっては現役時代にインコーナーに強かった人、または、高目に低目にとそれぞれ好き嫌いの好みがあるものや。あの審判はインコーナー好みやな、テナぐわいにその好き嫌いを心得てやらないと、大損になるときが多い。そんなときは取ってくれないとストライクゾーンはあきらめた方がよい」うーむ。審判との戦いとはこんなところをいうのだね。「だから、バッターの好みと、審判の好みも調べておかないとあかん。その上に自分との戦いがある。働くのは辛くともつねにベストコンディションを保ってなけちゃならんしな」関西なまりでさりげなくいうが、飯尾とはこんな男である。巨人藤田とは昔しの球敵よろしく藤田と振りあうべし。
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杉本公孝

2018-01-28 23:36:18 | 日記
1960年

一昨年の大毎がオープン戦で岩国に立ち寄ったことがあった。駅前の化粧品屋さんで買い物したとき、その店の女主人がぼくに気がついて盛んに自分の息子の自慢話をはじめた。立大の野球部にいてやっとレギュラーになったばかりだが、なかなか有望だということで、いい息子だということを盛んにしゃべっていたのを覚えている。いま考えてみるとどうもそれが杉本君のお母さんだったようだ。当時の杉本君はまだリーグ戦に出たばかりでぼくは知らなかった。しかし、そのごの杉本君は神宮でも何回か見たしテレビでもシャープなスイングは知っている。決してホームランをたたくロング・ヒッターではないが、シュアーな中距離打者で、とくにリストが強い。ぼくの母校慶応も彼のばっとでかなり苦しめられて実にいやなヤツだと思ったことも何回かあった。バッティングはまだ未完成だが守備は文句なしに一球品。肩はよし、フット・ワークよし、打球に対するカンもプロではりっぱに通用する。ただ心配なのは本職である三塁を守らしてもらえるかどうかという点だ。ライバル徳武君もはいったことなので三塁徳武、遊撃杉本という布陣が考えられるが、三塁から遊撃に移ることは並たいていのことではない。守備範囲が全然違うし、一塁までの距離も違う。同じ当たりのゴロをとるにしても三塁だったらスリー・バウンドでもとれるゴロも、遊撃の場合は四つバウンドしてからとることになる。二塁ベースを中心にしたプレー併殺、けん制、これがまたやっかいだ。三塁と遊撃ではまず文部大臣と外務大臣くらいの内容の差がある。二塁をやらされるかもしれないという話も聞いたが、そうなるとまたまた面倒だ。しかし杉本君は非常に努力家であること、肩と足がよいことから、案外早く新しいポジションをこなせるようになるのではないだろうか。杉本君にはもう一つめぐまれた点がある。それは徳武君が国鉄に入団したことだ。ライバルが同じチームで技を競り合うことはなによりもはげみになるものだ。キャンプでも練習でもとなりで片方が好プレーをみせればよーしオレもという気持ちになる。ただ一人ポツンととり残されるのにくらべたら相当違う。杉本君のプレーぶりをみていると、一つだけ気になることがある。それは地味な選手ということだ。徳武君の動きがかなりハデで大きく目立つ存在だけによけいに目につくのだろうが、プロの選手は長島をもって代表されるように、ハデな方が得をする。ハデにエラーばかりしていては工合が悪いが、地味な選手は実力相応に評価されない場合が多いし、目立たない。杉本はなるほどよい選手だとファンがいきなり目をつけるようなプロ的ななにものかを早く身につけてほしい。よい意味でのショーマン・シップはプロにはいった以上、これも勉強しなければならないことの一つだと思う。

出身校 岩国高ー立大 身長、体重、きき腕、1㍍76、75㌔、右投右打。
生年月日 昭和十三年七月四日。
現住所 山口県岩国市駅前。
背番号 未定。
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門岡信行

2018-01-28 22:54:51 | 日記
1962年

阪神最後の打者、遠井を三ゴロに打ち取ると、マウンドをおりる門岡に濃人監督がベンチからかけ足でとんできて握手。当の門岡以上に濃人監督のほうがよほどうれしそうだ。ベンチ前で高木時を相手に軽く肩ならしのピッチング。それがすむとふだんはあまり感情を顔に現さない門岡の顔が笑いでいっぱいになった。
ー代わりバナに少し打たれたが・・・。
「五回は投球が高めのコースにはいったのでいけなかったです」
ー武器にしたタマは?
「シュートです。江藤さんのサインどおりに投げました。だからカーブはいつもより少なかったです」
ーからだが最近大きくなったのでは・・・。
「3㌔ほどふえて、いまの体重は76㌔ぐらいです」
ー肩の荷がおりたろう?
「ええ、まあね。フフフ・・・」
江藤は「シュートがとても速かったのできょうはこれでいこう」と思ったのだという。五月二日相手も同じ阪神との五回戦で九回一死まで好投、初勝利を目の前にしながら逆転負けしておあずけを食ったが、こんどこそしっかり握ることができた。金のタマゴどうした?といわれ続けた門岡はこれで気分的にも楽になったはず。「きょうは最初から門岡のリリーフを予定していた。これでこんご自信をつけて投げてくるだろう」と濃人監督も手放しの喜び方だった。
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マニー

2018-01-28 22:26:25 | 日記
1962年

ニック・テスタ捕手の紹介で来日したフランク・マンコビッチ投手(25)=リトルワック(2A級)=は十四日午後、東京スタジアム内の大毎オリオンズ事務所を訪れた。松浦代表、宇野監督など球団関係者にあいさつをしたあと、ただちに塩津選手のユニホームを借りて軽い練習を始めた。最初ブルペンでテスタを相手に二、三十球投げたあと、グラウンドに出てランニングを行った。前夜羽田に着いたばかりで、練習といっても汗を流すていどのもの。本人の話によると「旅行の疲労がとれていないので本当のコンディションではないが二、三日中には普通のコンディションになる」といっており、大毎球団としては数日内に本格的テストをしたうえで正式契約する予定。同投手は右投げ右打ちで身長1㍍88、体重83㌔。球団では同投手をマニーの略称で呼ぶことになっている。大毎入りはほとんど確定的で「入団できたら残り60試合に10勝を目標にしてがんばる」と張り切っている。

ー日本で野球をやる気になった理由は?
マニー テスタから手紙でいろいろと日本のプロ野球のことを知らせてもらった。昨年まで2A級でやっていたが、アメリカでも2A級ではせいぜい四、五千人しかお客がはいらぬ。ところがテスタの話では日本は一万人ぐらいははいるということだ。これはたいへんな野球熱だと思う。そういったところでぜひ野球がやりたかった。こちらにくる前、二、三の大リーグから誘いを受けたこともあったが、年齢的にもう三、四歳若ければ大リーグのほうを選んでいたかもしれないが、二十歳を過ぎてから大リーグにはいったのではおそいと思った。
ー得意なタマは?
マニー はやいタマだ。
ーどれくらいのスピードボールか?
マニー 昨年投球スピード測定機ではかったときは88だった。(火の玉投手として知られたボブ・フェラーが90を記録した。普通のプロ投手は80をすこし越えるていどだそうだ)
ーそのほかの武器は?
マニー ドロップとシュート。
ー現在のコンディションは?
マニー 兵隊でもずっと野球をやってきた。ボクがいた隊のチームは軍隊ではもっとも強いチームで、ボクは7試合投げて全部勝ち投手となった。これまでのなかではことしがいちばん調子がいい。二、三日して旅の疲れがとれればすぐコンディションを取り戻せる。多分、この月曜日ごろにははやいタマを投げはじめることができると思う。
ーバッティングもいいそうだが・・・。
マニー 2A級のチームでは投手のなかでいちばんよく打った。打率は2割から2割5分くらい。オーバー・スタンドのホームランも打ったことがある。

松浦代表の話 数日中に本格的なテストをやりたい。そのうえで契約するかどうかを決めたい。

杉下コーチの話 はやいタマを投げていないのでなんともいえないが、フォームはまとまっている。
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秋本祐作

2018-01-28 22:08:58 | 日記
1962年

過去西鉄に五連敗の阪急は今季まだ1勝(南海から)しかしていない秋本を先発に起用する奇襲作戦に出た。立ち上がり若生を攻略して4点のリードをもぎとった打線のバックアップに大いに助けられた面はあったが、秋本は内外角をゆさぶるピッチングで米田、梶本兄らがニガ手とする西鉄打線を相手にもののみごとに完投、期待にこたえた。三、四年前は準エース格としてくせ球を売り物に活躍していた秋本はこの一、二年タマのキレに鋭さがなく、鳴かず飛ばずの状態だった。しかし、この夜はシュートの切れ味がすばらしく、タイミングをはずすカーブも小気味よく曲がった。しかもコントロールが絶妙。西鉄打線は左右に大きくゆさぶられて手の出しようがなく完全に秋本のペースに巻きこまれていた。最終回、長短4連安打を浴びてシャット・アウトを逸した秋本は「勝つには勝ったが八回までのがんばりがさいごで帳消しになった」としきりにくやしがっていたが、阪急六連勝の立て役者であることには変わりはない。戸倉監督が「きょうのゲームを秋本ひとりで勝てたのは夏場だけに大きい」とニコニコ笑っていた。
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八木孝

2018-01-28 21:59:33 | 日記
1962年

明大のエース八木孝投手(22)は十四日夜、同選手の後見人である大下弘氏(前阪急技術顧問)後援者の本川福治郎氏(佐伯市市会議員)と都内田村町の某中華料理店で話し合った結果、父親宗造氏の意向を尊重して最終的に広島入りを決めた。同選手は二、三日中に大分県佐伯市に帰省した後、広島で正式契約の運びとなる。八木投手は1㍍75、70㌔、左投げ左打ち、佐伯鶴城高出。
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楢崎量

2018-01-28 21:33:09 | 日記
1957年

楢崎は柔軟なフォームから繰り出す速球と切れのよいドロップがさえており、最近はスローカーブ、ドロップを巧みに使い分け、ときおり力にまかせて単調になる欠点も出さなくなった。もちろん大事な試合は楢崎一本ヤリ。

この日の若狭楢崎は速球だけでアウトシュートもきまらず、決して上出来ではなかった。
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下須崎詔一・上杉芳則

2018-01-28 21:22:18 | 日記
1962年

西鉄ライオンズは新人補強の第一陣として五日午後一時半、福岡市万町の同球団事務所で下須崎詔一(18)=鹿児島商、上杉芳則(20)=佐伯豊南高出=両選手の新入団を発表した。

下須崎選手のポジションは外野手、今夏の甲子園大会に出場した鹿商の主将、右足骨折のため不幸にして甲子園のヒノキ舞台は踏めなかったが、よくチームをまとめ、その強打は同チームの甲子園出場に大きく貢献した。昨年秋から今夏の甲子園出場決定までの打撃成績は20試合、71打数31安打、本塁打1、三塁打9、二塁打3で打率は0.437というりっぱなもの。右投げ右打ちで身長1㍍74体重72㌔、巨人、大毎、近鉄、広島の各チームから誘いの手がのびたが、両親も本人もプロに行くなら同じ九州の西鉄にと早くからきめていたので西鉄入団はすんなりきまった。体力もあり、素質に恵まれているので大成が期待されている。

上杉選手は教度にわたる新人テストのうちからただひとり合格した右投げの投手、高校時代の後半から卒業後にかけては軟式野球をやっていたが、身長1㍍75、体重86㌔というすばらしい体力の持ち主、スピードボールにはみるべきものがある。軟式出身の東映のエース土橋投手に似たがっちりした体格なので注目される。

西鉄川崎重役の話 下須崎君は非常に素質に恵まれた強打の外野手、両親がねっからの西鉄ファンだし、本人もはやくから西鉄にはいりたいと考えていたそうだ。他球団からも盛んに誘われたが、意思どおりに西鉄にきてくれた。体力もあり球団も大いに期待している。上杉君はテストに合格しての入団だが、これまた素質に恵まれている。軟式出身だが、体力もすばらしくかならずものになるというのが球団関係者の一致した意見だ。

下須崎選手の話 あこがれていたライオンズに入団できてうれしい。足のケガもすっかりよくなった。プロの世界でどこまでやれるか、目標といったものは別に持っていないが、ベストをつくしてがんばりぬきます。

上杉選手の話 テストを受けてプロ野球に飛びこむのですからボクはボクなりの堅い決意を持っています。どんな苦しいことがあってもけっしてへこたれることなく精進して一人前のプロ選手になる覚悟です。
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木原義隆

2018-01-28 21:04:59 | 日記
1964年

一日神宮球場で行われた東大戦で秋季リーグ戦の全日程を終えた法大の木原義隆投手(22)=法学部四年、右投げ右打ち、1㍍83、73㌔=は、試合後「プロ入りする。秋季リーグの閉会式のあと、実家(和歌山県海南市)に帰って家族とも最後の話し合いをしてから意思表示するが、意中の球団は決まっている」と語った。木原争奪戦には近鉄、南海が名乗りを上げていたが、近鉄の独走の形となっており、近鉄入りは確実である。

東京六大学リーグの好投手のひとりとして、木原には早くからプロの勧誘の手がのびていた。和歌山・海南高から法大に進み、二年生の春エースにのし上がったとき中退ープロ入りの動きさえあった。しかし二年秋のリーグ戦からフォームに迷い、以後山崎武昭投手(東映)の陰にかくれて低迷、プロの手も一時遠のいた。だが山崎が卒業して、四年生になった木原が再びエースの座につくと、巨人、大洋、東京、国鉄、南海、阪急、近鉄など各球団がつぎつぎと名乗りを上げた。下手投げだが、1㍍83の長身、しかもからだが柔らかいことに各球団は注目した。激しい争奪戦のすえ南海は鶴岡監督、近鉄は大西調査部長と、法大野球部OBで法友会に顔の広い切り札を動員。この両チームが勝ち残った。大洋は保井スカウト(現近鉄二軍ヘッドコーチ)が和歌山の自宅を中心に熱心に誘ったが脱落。南海、近鉄のつば競り合いも学校関係と実家に両面攻勢をかけた近鉄が、八月中旬にはほぼ確実の優位に立った。近鉄大西部長が、法大で鶴岡監督の先輩であるところから、同監督も巻き返しはできず、一歩ゆずった。九月末から十月中旬にかけて近鉄は別当監督の辞任、法大の先輩関根選手の退団など大きな人事の変動があり木原も動揺したが、大西部長が九月十九日上京してダメを押したとみられている。木原はことし春のリーグ戦ではまだ本調子ではなかったが、秋のリーグ戦では見違えるほどの進境をみせ、7勝8敗の好成績をあげた。上手投げのバック・スイングでサイド・ハンドから投げていたが、秋のリーグ戦を前に、先輩藤田省三氏から「それでは無理がある」と指摘され、完全な下手投げにフォームを変えたのがよかった。木原の武器は内角に浮き上がるシュートと落ちるシュートを投げ分け、外角をカーブで攻める下手投げ特有の投球の多彩さ。しかもスピードじゅうぶん。好不調の波のあるのが難点だが「調子のいいときはちょっと打てない」といわれるほどで、近鉄の大きな戦力になるだろう。

最後の東大戦を完封勝ちして有終の美を飾った木原投手は、さっそく報道陣の矢面に立ち、将来の野球についての抱負はと遠回しに水を向けられると、一瞬張りつめた顔になったが、あとはただニヤニヤ。川崎市今井仲町の合宿に帰ってひとふろあびるといくぶん気持ちもほぐれたようだったが、明確な意思は明かさなかった。

木原投手の話 もうゲームはありませんが、最後の閉会式には出たいから、まだなにも話せません。ただ僕自身の気持ちは九分九厘決まっています。あと一分がどうですかね。閉会式がすみしだい海南の実家に帰って、そこで意思表示をすることにします。

近鉄・大西調査部長の話 木原には八月から会っていない。木原は閉会式後一度和歌山へ帰り、兄さんと身の振り方を相談するだろう。高校生と違い、大学生は最後は自分で行く先を決めるのだから。私はg閉会式のとき上京する予定だが、すべてはそれからだ。もちろん一応の自信はあるつもりだ。
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野口勝治・島野育夫

2018-01-28 00:13:49 | 日記
1962年

中日ドラゴンズでは二十三日午後三時半から東京・品川の観光ホテルでノンプロ明電舎の野口勝治投手(23歳、作新学院出、1㍍72、75㌔、右投右打)同島野育夫投手(18歳、作新学院出、1㍍75、75㌔、右投右打)の入団を発表した。野口投手は三十三年に明電舎入社、三十五年の都市対抗には熊谷組の補強選手として出場しており、都社会人球界屈指の速球投手として知られている。島野投手は高校二年まで投手、三年生になって外野に転じ、昨春の甲子園では作新学院クリーンアップトリオの一角をしめた。今春明電舎入社後は投手、外野手として活躍した。なお背番号は野口投手が34、島野投手は63が予定され、近日中に登録、九月から二軍で整調する。

野口投手の話 中日が明電舎の球場で練習しているのをよくみたが、チームワークが良いのが強く印象に残っていた。ことしの夏ごろから調子がよくなりプロで一度自分の力をためしてみたと思っていたとき中日に誘われたのでうれしかった。ノンプロの投手がプロでがんばっているところをみるとボクもいけるのではないかと考えている。

島野投手の話 中日の明るいチームカラーにひかれた。中日には山中、門岡君らボクと同期の優秀投手がそろっているから、彼らに一日も早く追いつくよう努力したい。
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大熊伸行

2018-01-28 00:03:41 | 日記
1964年

大熊が南海打線を相手にのびのび投げ、6回で被安打一本、奪三振2、与四球2という好投をみせた。七回先頭唐崎に、内角高めの球を左翼席へぶち込まれ、つづく樋口にも打たれて高橋と代わったが、それまでのピッチングは、コントロールにやや難があったものの、伸びのある速球を内外角低めに決め、実にリズミカルなピッチングを披露した。ときたま配するシュート、カーブの切れもまず申し分がない。欲をいえばインタバルの取り方にいまひとつくふうすれば楽しめる存在となるだろう。捕手森は「ストレートをよく投げさせた。きょうは天気がよかったのでのびのび投げ込んでいたが、球がよく走っていたね。それに大きなカーブもよかったし、ブレーキのあるカーブ(小さなカーブ)もよく切れていた」と好投を認めていた。大熊は「久しぶりに自分でも満足のいくピッチングができた。ストレートを主に投げたが、よく走ったし、カーブの切れもよかった。いつもこんな調子で投げれば文句はないんですがね」と真っ白な歯をのぞかせていた。
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菊川昭二郎

2018-01-27 23:32:08 | 日記
1962年

野球の選手にしては珍しく色が白くて、一見やさ男に見えるが、グローブを持ってグラウンドに立てば、出足の速さとフィールディングの的確さでは九州高校野球のピカ一的存在だった。鎮西高校一年のときから野球部に入り、この三年間は遊撃オンリーに勤めあげてきただけに、守備の堅さは群を抜いている。打撃も二年までは甘さが指摘されていたが三年に入ると打率もぐんと伸び、二、三年の全国高校野球予選は3割4分8厘とかなりよい当たりを見せている。プロ入りしてもっとも心配されるのは、1㍍73の身長と65㌔㌘の体重が、プロ選手として小さすぎはしないかということ。同校中原野球部監督は「将来は阪神の吉田遊撃手のような選手になってもらいたい」と、期待をかけている。そして「体力をカバーするのは、からだの動きしかない」と練習ではいつもダッシュの連続だった。ベースを一周するのに一年のときは15秒かかったが、いまでは14秒5で回るほどにまでなった。菊川選手がプロ入りできたのも、この守備の堅さが買われたことはもちろんだ。だが、本人はもとより、関係者がもうひとつ心配しているのは、打撃がどこまで伸びるかという問題。中原監督は「打てないプロ選手ほど魅力のないものはない」というが、もっともな話。平本同校野球部長も「高校で3割以上を打っていても、プロ入りする選手はみなそれぐらいは打っているのだからたいして頼りにはならん」という。「菊川選手は、守備を買われてプロ入りしたとはいえ、これから打撃も並行して伸ばしてもらいたい」と回りの人たちは激励する。本人も「吉田さんを手本にして、守備はもちろん、打撃もコツンと当てて行くタイプの選手になりたい」と、将来を夢みている。熊本市には、川上巨人監督を輩出した熊本工業など高校球界の名門校があるが、菊川選手のいる鎮西高は野球部が発足したのが、戦後二十二年。しかもここ数年前までは、熊本市においてすらもCクラスのチームでしかなかった。したがって、プロ球界には、先輩らしい先輩がおらず、この点菊川選手は心細そうだが「自分だけを頼りに全力を尽くすだけ。鎮西野球部の伝統はこれから私が築いて行く」と、力強く語るあたり、後輩思いの一面がよくあらわれている。菊川選手は三年になると一年先輩の岡田選手(阪急二軍)のあとを受けてキャプテンにおされた。ふだんは冗談がうまく部員をいつも笑わせるが、いざ練習となると白球に生きるそのままにガラリと人が変わると後輩たちはいう。タフな菊川キャプテンのもとで練習する部員たちは、ついて行くだけでほとんどがアゴを出し、平本部長は「菊川君は下級生からいちばんコワがられていたようだ。それで彼がいるとチームはいつもビシッとしまりができていた」と名キャップぶりをほめる。鎮西高野球チームは、さいきん熊本県内でもAクラスにのしあがってきたが、昨年もことしも全国高校野球ではクジ運に恵まれず苦杯をなめている。三十五年には中九州大会で大分県代表高田高と第一回戦で顔があい、門岡投手(現在中日)にしてやられ、三十七年には同じ中九州大会で大分商に延長戦で敗れている。菊川選手にとって高校球児の夢・甲子園の土を踏めなかったことが、なによりも心残りなのだ。だが、予選における名守備ぶりは球団スカウトの目を引かずにはいられなかった。「大会が終わると近鉄はじめ四つの球団から話があった」と中原監督はいっている。菊川選手は、はじめ大学に進む予定だったが、家庭の事情で進学を断念せざるをえなくなり、菊川選手を見込んで通いつめた近鉄の熱意に引かれて球団入りが決まった。体力のハンディを動きの速さでどれだけ克服できるか、また心配される打撃をどこまで伸ばしきるかが、菊川選手のプロ生活のすべてを決めるカギなのだ。
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森田斌

2018-01-27 23:02:05 | 日記
1962年

ノンプロ川崎トキコの森田斌投手(26歳、中大出、右投右打)の大洋入りが決定的になった。森田投手は先日の都市対抗大会にはいすゞに補強されて出場。一回戦電電関東を六回まで1安打無得点、二回戦丸善石油との試合にも八回まで3安打無得点、九回2安打を喫して負けたが、なかなかの好投で一躍注目を浴びた。大洋としては優勝するためにすぐ使える投手がほしかったところで、一週間以内に契約、新戦力としてすぐ一線に立たせることになろう。なお川崎コロムビアの左腕虎若投手(21歳、八幡商出)は阪神入りが濃厚である。

略歴 昭和三十年川越工から中大に入学。大学時代は投手としてより打者として活躍。トキコに入社後投手として再出発、川崎地区随一の好投手となった。速球、シュート、スライダーが主武器の本格派。コントロールもいい。

森田投手の話 鈴木さん(隆)や桑田とは家が川崎にある関係でずっとつき合ってきた。こんど大洋から話があったが、よそのチームという気がしない。どのていどやれるか目標は立たないが、はいるからには全力をつくすつもりだ。

大洋藤井スカウトの話 予選から大会を通じて森田のピッチングをみたが、じゅうぶんやれると思って交渉した。まだ正式に承諾の返事はもらってないが九分九厘だいじょうぶと思う。すぐユニホームを着て投げてもらうつもりだ。
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