プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

ライト

2020-09-14 08:47:36 | 日記

2005年

堤前オーナーの逮捕と知らされてから試合に臨み、先発した新外国人のライトが3回で8失点するなど投手陣が崩れて大敗した。伊東監督は「野球はピッチャーということ。最低のゲームをしてしまった」と肩を落とした。荒木投手コーチは「四球が10個もあったら試合にならない。ライトは下(2軍)で投げ込んでもらう」と話した。

日本ハムが今季最多タイの18安打で連敗を4で止めた。1回に木元の先制打など5安打を集め5点。その後も加点し、大勝した。西武は投手陣が総崩れ。負ければ2季ぶりの5連敗。この危機的な状況を救ったのは、打撃不振に陥っていた小笠原の奮起だった。1回1死一塁。外よりのフォークを右前へ運び、4連続適時打の火付け役に。

伊東監督(西)5度目の2けた失点。「毎度毎度の負けパターン。ライトはまさか1アウトしか取れないとは」とあきれ顔。 

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ブレット

2020-09-14 08:35:15 | 日記

1977年

 

大洋のブレットが初めてマウンドを踏んだが、一回に王、張本に連続四球を出したうえ、柳田に適時打を浴び、三回も2四球に二塁打と、三回で降板のみじめなデビュー。内野手のような小さなモーションから投げる独特なフォームだがスピードがなく、制球力もひと一つ。いずれも低目をついてボールと判定され、四球を連発したことに「自分の考えていたストライクゾーンと違い、審判は打者に有利に判定していた。私の持味は低目のストライクなので苦しかった」と、審判に八つ当たりしていた。

 

大洋は八日、ブレット投手(30)=本名ロバート・アレン・レイノルズ=との契約を解除した。同投手は弱体投手陣にカツを入れるため、大洋がサンフランシスコジャイアンツから移入、公式戦途中の四月二十四日来日し、速球投手のふれ込みでブレット(弾丸)の名前でデビューした。しかし対広島五回戦(五月二十八日広島)で2イニング投げKOされてから、すっかり自信をなくし、退団の意思を明らかにしていた。大洋ではまだ戦力になりうるとファームでの調整を指示していたが、さっさとブレットは東京・麻布のアパートをひき払い帰国した。

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ウエスト

2020-09-13 08:46:22 | 日記

1997年

大リーグでは通算9年間で31勝38敗、567回1/3投げて防御率4.58。昨年はフィリーズで7試合登板して2勝2敗だった。85年マイナーだがノーヒットノーランを記録。先発左腕として、大きな期待がかかっている。

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リベラ

2020-09-13 08:41:31 | 日記

1994年

 

広島がドミニカで経営している野球学校の出身。140㌔の速球とスライダーが武器。未完成ながら見るべきものを持っているが、果たして一軍公式戦で登板出来るか。

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ウルソー

2020-09-12 16:12:32 | 日記

2000年

 

1点リードした九回2死。山崎慎が四球を出したところで、マウンドにウルソーが上がった。松井にストレートの四球を与え、高橋由には2-3まで追い詰められた。しかし最後は、空振り三振を奪いゲームセット。高橋由に投じたのは、すべて外角のスライダーだった。「高橋はいいバッターだけど抑える自信はあった。ストライクはヒットされそうなだから。外角だけを攻めたんだ」とウルソー。「最後は目をつぶって真ん中にスライダーを投げさせた」と振り返った捕手の西山ほど動揺はしていなかったとうそぶき、「左打者を抑えるのが仕事。チームに貢献できてうれしいよ」と、来日初セーブに胸を張った。ならば、松井、高橋由が打席に入る八回からウルソーを投入する手もあったはず。しかし、達川監督が選んだのは山崎慎だった。「左には左、と言うけど山崎慎は回の頭からの方がいいと思ったしね。継投が間違いだとは思ってない」故障者続出のチーム状態に、「調子の良い者から使っていく」と話している達川監督は、投手起用にも同じ方針を貫いた。セオリーだけにとらわれない継投で勝ち星を拾った広島は、追いすがる巨人を振り切って今季初の4連勝。「しのいで勝つ」という首位らしい戦いぶりが、板についてきた。

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デラクルーズ

2020-09-12 15:16:48 | 日記

1999年

 

新外国人投手のデラクルーズが打撃投手として来日初登板した。最速150キロを超すといわれる右の本格派だが、課題は制球難。打席に立った武藤が右ひじと右足首にプロテクターをつける用心ぶりだったが、チェンジアップ、スライダーを織り交ぜた50球の投球では、懸念された制球難はうかがえなかった。「きょうはコントロール重視でいったよ」と涼しい顔で話す右腕に、佐々木監督は「なんといっても速さが魅力。他球団にとって怖い存在になりそうだ」と秘密兵器に期待を寄せている。

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嶋田章弘

2020-09-12 09:53:04 | 日記

1984年

 

今年の箕島の売り物は投の二本柱である。速球は140㌔だが、カーブの制球力が抜群の嶋田(1㍍80、70㌔)と、145㌔の速球を誇る杉本(三年、1㍍87、80㌔)の両投手である。今大会は交代で先発完投し、嶋田は三試合、杉本は二試合でともに1失点。

 

1985年

 

ルーキーの嶋田章弘投手が、8月26日に行われた対ヤクルト19回戦でプロ入り初先発した。息の詰まる3強首位争いのなか、よくもまあ抜てきしたものと、もっぱらトラ番記者の間では吉田監督を評価していたものだが「今年は土台づくりのシーズンですかな」と。冷静な顔をされてトラ番記者は二度ビックリ。先発投手が底をついており、窮余の一策?という観もあったが、その新顔右腕が4回を被安打3の2失点に抑え、先に楽しみを残した。ところで弟が先発とくれば捕手は兄の宗彦?-と誰もが兄弟バッテリーの先発を楽しみにしたが、あけてガックリ、捕手は月山だった。「兄弟だと変に意識させたり、負担をかけるので」とは土井ヘッドコーチの説明だったが、まあ、なんと芸の細かい首脳陣ではある。され、初体験をすませた嶋田弟。3回、高野から右前打しプロ初安打も記録して、試合には負けたがゲーム後、どっとトラ番記者に取り囲まれた。開口一番「まずまずでしたでしょ?」大した度胸の持ち主である。

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シグペン

2020-09-12 09:36:02 | 日記

1994年

 

直球、シュート気味ー。シグペンの外角球を見逃す鈴木に、球の軌跡が鮮明になった。それよりやや甘い2球目、外角の球をバットは逃さない。八回、この左翼線二塁打で、二塁からパグリアルーロがかえり決勝点。「たぶん直球」鈴木はいった。でも思った通り投球は、わずかにシュートしていた。シグペンは、六月初めに来日した。ホワイトソックス時代の90年、57セーブの大リーグ記録を樹立した191㌢、100㌔の男だ。優勝争いするダイエーが抑えの切り札として入団させた。実力通り、日本では3回を投げ、一人も走者を出していない。しかし、組織の西武はそれを砕く。十一日の初対戦、打者三人のうち二人が三振した日に、すでにビデオを見て研究していた。講師役はシグペンが活躍した当時ヤンキースにいて、何度も対戦したことのあるパグリアルーロだ。「シュート気味の直球、落ちる球、それにスライダー」パグリアルーロはミーティングで、彼の武器をあげた。選手は、名をはせた救援投手の特徴を、頭にたたきこんでいた。八回は一死から、そのパグリアルーロが中前安打して手本を見せた。鈴木はミーティングを思い出す。外角、シュート。逆らわない流し打ちだった。終盤2本の本塁打と、ダイエーも持ち味を発揮した。それを上回る力で相手を突き落とした森監督は「野球は、みんなのつながりだよ」と、つぶやいた。

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ぺルドモ

2020-09-12 09:12:42 | 日記

1997年

 

カリブ海に浮かぶ、ベースボールプレーヤーの宝庫・ドミニカ共和国。野球を志す者なら、まずはエースという言葉にあこがれる選手が多い日本とは違い、センスある選手はこぞって内野手、特にショートを希望するお国柄。メジャーリーグにも好投手を輩出しているが、それだけにとどまらず、現在野球をやっている選手の中にも隠れ好投手が多数埋没しているらしい。そういえば、元広島、今季からレッドソックスに移籍した、あのチェコも「本当はカンセコみたいな、偉大なバッターになりたかったんだけど」と、自分の打撃の非力さを嘆いていた。昨年、一時は首位独走態勢を作りながら、投手のコマ不足から最終的に優勝を逃した広島。だからこのキャンプ、三村監督は若手投手の育成に躍起になっている。その心境は「誰が先発、中継ぎ、抑えとかじゃなく、そういう役割分担は先の話。とにかく、ゲームで投げられるだけのレベルに達した投手に一人でも多く出てきてほしい」の言葉から伝わってくる。で、強肩、好打の内野手、ぺルドモにも白羽の矢がたった。このぺルドモ、昨年のキャンプからブルペンに立ち首脳陣の熱視線を浴びたが、今キャンプから投手専従に、「自主トレから投手の練習しかやってないよ」と言うほど本人も乗り気で「投手の方がチャンスがあるし頑張る」と、キャンプでも意欲的な姿勢が目を引く。さすがに周囲のこの道一筋の投手たちと比べるとテークバックが小さく、まだまだらしくないけれど、その右肩から放たれるストレートは速い、速い。2月7日の初の紅白戦でもマウンドに立つと、いきなり146㌔のストレートを披露した。ただ、その試合の結果は2回を投げ6安打6失点。当然ながら、最初から三村監督の言う「ゲームで投げられるだけのレベル」は無理だった。初めての実戦登板を振り返った川端投手コーチは「まあ、最初はこんなもんでしょう。いい球を投げてはいるんだけど、配球面とかを、これから考えてあげなきゃいけないね」と長い目で見て行く方針。本人も流暢な日本語で「まあまあだね。でも、打たれちゃったんだからダメ、かな」と、新境地への挑戦に、ゆっくりと歩を進める心づもりの様子。2回目の紅白戦登板の力投も空しく、2月9日はとりあえず二軍落ちとなったけど、なんとか実現してもらいたい「野手→投手」転向の夢。さあ、チームのスローガンにもある、スペイン語「REARIZAR SUENO」(夢の実現)の意気込みで!

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デビッド

2020-09-12 08:34:44 | 日記

1991年

名は体を表すー新外国人のデビッドは、この日本のことわざを知っていたのだろうか。フルネームは「スコット・デビッド・サービス」本来ならサービスの名前で登録するはずだが、球団側がサービスだと勝ちを相手にサービスするでゲンが悪いと判断して、登録名はデビッドに決めたという。しかし、球団の配慮を無にするかのように、デビッドの初登板は本名かサービスであることを思い出させてしまう散々のデキだった。初登板となった9月7日のヤクルト戦、3対2と1点リードした7回からリリーフしたものの、3安打を浴び1失点。サヨナラ負けの伏線を作る無残なデビューに、星野監督も「デビッドは使えん」と中継ぎとして1イニングすら抑えられない新助っ人を切り捨てた。コントロールがいいとの評判もまったくの期待外れ、デビッド本人も「変化球が思うように曲らなかった」と肩を落とした。9月に入って1勝4敗(9日現在)とVロードに乗り切れない星野中日、優勝の切り札として7月に来日したデビッドは、逆にチームを迷走へと導いてしまうことに…。球団の危惧を初登板で現実のものとしてしまったデビッド。今度は、日本でも有名な大リーガー・マイク・スコットにあやかって「スコット」に変えようなんて話がでると、この新外国人、話題提供だけはサービス満点になるのだが…。

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アイケルバーガー

2020-09-11 06:21:46 | 日記

1989年

 

「栗山、笘篠、池山、パリッシュ、広沢、荒井・・・・(あえてここから先はいわない)これはどう考えてもAクラスだ」ズラズラっと名前を挙げてニンマリしているヤクルトファンもおられることでしょう。確かにこの攻撃力はAクラスのそれ。あとは投手陣がそろえば、8年続いた涙のBクラスにもめでたく終止符が打てることになる。そこで、先発の頭数を数えてみたが、尾花、高野はいいけど、そのあとが宮本、中本、それからエート・・・、と、やっぱりちょっと心もとない。でもでも、ここに昨年最多勝の伊東が加われば…、というのが、ファンと、そして関根監督の皮算用なのである。その皮算用が現実の物になるかどうかのカギを握る男、抑えに予定されている新外人・アイケルバーガーが25日のロッテ戦(神宮)で初登板した。一死を取ったあと四球を連発し、「またギブソン病のピッチャーか?」と関根監督をヒヤリとさせたが、球を低めに集めて後続を打ちとり、1イニングを切りぬけた。左ヒザが早く開いたあと、腕が遅く出てくる感じで、タマの出所が見にくいのが武器かなというフォーム。来日4日目ということで、ほとんどストレートだけのピッチングに終始、変化球投手としての本性は見せずじまいだったが「打ちにくくもないし、球速もそれほどではないね」と高沢がいうように、調整不足を差し引いても、迫力はイマイチ。本格的な値踏みは次の機会だろうが、とりあえずこいつが出てきちゃもうダメだと相手に思わせる切り札でないことだけはバレてしまったようだ。

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ウエスト

2020-09-11 06:12:28 | 日記

1997年

 

昨オフの外国人補強の最大のポイントが、巨人が獲得したヒルマン(元ロッテ)のような、大型サウスポーだった。そして、このウエストに白羽の矢が立ったのだが、197㌢の長身はともかく、111㌔の巨漢には、来日当初から「?」がいくつも付いていた。メジャー通算31勝。9シーズンもメジャーにいたのだから、「それなりのものは持っているはず」と現場、フロントは不安の色は見せなかった。王監督に至っては「最低でも15勝は期待している」とまで言い切った。ところがオープン戦に入ると一進一退の繰り返し。3月19日の大阪ドームトーナメントで横浜打線を5回、被安打3で0封したかと思えば、3月26日の名古屋ドームトーナメントでは中日を相手に2回1/3、5失点。中でも6与四球には「これでは安心して使えない」と首脳陣もガックリと肩を落としたものだった。投手陣の台所事情が苦しいゆえの見切り発車で開幕を迎えたが、自身初登板となった4月8日の日本ハム戦では福岡ドームの4万3000人の大観衆に「自分の開幕でもあったし、大勢のファンの前で、珍しく緊張してしまった」と体のサイズに似合わないチキン・ハートのせいか、4回4失点でマウンドを降りた。2度目の先発登板となった4月13日のオリックス戦(福岡ドーム)は、5回2失点で早々と来日初勝利。そして、4月18日のロッテ戦(マリン)が、「これぞ、ウエスト!」と言わせる快投、いや、怪投を見せた。この試合、1回に5安打を浴びて5失点。ベンチも一時はサジを投げた格好だが、何と6回までに、6連続三振を含む13三振を奪い、ロッテ打線を抑え込んだウエストは、味方打線の大爆発もあって、2試合連続の白星をマークしたのだ。このあたりから、首脳陣のウエストの評価は「投げてみないと分からない投手」で一致。しかし、「ウエストが投げると不思議と打線が点を取ってくれる」という「強運伝説」まで生まれつつあった。6月21日のロッテ戦(福岡ドーム)でも、5回3失点で降板しながら、リリーフ陣が6回以降、ゼロに抑えて、おいしい7勝目が転がり込んできた。この時点で、7勝はハーラー・トップ・タイ。防御率5.72の最多勝投手がウエストのウエストたるゆえんだった。もっとも「投げてみないと分からない」は相変わらずで、6月27日のオリックス戦(神戸)は4回6失点のていたらくで3敗目。「今日はコインの裏が出たな」と王監督にジキルとハイドぶりを皮肉られた。それでも、7勝3敗はチーム・トップ。ウエストが今季の躍進王ダイエーの一翼を担っていることは間違いない。

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マレット

2020-09-11 05:55:22 | 日記

2003年

大リーグ・ドジャース傘下の3A所属のブライアン・マレット投手(28)(右投げ)が16日夕、来日し大阪ドームで入団会見。マレット投手は「優勝に貢献するために自分は呼ばれた。アグレッシブな投球を披露したい」直球は最速151キロ。梨田監督は「抑えをやってもらう」と明言。月内には一軍登録する予定。

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レイノソ

2020-09-10 21:00:07 | 日記

1999年

昨季の秋季練習から来日。140㌔台後半も計測する速球と重い球質が大きな特長。沖縄キャンプではどのピッチャーよりも早い仕上がりを見せ注目された。制球力さえつけば今季のカープの秘密兵器となりうる。 

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バラー

2020-09-10 10:46:17 | 日記

1994年

バラーは、それこそ毎日のように登板している。もちろん、抑え投手だから毎回が短いイニングだが、さすがにタフ。ただ登板している舞台が、ウエスタン・リーグというところがバラーにとっても計算外だったに違いない。開幕からずっと二軍暮らしが続いていたのだから…。4月末、バラーは不満をぶちまけた。そのころ、バラーは二軍戦で連日好投を見せ、自分でも一軍昇格の自信を深めていた。ところが、呼ばれたのは自分ではなく渡辺だった。助っ人はプライドを傷つけられて怒った。「何で、オレが上に行けないんだ!」結局、バラーの主張を容れる格好で、5月6日、ようやく一軍に昇格した。その日さっそく登板したのをはじめ、10日の西武戦(米子)でも2イニングを投げて無失点。合計4イニング無失点でバラーは鼻高々だった。「どうだ、オレもやるだろう」と。だが、やがて別の不満が頭をもたげる。米国やメキシコでは、ストッパーとして働いていた男だけに、登板がいずれも敗戦処理のような使われ方ではイヤだった。それに、なかなか登板機会ももらえなかった。仰木監督に「もっとオレに投げさせてくれ。オレは実戦で投げ込んで調子を出すタイプなんだ」と直訴した。が、仰木監督は「そんなら、毎日投げられるファームへ行け」と即座に二軍落ちを通告した。「要するに、力不足なんや…」と指揮官はいう。キャンプ時には野村や伊藤隆が出遅れて抑え陣に不安があったため、急きょバラーを獲得した。しかし、2人は開幕に間に合い、中継ぎでも渡辺が素晴らしい仕事ぶり。そんな充実した投手陣の中では、140㌔そこそこのストレートやスライダーが武器のこの右腕は、助っ人としては見劣りする。2㍍の巨体だけでは抑え役は務まらないのだ。オープン戦で初登板したときには、ボーク連発して首脳陣をあわてさせた。現在はそんなクセも矯正されたが、それでも不安がないわけではない。一軍で、しかも試合終盤の大事な場面を任せられないのは、ピッチングそのもの以外の、そんな不安もあるからだ。もともと、バラー獲得を進めたのはキャブレラ、タイゲイニーの助っ人コンビだった。2人は、メキシカン・リーグなどでバラーと対戦経験があって、その投球を熟知していた。が、今となってはその保証もなんの意味もない。一軍救援陣にアクシデントが続出しない限り、バラーが一軍に戻るのは難しそうだ。 

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