プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

ギブソン

2020-09-19 14:06:33 | 日記

1988年
ハーパーの代役として途中来日(6月5日)主戦場はもっぱら3Aとあって、故障で手薄になった投手陣の助っ人としての期待は、それほど大きくなかったが、予想以上の活躍。「オレはダマされんぞ。ビデオをみた限りでは、こんなにいいピッチャーじゃないんだ。誤算?うれしい方のね」(関根監督)先発ローテーションで一応は計算できるんだから拾い物。真面目な姿勢も、とりあえずは評価できる。

ストッパー専門で、1㍍83、88㌔、右投げ右打ち。現在、AAA級のロチェスターに所属している。バッターを獲得する予定だったが、実は急きょ、方針変更となった。その理由は①ストッパー高野にいまだ復帰のメドが立っておらず、伊東を先発に回したい。②長嶋の実戦的育成に余分な野手は不要ーの二点から。現場の声を色濃く反映させた。ギブソン投手はメジャー5年間で12勝18敗3セーブの成績。6月上旬に来日の予定。ちなみに、T・ハーパー外野手は退団が決定した。

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リベラ

2020-09-19 12:18:07 | 日記

1998年


身長2㍍、体重100㌔の巨漢リベラ。だが、いかつい顔から出される声にはビックリしていまう。来日したてのインタビューでのリベラの声に、周囲は「風邪でも引いているのかな。でも、まるで少女のようなかわいい声だな」とささやかれたほどだ。「少女のような声」は、まぎれもなくリベラの地だった。スケールの大きな風貌からは想像がつかないほどの細かい声だが、そのミスマッチが、なかなか愛きょうを感じさせるのだ。「日本はなかなか気に入ってるよ。早くチームにも野球にも慣れて、どんどん勝ち続けたいものだ」来日した当時は魚介類が苦手ということで、日本に慣れるのに時間がかかるのではと思われた。しかし、キャンプ、オープン戦と過ごしたプライベートでは、すっかり慣れ親しんでいる様子だ。ドミニカ共和国出身でノリの軽いラテン系の音楽鑑賞に興味を持つリベラ。現在は神戸住まいだが、わざわざお気に入りの大阪のCD屋までショッピングに行くほどだ。大きな体とは逆に、非常に繊細な神経を持つ。しかし、やはりマウンドに上がれば、巨体そのままのたくましさだ。米大リーグのブレーブス、フィリーズを経て台湾の和信でプレー。台湾時代はMAX150㌔の速球を武器にして守護神を務めた実績を備えている右腕。長身から繰り出されるのは、まるで2階から落ちて来るようなストレートで、切れ味鋭いスライダーも得意だ。日本にかける意気込みも相当なものだ。ある試合で、矢野がカウント2-3からスライダーのサインを出した。「向こうは力対力の勝負だから、首を振って来るのかと思った。でも、嫌な顔ひとつしなかったので、日本の野球を研究してるんだなと感心した」(矢野)和信時代の監督は南海(現ダイエー)でプレーした実績を持つ李来発氏で、日本の野球を教え込んでいた。リベラ本人も「いろいろ日本の野球の情報は伝わってきていたし、これから登板を重ねながら勉強していきたい」と、意欲を見せる。来日初マウンドは開幕カードの5日横浜戦(横浜)延長12回一死満塁の場面で登場したが、サヨナラの捕逸で敗戦。試合後は「今日は何もしゃべらないから」とだけ言い残したリベラ。いきなりショックを受けた助っ人だが、翌日には「野球にミスはつきもの。シーズンは長いんだ」と出直しを口にした。リベラがストッパーとして完全固定されれば、先発、中継ぎの負担も軽減されて、まさに必勝リレーとなるのだが…。

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スティーブ

2020-09-19 08:37:52 | 日記

1977年 

 

眼前に雄々しく噴煙を噴き上げる桜島、それを取り囲むようにゆったりとした輝きを見せる錦江湾の青い海原。そんな華麗な対照美を描き出す鹿児島・鴨池球場で行われた約1カ月のロッテキャンプは、3月4日に打ち上げられた。キャンプも終盤のある日、宿舎にスティーブ投手を訪ねた。金髪で長めのヘアースタイル。ユニホームを着て球場にいるより、ジーンズをはいて大学のキャンパスを歩いている方がピッタリくるような若者だった。陽気で、冗談もよく飛び出すナイスガイだ。練習を終え、ホテルの大浴場で汗を流してきたという彼の、顔はさっぱりしている。まずは合格おめでとうと手を差しのべると、実にうれしそうに顔をほころばせながら、「合格の知らせを受けたときは、心の底からうれしかった。人生最良の日だったネ。日本に来て良かった」スティーブ投手は自費でロッテのテスト生として2月5日来日した。ロッテの練習に加わってから合格決定まで20日。その間、監督カネやんの厳しいシゴきに耐えてきた。「生まれて初めての厳しい練習で、体重も7キロ減った。でもお蔭で肩はすっかりできあがったし、何よりも自分の成長のための練習なんだから…」合格が決まるまでの気持ちは?「ロッテが投手より長距離打者を望んでいたことは国にいたときから、ラフィーバー・コーチに聞いて知っていた。だからこういった形でなければボクの力を認めてもらえないのだから、結果を恐れず全力を尽くすことしか考えなかった」そうはいっても決まるまでは悶々とした日々を過ごしたことだろう。だが、なぜそうまでして、本場の野球を離れ、それも自費で来日したのだろう。「昨年、ドジャースの2Aでプレーしていたが、自分では3Aに上がれると思っていた。ところが、今年の3Aのリストに載っていなかったのでひどいショックを受け、友達に今後のことを相談にいった」その友達がラフィーバー・コーチの知人で、初めてロッテ選手を探していることを知ったのだ。「ジム(ラフィーバー)に日本の野球の事情などを教えてもらい、自分の力が試せるチャンスがあることを知り、貯金をはたいて来た」「それに以前から、自分自身の人格形成として、様々な人達と接したいという気持ちが強かったから」とも付け加えた。ドジャースのベルナンスキー・コーチが2年待てば大リーグに上がれるから、それまでがんばれと彼を慰留したそうだが、「若いうちにやりたいことは、自分に正直にやりたい。何年日本でプレーできるか自分では判断できないが、仮にボクが20勝投手になって自分に自信がついても、大リーグに行ってプレーするつもりはいまは全くない」彼は人生をひどく遠回りしているように思える。アメリカで野球を続ければ、確実に大リーグという道を歩けたかも知れない。「ボクは画一的な生き方は嫌いだ。人生はたった一度だけ。それだったら自分の思う通りに生きたらいい。もちろん自分自身の責任においてね」教育ママだ、塾ブームだと、目先のことばかりにとらわれているどこかの国の人々に聞かせてやりたい言葉ではないか。「もちろん、日本に来ることについて両親はどこの親でも心配するようなことはいった。ければ、自分でやれるものはやりなさい、しかし大きなカケだよといってくれた」こうして彼は、とりあえず合格という形でそのカケに勝つ一歩を踏み出した。さて、これから大変だけど?「金田監督が実によく教えてくれるので、進歩していくのが自分でよくわかる。ボクの欠点はコントロールが難だけど、リラックスして投げるコツ、重心を低くして投げる方法をよく教えてもらっている」さしあたっての目標は、「15勝。パ・リーグの打者の研究もしているし、もし成績が悪くても日本の野球を知らなかったなんていい訳出来ない」嘘やハッタリがみじんも感じられぬ若者らしい応答は清々しい。けれど、今までそういって消えていった外人選手は枚挙にいとまがないほどいたが、「外人選手が日本で成功する確率が低いのは、ほとんど年齢的にピークをすぎてから来ているからだ、ボクは若い」さらに彼はペピトーン、ブリッグスなどがとった行為は、同じアメリカ人として「恥ずかしく、悲しい」とまでいった。彼のタマは重く速い。ブルペンで村田、三井と並んで投げていても一歩もひけをとらないばかりか、時折りそれ以上のタマを投げる。「あのノーラン・ライアンはすごい速球王だけど、彼のタマは軽い。軽いタマはそれだけ飛ぶということ、だからボクはもっといい投手になれるはずだ」しかし、ブルペンでのスティーブはその自信とは裏腹に、欠点であるコントロール難を露呈することが多い。「スティーブひとりでこうだよ」と、彼のタマを受けていた捕手のユニホームは泥だらけ。さて、カネやんについて聞いてみた。「あの人はすばらしい。野球をやりながら、それでも、たくさんの会社を経営し成功している」でも、兼業ということで批判的な声もあるけれど?「逆にいえばそれだけやっていてもチームを日本一にしたのだからすばらしい。それにチームがとても組織化されているし、たとえは悪いけれど、軍隊のような厳しい規則と練習によってキャンプが行われている。アメリカに比べると信じられない程それらが守られている。それだけに彼に統率力があるということではないかな」ひたむきな練習ぶり、まじめな生活態度に対してチームメイトの評判はすこぶるよい。だが、オープン戦初登板(3月6日近鉄)では予定の5回を投げて、3安打、5四球、おまけにボークと暴投までして敗戦投手。オープン戦を終えて東京に戻って来た彼にもう一度インタビューしてみた。「とにかく初めての登板だったのであがってしまった。それから日本の打者はみんないい選球眼をしているのでつい力んだ」「自分の欠点を出してしまった。初めてということを考えれば納得できる。次はがんばる」ナインは長いキャンプ、オープン戦を終え我が家にたどりついたが、スティーブはホテル暮らしだ。「ちょっとホームシックにかかっている。きっとそれを治す薬は可愛いガールフレンドを作ることだろうね」といたずらっぽくウインクをした。ハンサムな彼のことだからきっとすぐにガールフレンドができるだろう。それまで今しばらくは、趣味のプラモデル作りが彼にとって心のなぐさめになる。好漢スティーブ投手の健闘を祈りたい。

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ホージマー

2020-09-19 07:58:59 | 日記

2001年


先発ホージマーは、やや変化する癖のある直球を武器に石井琢、中根らを完全に詰まらせ、3回を33球で終わらせる効率のいい投球。「決め球のチェンジアップを課題に投げようと思ったんだけど、その前に打ち取れた」と物足りない様子で、交代後も約40球投げ込んだ。

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ジョーンズ

2020-09-19 07:00:50 | 日記

1994年

一見すると、野球選手というよりも、ウォール街の証券マンといった雰囲気だ。188㌢の長身に甘いマスク。サインを求められると「OK、シェア」「ベリー・グー」と優しげな笑顔で応じるために、すぐに人垣が出来る。相棒・グラッデンがプロレスラーのハルク・ホーガンに似た、いかつい風貌で近寄りがたい?のとは、あまりにも対照的だ。そのジミー・ジョーンズも、ひとたびブルペンに入れば一変。鋭い目つきで捕手のミットを見据え、外国人特有の長い腕が体に巻きつくようなフォームで、力のあるスピードボールを投げ込んでくる。しかも「この時期のウチの投手の中では、一番低めに集まってるんじゃないか」と、堀内コーチが喜びの声を上げるほど、よくコントロールされているのだ。1982年の全米ドラフトでパドレスの1位指名を受けてプロ入り。4年後の86年、大リーグに初昇格し、デビュー戦を1安打完封で飾って注目された。以来、昨年のエクスポズまで4球団で153試合に登板、43勝39敗、防御率4・46。まずまずの成績だが、宮崎キャンプを訪れた評論家諸氏も「威圧感こそないが、フィールディングも器用だし、日本向きのタイプ」と、口を揃えている。来日前、心配されていたのは、昨年7月に受けた右ヒジ有利軟骨除去手術後の回復具合。しかし、それも杞憂であったことをキャンプイン直後からの投げ込みで照明して見せた。「うーん、7月くらいに出てきてくれればいいなと思っていたんですが、これなら開幕に間に合いそうですね」思わぬ誤算に長嶋監督にも、笑みがこぼれていた。「一番の武器はシンカーだ」と本人がいうとおり、右打者の内角ヒザ元へ食い込むように落ちるその球は、容易には打たれそうにない。しかも「3種類ほどの変化がある」(堀内コーチ)ため、ブルペン捕手でさえ初めて受けたときには、何度となくボールをそらしたほど。低めに決まる速球と、このシンカーを交えたコンビネーションで勝負するジョーンズは頭脳派を自認している。「打者の狙い球を呼んだ上で、タイミングを外していくピッチングが身上」斎藤、桑田、槙原、宮本、木田と力のある先発投手が揃っている巨人だが、ジョーンズがその座をどれだけ脅かせられるか、単にキャンプのカンフル剤に終わらなければ、60周年Vもグッと近くなる。

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