プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

加藤竜人

2024-03-21 14:34:45 | 日記
2001年
これも縁あってかシドニー五輪・日本代表候補のアマ派遣選手として昨春のファイターズ名護キャンプに参加。プロの投手に混じっても全く見劣りしない伸びのある速球が今での首脳陣の脳裏に焼きついている。左腕から繰り出すストレートは常時140キロを超え、特に長身から投げ下ろすカーブ、フォークはともに角度があり威力十分。NKKのエースとして2年連続の日本選手権大会出場。また一昨年の都市対抗では三菱重工広島の補強選手として真価を発揮してきた。夏場以降に調子を落としさえしなければ当然ドラフト1位クラスで獲得される逸材でもあった。これもまたファイターズにとっては災い転じて福、である。相思相愛で決まった本格派サウスポーはもちろん1年目から勝負に出る。

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福沢卓宏

2024-03-21 14:32:19 | 日記
1998年


平均身長176センチの大型チーム。技巧派の福沢は、切れのよいカーブ、スライダーが武器。県予選準決勝では相手を2安打に抑えた。
1999年


福沢は140キロ台の直球とスライダーを武器に、今夏の甲子園で八強入り。


春夏甲子園に進み、夏は8強。140キロ台の速球と高速スライダーを制球よく操り、完成度が高い。180センチ、68キロ。

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中条善伸

2024-03-20 22:23:38 | 日記
1981年
4度の甲子園出場を果たした東北の星。ノーコン病に泣いたが、最後の三年の夏に真価をみせた。ややスリークォーター気味にでる腕からの速球にはナチュラル・シュートがかかる。「おもしろい球を投げる、まず中継ぎで使いたい」と国松二軍監督。最近の投手には珍しく小柄。本人もカラダのないことを知っており、「速球よりも変化球。打者心理の勉強が必要」と頭脳派宣言。粘り強い性格。貴重な左腕。活躍の機会は意外に早いだろう。

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小美濃武芳

2024-03-20 22:21:15 | 日記
1988年
秋の東都大学リーグ(62年)で東洋大Vの原動力として活躍したエース。ドラフト4位指名で入団した。大学4年生でにわかに頭角を現し東都のエースと言われるまでに急成長した。武器のフォークボールに磨きをかけたのが、その原因。それにカーブ、スライダーなど打たせて取るタイプの投手。


1990年


東都リーグのエースとして、東洋大から入団して今年で2年目。ウ・リーグでは主に抑え役として働き2勝1敗3セーブの成績を残した。フォークボールの切れは絶品で、どちらかといえば変化球主体に打たせて取るタイプだ。入団早々、キャンプの出遅れを取り戻そうと、張り切りすぎて、足腰からヒジ痛にまで見舞われた。それだけに「アセったらいけない。とにかく、じっくり体力をつけることが先決です。」と反省の言葉も忘れない。マウンドでのかけ引き、勝負度胸も十分心得ている完成品。あとは、さらに球威を増すことが、一軍へ浮上する条件だろう。2年目の今季に期待。

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福山龍太郎

2024-03-20 22:17:46 | 日記
1999年
直球とスクリューボールでマウンドに新風!東京六大学では9年ぶり、大学選手権でも優勝を経験した。高校は北九州市。市民球場で芽生えた夢がついに叶った。後は大きな実を自ら掴みとるだけだ。

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辻本弘樹

2024-03-20 22:15:34 | 日記
1988年
ドラフト外で入団した異色新人。というのは、奈良の野球名門校智弁学園では、1年生夏と2年生春の2度、甲子園のマウンドに上がり「智弁のエース」として、その剛腕を期待された。その後、右肩を痛め野球から見放されていたのを「回復に見込みあり」と再評価。中日入りが決まった。今後の復肩ぶりに注目。


1989年


智弁学園(奈良)では、1年生で甲子園に出場、桑田(PL学園=巨人)とともに、一躍評判を上げた。その後、右肩を痛めて鳴かず飛ばずだったが「肩の回復に見込みあり」との判断で、昨季ドラフト外で入団した。まず下半身の強化に専念、肩の回復にもつとめたが、再び形の変調に見舞われた。夏場を迎えて回復、ユニホームを着て再び、ファームでの練習に明け暮れた。ウ・リーグでは1試合に登板。「やっと、ハリの穴ほどの明かりが見えてきた」と、本人はヤル気満々だ。かつての豪球が復活するかに注目しよう。


1990年


プロ入りした2年間、登板したのが入団した年にたった1試合だけ。しかもファームの試合である。理由は何かー力が不足していたというわけではない。右肩を完全回復するまでに、時間がかかったからである。辻本はそんな特別な事情を持つピッチャーだ。昭和63年のドラフト外で奈良・智弁学園高から中日入り。高校では1、2年生の当時、2度の甲子園の全国大会に出場した実績を持つ。ところが、3年生になったとき、突然肩を痛めて、一時は野球を断念するまで追いつめられた。「あの剛球投手が故障とは惜しいなあ」と、一度は球界から見放されたが、復調の見込みが十分ある…と中田スカウトが見込んで獲得にふみ切った。こうした背景があるため、気長に本人の回復を待っていた。登板しなかったのはそのためだ。そして昨秋、米教育リーグに参加したのを機に、辻本の右腕が息を吹き返した。全力で投げ込む速球は、ズシリと重い。新たに覚えたばかりの沈む変化球が、その速球の威力をいっそう引き立てた。教育リーグでは何度も先発して勝ち投手になった。じっと辛抱し、体づくりに打ち込んできた努力が、ようやく実ってきた証拠だ。体調、とくに右腕さえ復活すればもう大丈夫、辻本の体内に「さあ、オレもやってやるゾ」のファイトが、ムクムクと沸き出す。同期の鎌仲に負けるものかーライバル意識さえのぞかせる辻本。石の上にも3年の今シーズン、浮上が約束される若手投手の一人である。


1991年


1軍にも上がった。先発もしてみせた。だが、このクセ球で売った若者は、変則フォームゆえに右肩を痛めてしまった。そこで昨年から、フォームの改造にとりくんだ。努力の成果が出た。見事に新フォームが身についてきた。打者の手元で微妙に変化するクセ球。このツジボールにくわえ、ボールに力がついてきた。「もう一度、ナイターで投げたい」一軍目指し、異色の投手は勝負をかける。

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鈴木伸良

2024-03-20 22:12:12 | 日記
1979年
キャンプ中に一軍昇格の話も出た。怪物投手と異名をとるほどの重い速球が、早くも二年目で全国のファンに披露されることになるかもしれない。ひと冬越してスタミナにも不安がなくなり、特に投手にはもっとも必要とされる背筋肉がついた。カーブ、シュートの変化球も覚えたので調子にのれば一軍でも十分やれる。「これほど投手らしい若手はどこのチームにもいない」とすっかりほれ込んでいる。「まず1勝」をめざすマンモス。

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松本基淳

2024-03-20 22:09:05 | 日記
1979年
掘り出し物と評判の左腕。進学をあきらめ、東洋の有名受験校都立立川からプロにとび込んできた少年は、やはりただ者ではなかった。「リストの使い方がすごくうまい。こいつは将来大成する」と自主トレ中、90番がまず目をつけ、キャンプでは投手コーチ陣も「球質はマンモス鈴木伸以上だ」とニンマリ。性格も落ち着いていて物事に動じない。「ブルペンよりマウンドの方が力を発揮できる」とは頼もしい発言である。


ドラフト外・上手投げのサウスポーだけに、じっくり時間をかけて育てる方針だ。うまく素質を開花させることができれば新浦二世になれるだろうと期待が大きい。


東京都下でも指折りの進学校といわれる都立立川高の出身。巨人に都立高校の選手が
入団するのは、昭和三十七年の内木忠男投手(退団、都立葛飾野高出身)以来十六年ぶりのこと。松本は昨年夏の西東京予選三回戦で名門、日大三高を倒すという大金星をあげて、一躍プロから注目を集めた本格派のサウスポーだ。準々決勝では日大桜丘に敗れたが、堂々ベストエイト入りをはたしている。本人は進学の意思が強く、慶大、早大、立大のセレクションを受けたほどだったため、ドラフト会議ではどの球団もリストアップを控えていた。それをくつがえしたのが、巨人の内堀スカウトの熱心な誘い。「大学を出て将来プロ入りするのもいいけれど投手の場合はむしろいきなりプロできたえたほうが大成することが多い、といわれて巨人入りを決めたという。「堀内さんのように、まっこうから勝負するタイプの投手が目標です」と目を輝かせる。松本の主武器は長身からのストレート。第二の新浦としての期待は大きい。


1981年


合宿ではいつもいちばん最後まで、ひとり投げ込みをつづけている。練習の虫だ。ことしの正月に目標をたてた。「一年間さぼる日がないように精いっぱいやる」「みんながマツみたいに練習してくれればなあ」と武宮寮長がよく松本を引き合いに出すことがある。ある意味では完全主義者。ここはよかったけれどあそこに問題がある、とあれこれ考えすぎてしまう。「そんな悩まず、もっと夢中になれ」と木戸コーチ。都立の星ももう三年生。

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レイ

2024-03-18 12:10:19 | 日記
1974年
「ウチのウイークポイントは埋まった」-日本ハム中西監督が久しぶりにラッパを吹き鳴らした。ケキッチに続き、第二の青い目の助っ人元ヤンキースのテレンス・リチャード・レイ投手(27)=183㌢、86㌔、左投げ左打ち=が六日午後四時五十七分羽田着の日航機で来日したからだ。後楽園球場で行われた記者会見でレイは「先発、リリーフは監督次第。体の続く限り多く投げる」とひと足先に来日したケキッチと同じようなたのもしい発言。左不足に泣いた中西監督も、左の元ヤンキース・コンビを両わきに抱えて「くたばれファイターズといわれるほど勝ちたい」「得意とする球はファストボール(速球)」と開口一番のレイ。すかさず中西監督を間においた隣のケキッチから「彼はコントロールもいいぜ」と声が飛ぶ。球場貴賓室で行われた記者会見は異国で再会した両人の二人三脚で始まった。ケキッチの方は三日間の練習で十分いけると判断しているが、レイの方はまだ未知。「まず投げさせてみなければ…」と本人が来日するまで心配していた中西監督だが、レイの手の大きさを見てホッと一安心。自分の手と合わせて二㌢以上も長いからだ。中西監督のゴツイ手もレイにかかるとまるで子供なみだ。「好投手の条件はやはり手の大きいこと」と常々いっている中西監督としてみればこれはいけそうだと思ったのも無理はない。弱体投手陣に泣いた日本ハムの前期。それも左投手で挙げた白星はタナボタの山崎の一勝だけ。パ・リーグの左打者にいいように打たれ続けただけに、元大リーガーの両サウスポーの加入は頼もしい限り。二十試合120イニング以上の契約を結んだケキッチが「私としては三十試合に投げ15勝以上したい」と胸を張り、来日したばかりのレイが「リリーフ、先発どちらもOK。私の監督次第、練習も十分してきたし二、三日で試合に投げられる」と首脳陣もシビレさせる話。さらにジャック・二クラウスに似たレイは「私が大リーグからはずされたのは胸元のファストボールをストライクにとってくれなかったから。幸い日本のストライクゾーンは高めに甘く低めに厳しいと聞く。胸元の速球さえストライクにとってくれればかなりやれる」と自信たっぷり。両人への期待度は計り知れない。記者会見の席上、レイが「ケキッチが三十試合で私も同じくらい投げたら、日本のピッチャーは五試合しか投げられないではないか」に爆笑のウズの中、オーバーなゼスチャアでおどけて見せたが、三原・中西親子だけはまんざらでもなさそうだ。「ウチはなんといっても左不足だった。パ・リーグにはいい左打者がゴロゴロしている。でも実績、経験のある二人の加入で相手もかなり戸惑うはず。ウイークポイントがなくなり、これからは是が非でも勝たねばならない」(中西監督)ということになる。ところで、ケキッチとレイのご両人は三年前の七一年、一年間ヤンキースで一つカマの飯を食った仲。元ヤンキースの両サウスポー」で他球団からくたばれファイターズといわれるようになるかどうか。「出来ればそのくらい強くなりたい」というのが三原・中西親子の願いだ。

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フリューリー

2024-03-17 11:40:33 | 日記
2002年
日本ハムの新外国人右腕・パトリック・フリューリー投手(28)が1日、ブルペンで初投げ。打席で球筋を見ていた大島監督の頭部付近にいきなり、危険球を見舞った。184㌢、98㌔の体重を乗せた剛球に大島監督がのけぞった。ヘルメットを着用していなかった大島監督はもん絶し「おいおい!!」と絶叫。が、すぐに笑顔に戻り「怒るでほんまに」とおどけた。フリューリーは帽子をとり頭を下げたものの「ちょっと滑っちゃったよ。おもしろかったね」とどこ吹く風。この日のテーマだったストライクゾーンの確認も「米国と同じ。広ければ広いほどいいからね。わっはっは」と笑い飛ばした。脅された大島監督は「すばらしいごあいさつをしてくれたね。敵に投げてくれるといいんだけどね」と度胸満点の投球に満足げ。期待している抑えにぴったりの性格とあって笑顔が絶えなかった。

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中川隆治

2024-03-17 10:57:21 | 日記
1995年
ドラフト2位の中川隆治投手の評判が、日に日に上がっている。藤井寺球場で、立ち投げで40球の試球をみせた。スリークォーターから投げる速球のキレは一級品。さすがに東都リーグのエースと騒がれることはあり「今はボールの回転を変えるためにヒジを下げているんです。今後、フォームをコーチに直されることだって、当然わかっていますよ」と新人らしからぬ落ち着きを見せていた。


近鉄の住友二軍投手コーチは「フォームがよくなって来た。投球の際に、踏み出した左足に体重がしっかり乗ってきたから、よくなってきたんでしょう」と、青学大出のドラフト2位ルーキー、中川隆治投手のピッチングを見守る。「調子が悪いときでも、気にせずその状態で最良の投球をするように心がけている。それと最近フォークがキレるようになって来たんです」と中川。4月16日の阪神戦(鳴尾浜)では、8回を投げて5安打1失点と好投を見せた。コーチ陣が熱い視線を送るなか、ルーキー、中川は一軍を目指して投げ続ける。

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ライス

2024-03-17 10:19:47 | 日記
1986年
今シーズン好調の近鉄に、新たに「安年棒」の外人選手が入団した。「契約金ゼロ、年棒360万円」というウォルシー・ライス投手(23)=190㌢、82㌔がそれ。本場での実績はほとんどない。ハワイの高校を卒業後、大リーグ傘下の1Aを数チーム渡り歩き、来日前はメキシカンリーグで投げていた。近鉄と友好関係にあるブリュワーズの口利きによる入団である。近鉄関係者の話では「ライスはまだ原石。フォームも雑で、これからじっくり磨く。速球は145㌔は出るから、うまく育てれば儲けものだ」二、三年後の秘密兵器といったところだが、「外人選手は即戦力をすぐ期待するが、外人三人のうち一人は本場からいい素材を見つけてきて、日本で育てた方が面白い。選手層は日本に比べ無限で、日本に来たがっている若者も多いんだ」ライス投手、シンデレラボーイの第一号となるか。

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井上卓也

2024-03-16 16:39:38 | 日記
1980年
投げおろすカーブは鋭いものを持っている。即戦力の実力を秘めており、一年目から一軍入りの可能性もある。性格が強いところから中継ぎ、抑えに適したタイプ。期待のルーキー。


1982年


リリーフ役が多い。上からのカーブを武器とする。今季は先発完投でいきたいもの。好きな言葉は根性だが、その根性で一軍入りを実現したいもの。

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福山龍太郎

2024-03-16 16:36:17 | 日記
2002年
左腕福山が「左キラー」で一軍入りを目指す。今年は4年目で初のキャンプ一軍スタートとあって、初日から3日連続のブルペン入りでアピール。この日は65球を投げ込んだ。「ボクの武器はシュート。インコースを厳しく攻めて、左のワンポイントとして生き残ります」一軍切符をかけたし烈なサバイバルを戦い抜くつもりだ。

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登記欣也

2024-03-16 16:31:17 | 日記
1979年
「上(一軍)の打者はバットの振りが鋭いですね」エース鈴木の代役として、待望の一軍入りをはたした近鉄のルーキー登記は、八回から一イニング投げて笹本に3ランを浴びがっくり。ファームで6勝を上げているものの一軍初デビューは苦いものとなった。「緊張してコントロールが甘くなった。ホームランは高めに入ったカーブです」と自分のピッチングができなかったことを悔やんでいた。

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