想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

桜待ちしていたあいだに、

2023-04-27 09:37:14 | Weblog
山の桜も全国並に10日ほど早く開花した。

山桜の淡い色が山肌を明るく染めている。
家へ向かう道路は太陽光発電のダンプカー
が行き交い広大な範囲で牧場や雑木林が
工事現場化して風情はなくなった。
ぽつぽつと背を高く伸ばし山桜が見える。
それだけで殺伐とした気持ちが少しだけ
明るくなる。ああ、さくら、さくらだと。

三月半ばころから身体が重だるかったが
四月に入ってそれははっきりと形になって
顕れてきた。
そしてある日の夕刻、体の脇から背中にかけ
ギリギリと痛みが走った。若い頃から腰痛に
慣れているのでああきたかと思い、そのまま
きりのいいところまでと仕事を続けた。

根をつめているつもりはないけれども‥‥
と、あとから悔いてもしかたがないが
腰痛ではなく別の病名だった。
「ストレスが原因」と医師に断定された。
はっきり言いますけどと眼鏡の女医は
笑いながら告げ、あきらめて休んで、
と笑いかけた。
痛みで体を動かすのも辛いので従順に
頷いた。薬局の待ち時間が途方もなく
長く感じられ、早く横になりたかった。

それでも翌日の予定を考えているわけで
あきらめるしかないのだよと自分に言い
聞かせた。
数日経って仕事場へ行き、身体が無理だ
と訴えているのか教えているのか実感し
早々と帰宅した。
それからも何度かよたよたと出かけるが
そのたびに限界を思い知った。
日薬という医師や先生の言葉をかみしめる。



こんなに何もしなくていいのだろうかと
思いが湧き上がるのをなだめながら
空を見たり庭の花を見たり植木鉢に水を
やったりゆるゆるのろのろとしている。
薬を日に三度飲むために食事を取らねばならないが
調理する力はほぼない。

三日くらい前から読書をする元気が出てきた。
「正法眼蔵」と「宗徳経」「典座教訓」を
取り出して拾い読みする。
そこにひたっていると元気をもらえる。

つづきはまた。
今日はここまで。









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神文伝 人これをさとらざるも‥‥

2023-02-23 18:49:20 | 
先代旧事本紀大成経伝(五)は神文伝。
発売中です。
師、安房宮源宗先生の解説を本にする
お手伝いを致しました。

昨年のほとんどをこの本に費やした、
というと分厚い大著のようだけれども
厚さ1センチ96ページのサイズです。
片手で持つことができバッグに収まる
ことを考えて作ってあります。

そして表紙カバーをあえてつけていません。
この本の用途は神文を唱えることです。
カバーがめくれたり外れたりする面倒が
ないようにしました。
カバー本来の目的は本の問屋や書店が
商品が傷むのを防ぐためです。
帯の幅を広めにとり本を扱うときに
そこを持ってもらうと表紙に汚れが
つくのを防げます。
これ、実は知人の編集者のアイデアです。
なくてもいいよ〜、と実際にカバー無し
の本を持ってきて教えてくれました。
すっきりしててよかったのです。



この本にとっては「すっきり」は大事です。
神文は四十七文字で表されているのですが
そこに人生まるごと表現されています。
実にすっきりとしていて、単純明快でした。
それを理解できたのは本が出来上がる頃、
編集中は深い霧のなか、頭も靄っていて
あああああ、もうだめだと声に出して
言っていたほどでした。

入稿寸前の校正のための読み合わせの時、
ふっと視界が明るくなって、ああそうかと
四十七文字がくっきりと見えてきたのです。
先生に、これって意外と単純ですね、と
電話で話すと、そう、単純ではないけど
明解ね、と言われました。
それで余計なもの、色をつけないでと
言われた意味もわかり、猫の手のような
仕事をしていた私も元気になりました。

元気になってからは校正が重なり入稿が
ずれていってもへいちゃら、いつもならば
イライラするのだけれど粘りました。



聖徳太子が当時も謎だった神文を解読し
人々に意味がわかるようにされたという
ことなのですが、太子が尊い方であるのは
いうまでもないですが‥実は私のアイドルは
そばに仕えた秦河勝なんですぅ・・・・。

河勝の文が好きで大成経の序伝の伝の文
といい、この神文に添えた神文伝という
文も熱いのです。熱すぎて泣けるほど。
(本のタイトルの神文伝は河勝のこの序文
を指すのではありません)

河勝が太子から賜った弥勒菩薩像が本尊の
広隆寺(京都)はよく知られていますが
聖皇本紀には秦氏一族の庄を太子が訪れた
日のことが書かれていて現在の広隆寺辺り
とおぼしき地名が出てきます。

そして秦河勝を祀った神社は大避神社です。
神職憲法に人を祀らないとありますから、
ここは後世に里の人々が創建した社ですね。
秦氏と赤穂市坂越のつながりは瀬戸内海を
挟んだ対岸の土地も含めて六世紀前後の
古い時代からあったと思われます。
その地を歩くことでまた何か感じられる
ことがあればという淡い期待を持って、
春になったら旅に出て赤穂市の海辺に
寄り道してみようと思います。



河勝といい儒学者の学哿といい太子に仕えた
人がどのようであったかを大成経各巻の
行間に読み取り、その熱情とまっさらな
忠信にいつも心打たれています。

神文伝の12ページにある秦河勝の文、
「その言(ことば)には数あって数の実に
理を含みこの理は玄(おく)にあって
人これを知(さと)らざるも、
これ先天(たかあまはら)の伝なり」
とあります。

人これをさとらざるも‥‥と人である河勝が
書く、それがとても大事なのです。
聖人である大王、太子は訓と解きを成した
という次の行の前にそれがすんなり書かれた
それが河勝その人を語っているようで。

河勝は太子にすべてを教わり、順じた人
でした。素直さと私心のなさ、そして
そうあることができる聡明な知性が
備わっていた人なのでしょう。

四十七文字の人含道(ひふみ)祝詞は
神職者でも唱える人は少なく(皆無かも)
一般書籍にしたのには源宗先生なりの
お考えあってのことかと思います。
私自身は三十数年来つねに手元にあり、
その重みも知っていました。
秘書ともいうべきこの文が書棚に並ぶ日が
くるとは思いもよらないことでしたが、
今だから必要ということかと思います。

吉と出るか凶と出るかという踏み絵のような神文を口誦する。
人生の節目を作ることになるかもしれない。
そんな本です。

現在アマゾンよりもhonto が早く配送します。
または最寄り書店か版元でお問い合わせください。

ISBN978-4-908665-07-3
書店に注文するときは、これをプリントしていくといいです。





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ひとつづきの空の下で

2023-01-01 16:30:07 | Weblog
謹賀新年。
おめでとうございます。
おだやかな元旦です。新年を迎えられる
慶びを本年は格別に感じます。
いくつかのよいことがあって、
とても静かな年越しとなりました。

「新しい戦前」という言葉通り爆撃のニュースは
元日とて絶えることがありません。
ゼレンスキーが人でなしと訴える声も虚しく
聞こえます。

例年に比べて降雪も少なく晴れ間の見える空に
ひとつづきの空の下に、今凍えている人が確かに
いることを思わざるをえません。ましてや
今の幸福に何の、誰の保証もない国のありさまですから。



わが定番のグールドからしばらく離れていました。
クリスマスの頃、twtの友人がアップしていたCD
ジャケットをみてそうだなあと聴きたくなりました。
グレン・グールドともう一枚はチェロのゴルドベルグでした。






そして元旦はAnd Serenity 瞑想するG.グールド
というアルバムを聴いています。
休みではあるけれど年始早々に印刷所へ戻す
校正紙を抱えて、緊張しっぱなしなので
気持ちをしずめるのにとても合っています。

晩年のグールドのピアノはやわらかな響きで
若い頃の録音より、今の自分には心地よく感じます。
グールドの小さなハミングがかすかに聴こえます。


(クリスマスに降った雪です)

皆さま、美き年となりますように。





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雪虫が飛んだ、紅葉も最後の日

2022-11-16 00:30:27 | Weblog
更新しない日々に秋は過ぎていき
例年にもまして樹々は彩あざやかでした。

撮っておいた写真をいくつか上げます。



上の樹は事情があって枝を短く伐った。
切り口から出ていた新しい葉が紅葉して
元気ですよ、またまた伸びますよ、と
さやさやさやと秋風の中で歌うさま。
小川の向こう岸にたっている。

先月半ばだったか雨が降り続いた夜、
裏庭沿いに流れている小川は水嵩を増した。
裏山へ続く私道に水は溢れ、
土管を埋めて作った小道は壊れた。
あの道を通ってぷーちゃんとふたりで
いつも裏山の奥のほうまで歩いた。
冒険はふたりだったからできた。
今はしない。
熊に遭ってもたぶん逃げられなくて
困ったことになるだろうと思うから。
で、その道を私が直す理由もなくなった。



20数年かけて背丈が伸びた森庭の樹は
枝葉も大いに茂り、夏の陽を遮り
空があまり見えなくなっていた。
真夏、木陰は涼しくてよかったが‥‥。
そろそろ手入れ時であるということで
この秋は伐採作業をすることになった。
紅葉の美しい木を残した。



M氏とS君が先だって先生の指揮のもと
大活躍した。
もちろん猫の手以下のあたいはみていた。

M氏が玄人が使う木登りの道具を買い
長梯子が届かない高いところまで登った。
チェーンソーを持っているのでハラハラする。
わたしは下から凝視していた。心配でも
余計なことは言わない方がいい、気が散るから。

倒れた木がほかの樹々に当たらないよう
倒れる方角を計算して伐る、言うは易く
行いは難し、どんぐりの木も硬い。
下で見ていた時より木は大きく長かった。
音を立て、どーっと倒れる。
茂った枝葉を切り分けるのも大仕事だ。
二ヶ月近くかけ週末ごとに片づけた。



広い敷地に倒した木と切った丸太が散乱し、
落ち葉も積もる。
ふかふかの地面は一面黄色とうす茶色。
いい匂いがしている。
枯れ草の匂い、ぷーちゃんの匂い、
ああ、懐かしい匂いだ。



燃料高騰の折、有効活用したいものだが
とりあえずは焚き火で減量する。
雪が降りだし埋もれる前にかたづけたい。



こむらさきしきぶ、今は葉が落ちて
茶色の細い枝に濃い紫の実が生った
一枝を手折りガラスの花瓶に挿した。
この庭の美しさは、森に手を入れて
作ってきたものだが、もとよりの自然が
あってのことだ。
歳とるごとに美しさをより深く感じている。

若い頃からこの世に未練はない早死がいいと
思っていた。
だからこの世を去り難い気にするものに
出会うとは、なんという幸福だろう。
この場所の美しさ。
愛するものと過ごした時間。

昼過ぎの明るい光の中、雪虫が飛んでいた。
じきに霜柱が立って冬が降りてくる。










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泣く効果

2022-10-06 23:27:41 | Weblog
台風がいくつか来て、家の周りでは
倒木や、裏の沢が氾濫し山の小径が
崩壊したり、それらしく夏が過ぎ去り
もう秋の真ん中だ。




このところ、もう何日もだが
夜ごと泪があふれ、
時には声を出して泣き、
泣き終えて 眠ろうと努める。

言葉にしないことが泪になって
こぼれだしているのだ。
誰も見ていないところだし
心配して身体を寄せてくる者も
いないから 泣いていられる



ページをめくり幾篇かの詩を読み
他人の言葉を深く吸い込んだから
今夜は泣かないはずだった
ほんの数秒置いて、落ち着いて
泪はこぼれてきた
納得したようにしずかに泣けてくる
どうしても泣くのか……

わたしのことではないのだけれど
詩のなかの そのことにしみじみと
悲しみが湧いてきたようだ
しかたがない 詩のせいだ
凄腕の抒情詩人なのだから

悲しみは、奥深くに沈んでいる悲しみは
底までたどり着くと同じ色なのか
ああ、怒るより悲しむほうがいい
呪うより、恨むより、ずっといい
けれども一番底にあって
自分でも見えなかったりする
ほんとうのきもち
夜叉ヶ池の水のように深く
体内に滲み、潜むのだ

母をそばで看ていられないことが
とても辛い。
そういう境遇を選んできたことを
いいわけもできないことだから。
そのことを思い続けて
できることといえば祈ることしかない
というていたらく
祈りが尊いのではなく
尊い方へ祈るしかないだけだから

どのような境遇に身を置いたとしても
その魂が安らかであるように
その心がおだやかで明るく照らされて
あるようにと
かつて母がわたしにそうしてくれたように
祈る、それだけにすがりついて

涙はせきとめないほうがいい
氾濫しないように
しずかな場所でひとり泣くといい










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「憂鬱之島 香港、ここで生きていく」

2022-08-30 23:36:39 | Weblog
渋谷のユーロスペース、上映最終日は朝から雨だった。

闇に浮かぶ波頭に人影、
中国大陸から香港へ、海峡を泳ぎ逃れる。
文化革命の最中あるいは天安門事件の
危機から逃れ、小さな島に自由を求め
命からがら陸を踏んだ。
ぬれそぼる香港…
画面も濡れていた。



映画をみてやがて20日経つ。
憂鬱はわたしの中に浸みこんだままだ。
2014年香港は雨傘革命で世界の注目を
集めた。民主主義を求めたデモは若い
革命家たちを一躍有名にした。

彼らの要求は「普通選挙実施」である。
つまり中国の息のかかった選挙委員による
間接選挙を「普通」へ改めよというものだ。
その機会を逸し続けてはなるまいとして
立ち上がった学生が大規模なデモの
中心であった。その若さと真摯さに
海を隔てた人々もメディアも注目した。

だがそれはかえって中国本土を硬化させ
警察の武力圧力は強まりデモは力を失った。
元々なかった民主主義を求めたデモは
現状を変えられないまま活動は停滞した。

民主化運動を恐れた中国は一国二制度を
撤回し香港政府に「逃亡犯条例」改正を
促した。
中国批判をすれば中国当局に拘束され
捜査、刑罰対象となるのだ。

香港には言論の自由があった。自由を求め
海峡を渡った人々の子どもたちが成長した
今、再び中国当局に怯えるとは悪夢だ。
2019年、今ある自由を守るためのデモに
200万人の群衆が命をかけた。

そして2020年5月、中国は香港の言論を
取り締まる「国家安全法制」を導入した。
集会制限にも拘わらず数千人の若者がデモ
に参加し多くの逮捕者を出した。

映画は三世代にわたる抵抗の歴史の記録
を実在の活動家による再現ドラマと当事者
の証言、証拠写真を混ぜたドキュメンタリー
である。

クラウドファンディングに参加しチケット
が送られてくるまで長かったが、完成した
本作はまぎれもない傑作であった。
ここに証された事実は遠い国の出来事とは
もう思えない。
今の日本は、確実に危うすぎる。

何のために生きるかより、生きるために
何をするか、を突きつけられている。
生きるとは、自由に息をすることである。
コンクリート壁が四方を圧迫する狭い部屋
に10年は長すぎると彼は言った。
暴動罪の判決、恐れて口をつぐんで
目の前の享楽に我を忘れるか。

息をする自由を守るには……
生きている今を感じ、決して離さないことだ。
憂鬱に抗って、今日も
ビクトリア・ハーバーで泳ぐ。
チャン・ハックジーの身体と心が最後に
勇気をくれる。





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美しい世界に出会う

2022-08-02 14:39:47 | Weblog
美しい、と思う瞬間がなければ
生きてはいられない
それは予期しないとき
無心でいるとき
訪れるようだ



美しくないものを嘆き、怨み、怒る
それだけですでに
自らを汚し美しくないのだから
何も思わないとき
恵まれるように顕れる



望まないこと
欲しがらないこと
求めないこと
賢人や詩人がそうしるしてきたのは
そうするしか見られない世界を
知ったからだった

知ったとて、その瞬間を待たないこと
それが秘訣
忘れたようで忘れはしないのだから
惜しむことはない、と
大きな気持ちでいることくらいだ

世界は人が思う以上に美しい







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7月8日夕刻 白い月

2022-07-14 16:02:55 | Weblog
その日。
まだ明るい空、東南のやや高いところに小さく
白い月が見えた。昨日が上弦だった。
あまり変わりない月齢9.0。

一週間が過ぎた今日は満月。
深く雲がかかり朝から小雨が降っている。
夜まで降ったりやんだり続くようだ。



下野草の花もそろそろ終わり。
花の色が褪せていくのが今年は早い。
強い風雨の日が続いたせいだろうか。

東京から戻ったら、葉を茂らせた桜の木の
枝が折れ、地面へ垂れ下がっていた。
さらに奥へと歩くと隣地の木が小川を跨ぎ
こちら側へドウッと倒れていた。



木の先の方が松の木にぶつかり粉々に砕けていた。
朴の木だろうか、大きな葉が幹に絡むように
生々しく広がっていた。
樹皮に苔むして、古い、大きな木だ。
風が吹いて、倒れた。
無惨なさまにまとわりつく大きな朴葉は
他人のような顔をしている。

死にざまは生を映すものと学んだ。
いかに死すかはいかに生きたかの証だ。
その人生を偽って、死者を弔うことはできない。
この一週間、偽りの美談で塗り固め英雄を
作り出していく人々の言葉が溢れていた。
あたりまえのことだが少しずつ事実を語る
声が混ざるようになってもきた。
すると欺瞞が常習となった人々はさらに
声高になっていく。

この森はかわらずおだやかな夕暮れ。
ひぐらしの鳴き声は16時05分から始まり
(気になって先週時計を見ていた)
波打つように聞こえ19時18分に静まる。
風のない日は静寂とともに厳かな気配。

空が白み始めると、野鳥が朝4時には
にぎやかにさえずる。
いまのところ私の邪魔をするのは日中の
カラスくらい、9勝1分けという観じだ。
カラスと鳴きっこして負かすのである。
カラスはわたしをアホな奴と思って
森のさらに奥へと去って行く。














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六月、切り株に芽が出た

2022-06-22 18:51:00 | Weblog
おおお、芽が出た。

先々のことを考えて森庭の木々を伐採したり
移植したり、少しずつしている。
先生と自称弟子たちがだが。
わたしはヒヤヒヤしながら見ている。
この子といっしょに。



「切り株の木」という詩を思い出した。
「風のつよい日だった。大きな切り株しかない木が、
吹いてきた風に言った。
おーい、風。わたしの過去はどこにあるのか。
枝葉をもたない。影をもたない。闇を生まない。
それが現在なら、わたしの未来はどこにあるか。
 切り株よと、風は言った。違うんだ。
過去、現在、未来と、時間を分けるなんて
間違っている。うつくしい時間はどこに
あるか。大事なのはそれだけだ。
 切り株の木は、空を仰いだ。すると日の光が
さっと差してきた。
・・・・・・・・・・・・
 椅子くらいの高さの切り株のまわりを、
切り株の木がずっと生きてきた時間が囲んでいる。
日々の魂を浄めるような時間が、そこにはのこっている。」
(©長田弘「詩の木の下で」2011)



汚された木々、汚された土は十年二十年では
癒えない。元通りにはならない。
ガイガーカウンターがピーピーと甲高く
鳴る場所だった、ここからの眺めをその前も
後も撮り続けてきた。
もうそれも終わりになるだろう。

一帯がTOKIOBAという名になった。
知ったのは少し前のことだった。
その数年前から太陽光発電会社があたり
じゅうの木を伐り、土を掘り返している。
それがキャンプ場やイベント場になった
としても自然が人工物で被われることに
かわりはない。

11年過ぎたからほとぼりは冷めたか。
汚れた土地の有効利用というのだろうか。
有効か?
動植物は追いだし、人が来る。
叢に巣があったキジバト、
もっと奥の藪にも仲間がいた。

耕し整備した黒土、畑にでもするのか。
広い敷地内に舗装した道路が延びている。
震災前に浜通り近くの里山で撮影していた
番組の三番煎じか、もっとビジネス化
するのか。
いずれにしても人が集まるのだろう。
あそこには水辺がない。
遠くに那須連山が見えるけれど、
そばに木立はなく、だだっ広い牧草地だ。
牧草地だったから柔らかい土だ。

短い夏は激しい雨が降る。
冬は雪が積もり、気温が低く溶けない。
晴れた日の陽射しは恵みのよう、
春が来るのがほんとうに待ち遠しい。

復興や開発という言葉が使われる土地、
戦後の福島の歴史はずっと他所の人が
ブルトーザーとダンプを乗り入れ
土ボコりを巻き散らし
木々の葉を汚してきた。
地元の人の幾人かは見張り役や、
重機作業や運転手の下請け仕事にありつく。

あの埃を吸うのは危険ではないか。

昨年夏から冬場、そして春先と
ずっと牧草地や雑木林を掘り返し
土を盛りあげ、掘り下げ、また盛る。
たっぷりと水を貯めた雑木林は
道路の脇に細い流れを作っていたが、
木を伐り、道路わきに新しい排水溝を
掘ってU字溝を埋めこんだ。

長い人工水路は泥で埋まり溢れないか。

アスファルトは切り込みだらけで
凸凹になり見苦しく、鄙の景色が
泥とほこりだらけだ。
道の両脇から、狸や猫やたまには鹿、
猪が現れるような場所だ。
工事の間じゅう騒音に怯えただろう。

わがもの顔で、土を木を汚す人たちは
ほんとうに愚かしい。
退化の一途をたどるヒトにも
美しい時間は訪れるのか。






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山桜

2022-05-02 19:15:52 | Weblog
庭から見える桜のうち一番大きな木が
三分咲きだったのが4月24日でした。
いつもゴールデンウィークの最中に開花
するので、このまま咲き続くとしたら
帰ってくる前には満開になってしまい、
地面に散り敷いた花びらを見ることに
なってしまいそうで気になっていました。

29日に帰ってきたらちょうど満開の最中、
最初の木は葉桜になりつつありましたが、
次々に咲いて、森庭ぜんたいがふわっと
明るいのでした。



翌日も桜を見るために歩いて、
ふつふつと湧き上がってくる喜びに
父、そして母を想いました。

花に思う事柄はそのつど様々だろうけれど
高く伸びた桜の上の方についた花たちを
見上げながら、父を思い、今ここにいられる
この時を、感謝せずにはいられない気持ちと
喜びとが満ちてきました。
そして母を思うと、その苦しかった歳月ごと
抱きしめてあげたい、桜が咲いたよ、
咲いたよ、といっしょに包まれるよう
願いました。



降り注ぐ幸せ、
予想だにしなかった喜び
人生にこんな時間があることを知りました。


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3月の地震、11年目の恐い

2022-04-06 07:30:00 | Weblog
二ヶ月ぶりの更新になった。
ベイビーが逝ってからというもの間遠な
更新でだらだらと続けてきたが……
こんなに離れていたのは初めてだなあ。
たまたま、ちょうど二ヶ月ぶりということ。
3月は母の誕生日が16日で、夜は地震だった。
被害が大きかった福島浜通り、さぞかし
落胆されたことだろう。
これからという時……、酷なことだ。



雪解けで水かさが増してきた3月半ば。



木の芽がちらほら目立ってきた。

SNSが生活の中心にどっかと根づいて
いいね、が価値基準になる世の中。
変わらず裏表はあって、裏の裏の裏も
あったりして、くるくる回るのに
ついていけない。
静かに暮らすのにはネット空間とは
距離をとるほうがいいのである。

どだいついていく気などないが、
3.11からこのかた懐中電灯と同じくらい
常備、必需品のiphone とモバイルルーター。
ネット空間を無視し続けることはできず、
昨日も今日も、そういえば先週も
東北新幹線の臨時ダイヤを調べ
予約した指定席切符がどうなるかと
やきもきしたあげく、車両1両分しか
指定席がないことを知り慌てた。

運行再開しても間引き運転だから
東京駅では自由席車両に長蛇の列が
でき、いつもはガラガラの時間帯が
満席、立つ人ありの盆暮れの風景だ。
ちゃっかり指定席車両に座った人は
JR東日本からのお知らせをスマホか
なにかですばやくキャッチしたのか、
そういうことか、と落胆した。

なにが嫌か、嫌というより怖いか……
それは満員列車なわけで……
フィジカルディスタンスは無しだ。
車内アナウンスとは裏腹な状況の中
人いきれでぐったりしながら帰った。
えきねっとをすぐに見るべきだった。


山へつながる道はすっかり様変わり
して殺風景になった。
太陽光発電工事現場が延々と続いて
木々が伐採されてしまったからか、
春の気配も感じられない。
ダンプカーが土埃を巻き上げていくそばに
その脇に桜並木が続いている。
咲いても観る人がいない桜は
寂しいを通り越して可哀想である。



庭のビニールハウスのなかで薔薇が
新芽をつけていた。





高くなりすぎた木を伐採した切り株、
庭の真ん中あたりにあるので、
ここに座ってのんびりする指定席。
ここも猫に先回りで陣取られるかもしれない……

疲れのせいか、悪いほうへ思考が向いて
どうも明るさのない日々である。

そうそう、最後になったが冒頭の写真は
気鬱の慰めに載せました! 実はこれ、
母の誕生日に贈った薔薇のアレンジメント。
花屋さんがこれ送りましたよと知らせて
くれたもの(これもネットで)
98回目の誕生日、信じられないことだ。
苦労ばかりだった母の人生を思うと
神さまに感謝、つながる人々に感謝、
母は花が何より好きなので喜んでくれた。
コロナ対策でいっしょに過ごせないのが
残念だしもうしわけないけれど、
花を贈るくらいしかできないけれど、
母が喜んでくれたことに慰められた。
けっきょく、そういうこと…
ダメ子でんねん。















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コゲラ、アカゲラ、ゲラゲラ

2022-02-06 17:42:27 | Weblog
雪の日が続いている。
気温が例年よりかなり低く日中も零下の日が
多い。
しかし、鳥のさえずりはよく聴こえる。



コゲラ君のお仕事はその後も続き、
塞いだ穴の隣、また隣と続いていた。
東京の仕事場から三日ぶりに戻り、まず見る。
工事現場みたいである。



ゲラにお気に召した木造家屋は私の好みでも
あるんだけど、使いかたに利害が生じるとは
悩ましい。



結局のところ、野鳥より早起きするのは
難しいので見張っても一朝、早起きすると
翌日は寝坊する。



しかたがないので鳥除けの磁気グッズを調達し、
プラスチック製の板を広めに貼ることにした。
ガクちゃんM氏が二人でやってくれた。
ありがとうございました!

ゲラ君に諦めてもらう作戦、どうなることやら。




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招かれざるモノ、コゲラよ

2022-01-27 23:31:56 | Weblog
大晦日から元旦にかけての珍騒動は
招かれざるモノの襲来であった。



大晦日の朝。
トントントントン、トンとトン。
リズミカルな音が聞こえた。
山ではいつも朝寝坊なのがたまたま
早起きした。前夜から降っていた雪を
見ようと寝床からすぐに出た。
台所で朝のお茶を入れていると聞こえてきた。
トントントン、調子のいい音。

初めは聞き流していたが、やがて、ん?
アレ? と思いつき階段を急ぎあがり
窓を開けたら、いた! 

屋根の一番高いところの、軒下に
そやつはやってきた。
コゲラ君、それはないよ〜
こらーーと烏を追うときの大声で叫ぶと
とっとと逃げた、と思ったら
すぐそばの松の木の枝に止まっている。
羽が白に黒の斑でなかなかおしゃれ、
てなことを意ってる場合ではない。

コラ、しか思いつかない。
窓ガラスを音をたてて開け閉めすると
ようやく飛び去った。
板張りの軒天に長い切れ目が入り
端っこには穴が……。嗚呼。
トントントントン、鋭い嘴できちんと
開けてありました!

それでおしまいではなく、約10分後に
再び屋根の反対側、玄関の上の軒天に
ちゃっかり、トントンしにきた。
仕事半ばで追いやったが、それでも穴は
しっかり空いていた。

コゲラだと思うが、20年も住んで初めてだ。
たぶん、若鳥のデビュー戦なのだろう。
離れたところから我が家を眺めてみると
確かにあの場所はいい栖になりそうだ、
高いし……と小ゲラの気持ちになってみた。
強風が止んでよく晴れた今朝、ゲラめも
はりきってきたんだろう。
他に高くて虫のいそうな樹がいっぱいあるのに……

翌朝、元旦も同じくトントン。
賑やかに新年が明けた。
雪もどっさり降り続け、なかなか
緊張の年明けであった。

庭を横切り、縁側に降りたり
低木のムラサキシキブの実を啄んだり
小鳥が遊びにくるのは楽しい。
複雑である。
隣にある道場の雨戸に横一列に数個
大穴を開けられたことがあったが
当時は山に慣れていなく鳥のせいだと
わからなかった。キツツキよ、
あれから二十数年ぶり、オマエかよと
がっくりだ。
大地震でも無傷だった家だがオマエかよ、
ため息であった。

山間部の田畑での鳥獣被害はよく聞く。
駆除という猟を快くは思わないけれど
困ったものであることはよくわかった。
しかたがないのでカメ虫スプレーを
噴射して急場をしのいだ。
2週間効果があると書いてあったが
わからない。

穴は長身のガクちゃんたちが梯子をかけて
ふさいでくれることになった。
めんどくさい仕事である。
ありがとさんでござんす。

形あるものは壊れる、常日ごろそう思って
執着しないことにしているのだが
この家が好きなのだと、いまさらながら
気づいたのであった。
コゲラよ、友よ、お手やらかに…頼むよ。

山の正月篇、つづく。








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心に沁みる詩人のことば

2021-12-30 13:00:00 | Weblog
「万象」八木重吉

人は人であり
草は草であり
松は松であり
椎は椎であり
おのおの栄えあるすがたをみせる
進歩というような言葉にだまされない
懸命に 無意識になるほど懸命に
各各自らを生きている
木と草と人と栄えを異にする
木と草はうごかず 人間はうごく
しかし うごかぬところへ行くためにうごくのだ
木と草には天国のおもかげがある
もううごかなくてもいいという
その事だけでも天国のおもかげをあらわしている
 といえる
…………………………………………

十代おわり頃に買った普及版の
定本「八木重吉詩集」が今では薄茶色に
なった。元はクリーム色の
柔らかな和紙のような表紙と、
箱入りだった。時を流れを感じる。
そのだいぶ後に買った上製本の定本は、
パラフィン紙で被い、大事にして
綺麗なままだ。
わたしの後は誰の手元へ行くのか
なあと、たまに思ったりする。



第一詩集「秋の瞳」にある
「草に すわる」は若い時分、
とても沁みた詩だ。

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

三行の言葉が意固地を棄てさせた。
まちがいばかりしてきたこと、
気づいても遅い、改めようにも
どうにもならないことがある。
悔しさではなく、ひきずってきた
重荷を降ろし偽りない気持ちに
戻っていく
自意識からの解放と、
すなおに詫びる気持ちだ。
誰に向けてでもなく自分自身を
偽らなくていい安堵、
うちに還った子どものような
はだかの自分になることだ。
三行の詩がそう教えてくれた。

本の扉の後や雑誌に載せたことが
何度かあった。
作品にも当時の自分の気持ちにも
しっくりと合う言葉だった。
反対する人がいなくてよかった。
八木重吉を知らない人がいいねと言った。

難しいことばは使われていない。
けれどそこへたどり着くのは
むずかしい、とてもとても。
数行の言葉を読み終え、わたしは
新たな気持ちに、もといに、
戻る。
そのために開くようなこともある。



八木重吉の作品は29才までの数年間に
三千作余り書かれ、二人の幼子と
七歳下の妻を遺して逝った。
神へ向かう透徹した心を託した詩は
キリスト教徒でなくとも
神を想う者、仏の慈悲を想う者、
また心の奥底で善人たらんとする者に
沁み透る深い言葉ではないだろうか。

批判や皮肉、歎きを濾過して除き
無条件の無垢の美しさを視ていた人、
その喜びを覚っていた人。

「私」
人が私を褒めてくれる
それが何だろう
泉のように湧いてくるたのしみのほうがよい

こういう人が生きて在ったことが
文学やら詩人やら関係なくただただ、
人として嬉しい。そして、尊い。
最も大事なことかと思う。
いうまでもなく妻登美子と後の夫
歌人吉野秀雄の尽力のたまものである。














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朝霜の

2021-12-29 10:38:38 | Weblog
12月8日記
冬はいつかいつかと思っているうち
唐突にやってくるよねと話していたら、
数日後、やってきた。
まだ雪虫も見ていないのに、だ。

寒くて目覚めた朝、庭は一面銀色だった。
とーぜん、ガウンを羽織って裸足のまま
サンダルはいて庭へ。
雪が降った時と同じ、見に行くのである。
それに朝霜のは消にかかる枕詞、
急がねば消えてしまう。



朝霜の消なば消ぬべく思いつつ
いかにこの夜を明かしてむかも
(柿本人麻呂)

思考をコントロールする訓練がある。
瞑想はその基本なので、効果はあるが
本当に思いを整理しきれるかというと、
そう簡単ではない。
しかし思いをひきずっていると睡眠が
浅くなり、昼間もどうかすると勘違いや
物忘れをしたり判断が鈍るという悪い
兆候が表れ、ろくなことはない。



冷たい夜から光満ちる時へ移りゆき
陽の光はささっと霜を溶かしてしまう。
霜は水滴になり土に滲み通り沈んでいく。
その土に立ち、歩を前へ一歩。
忘れるのではなく
消すのではなく
新しい一歩を、歩む。
思いあぐねた結実、もう溶けていい。

人の現実はそうはいかないけれど
執着の居場所などない自然は
眩しくて気持ちよい。

この十日後に本格的に雪が降った。






















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