想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

想う心はどこからやってくるのだろうか

2012-02-13 11:39:49 | Weblog
(5年前3月18日、思い煩うことなき森の日々だった‥)

想いやるこころを仁と書き表す(旧事本紀)。
仁の意味は愛より広く深い。
まだ生まれたてで浅い仁、小さな仁でもないよりはマシだ。
その仁、想いやる心はどこからやってくるのだろうか、と
あまりにもあさましく醜いものに出会って考えてしまった。
そんなに難しいことだろうか、と。


(オヤツは寝て待てが座右の銘)

この黒い毛皮の人(わたしには人なのであるよ)を撫でて
いると、ふわっと包まれるここち。それは仁である。
仁は想いやるこころなのだけれど、実は与えられることを
知ったときに芽生えてくるのではなかろうか。
感謝する気持ちは仁の種、それもすばやく芽生える種である。

もの言わぬものから受け取る数々の恵みを、受けて、それぞれが
生きている。
オレがオレがとのし歩かなくても、のし歩く土台をそもそもが
用意されていたのではなかったかと、自分の足元にはたと気づく。
時すでに遅しの無力になってからしかないのだとしたら、
それは恨みや憎しみをともなって、己を省みることなどなく
恵まれていたことなど気づく余裕すらないのだろう。
堂々回りで出て来れない。

小さなこと。小さなもの。とるにたらないような、人が気づかない
ようなところに、仁の種は落ちている。ここそこあそこに落ちて
拾われるのを待っている。


コメント
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