おひさしぶりです。
朗報です、想風亭にとっては…ということですけんど、
子猫は元気でしたー。
満月の夜、庭で遊ぶ声だけだったけれど、台風にもめげず
江戸ちゃんとともにご飯食べにきてくれました。
柄がほぼいっしょ…。
でも江戸はハナクソとカメに呼ばれ、そこんとこ愛されて
江戸と命名されましたが、子猫はアゴと鼻を囲むように
黒色なのでほぼ鼻ヒゲといったほうがいいようです。
肉球も確認! かわゆいです。
とまあ、鬱々とした日が続いたある日、こんな時間が訪れて
ほっとしたり、しあわせ感をどどっと感じたりします。
森は秋を感じるようになりました。
三日居続けると最初の日と中日、三日目としだいに葉が
色づいていくのがわかります。
とても早い。
夏が短かったなと、今年はひとしお思います。
さて自分は何をしていたのだろう…とすぐには思い浮かばず
考えてみれば、とても慌ただしくいくつものことを平行して
やっておりました。忙しく通り過ぎて、過ぎてしまえば秋に
なっていました。
秋には秋の仕事があるのが山の暮らし。
とりあえず、屋根の塗りかえをします。
台風が過ぎた合間に晴れていればいっきに片付けようかと…、
それが終われば壁の塗装や、傷んだところの修繕をします。
雪に埋もれて動きにくくなる前にやることがたくさんあります。
まだ枝下ろしには早いですが、紅葉を楽しんだ後は伸び過ぎた
枝を剪定したり枝を詰めたり、庭は森とひと続きになっている
ようで実ははっきりと境界線があります。
境界線を維持することが暮らしの秘訣でもあり、楽しみを得る
ことでもあります。(ゲーテもメイ・サートンも悩んだことね)
庭は人の手(ほぼカメの手なんだけど)が造り、手入れを怠らずに
維持しなければ景観を楽しむことことはできないですね。
自然がいいと言っても、森そのままだと人には居心地よくは
ありません。たま~に自然に触れるくらいだとワイルドでいい
かもしれませんが。
江戸ちゃんも草丈の短いところでくつろいだり、芝生の上で
子猫とじゃれたり、ゴロゴロしたりです。
そこなら安心、除染してるけんね、ついそう思います。
猫を刺激しないように、森庭を歩きまわっていると、夏の猛暑で
傷んでいる樹をあちこちに見つけます。
何年も何十年も日照りや酷寒の時をも過ごしながら樹々はそこに
あります。人の手の及びようもない自然と折り合いをつけながら
立っている姿。
立ち止まり眺めていると、もやもやしたものがリセットされる
ここちです。人間は最も弱い存在ではないか、そうも思います。
人の営みは暮らしを便利にしてきたのですが、便利がいいと
思う人にはなんと面倒なことを山の中でやっているのだと
思われるようです。面倒を嫌う人…、でも本当は面倒かどうか
やってもいないからわからないんじゃないかな、そう思います。
めんどくさがりでぼーっとしてるのが好き、そう自覚してるし、
それは今も変わらないと思いますが、作る、耕す、育てることに
直接触れてみると、生きる歓びというのがそこに詰まっている
ことに気づきます。
便利すぎると通り過ぎてしまって「恵み」に出会う間もない。
高度経済成長と家電革命、車社会は労働の辛さから人を解放して
くれました。けれど、今また作ったり育てたりする喜びを発見し、
求める人が特に都会では増えています。
お年寄りは庭仕事や畑仕事をすると元気になると言います。
放射能のせいで故郷を追われ仮設住宅や避難先に今も住まざるを
えない人々はなによりも美しく豊かだった土を懐かしんでいます。
失ったものへの愛着と取り戻せないという嘆きは深いものです。
けれども立ち止まってばかりではなく、工夫と人々の助け合いで、
耕し育て食すという生きる原点に再び取り組もうとする試みも
あります。その姿に生きぬく知恵を教えられますが、一方で…
電力会社の原発再稼働申請のニュースには不快感が募ります。
再稼働より、生きる根源を奪ったことへの償いはどうするのか、
早く気づいてほしいのですが。
なんなんだか、ほんとうに見えない人には見えないのですね、
金、金、金と目先の金の話ととらぬたぬきの話するムジナばかり。
古今東西、悪は絶えずして、滅びてもまたどこからか出流るもの、
同じ数、いやそれ以上の数の善をもって防ぐしかないということ、
黄泉本紀を思い出しました。
朗報です、想風亭にとっては…ということですけんど、
子猫は元気でしたー。
満月の夜、庭で遊ぶ声だけだったけれど、台風にもめげず
江戸ちゃんとともにご飯食べにきてくれました。
柄がほぼいっしょ…。
でも江戸はハナクソとカメに呼ばれ、そこんとこ愛されて
江戸と命名されましたが、子猫はアゴと鼻を囲むように
黒色なのでほぼ鼻ヒゲといったほうがいいようです。
肉球も確認! かわゆいです。
とまあ、鬱々とした日が続いたある日、こんな時間が訪れて
ほっとしたり、しあわせ感をどどっと感じたりします。
森は秋を感じるようになりました。
三日居続けると最初の日と中日、三日目としだいに葉が
色づいていくのがわかります。
とても早い。
夏が短かったなと、今年はひとしお思います。
さて自分は何をしていたのだろう…とすぐには思い浮かばず
考えてみれば、とても慌ただしくいくつものことを平行して
やっておりました。忙しく通り過ぎて、過ぎてしまえば秋に
なっていました。
秋には秋の仕事があるのが山の暮らし。
とりあえず、屋根の塗りかえをします。
台風が過ぎた合間に晴れていればいっきに片付けようかと…、
それが終われば壁の塗装や、傷んだところの修繕をします。
雪に埋もれて動きにくくなる前にやることがたくさんあります。
まだ枝下ろしには早いですが、紅葉を楽しんだ後は伸び過ぎた
枝を剪定したり枝を詰めたり、庭は森とひと続きになっている
ようで実ははっきりと境界線があります。
境界線を維持することが暮らしの秘訣でもあり、楽しみを得る
ことでもあります。(ゲーテもメイ・サートンも悩んだことね)
庭は人の手(ほぼカメの手なんだけど)が造り、手入れを怠らずに
維持しなければ景観を楽しむことことはできないですね。
自然がいいと言っても、森そのままだと人には居心地よくは
ありません。たま~に自然に触れるくらいだとワイルドでいい
かもしれませんが。
江戸ちゃんも草丈の短いところでくつろいだり、芝生の上で
子猫とじゃれたり、ゴロゴロしたりです。
そこなら安心、除染してるけんね、ついそう思います。
猫を刺激しないように、森庭を歩きまわっていると、夏の猛暑で
傷んでいる樹をあちこちに見つけます。
何年も何十年も日照りや酷寒の時をも過ごしながら樹々はそこに
あります。人の手の及びようもない自然と折り合いをつけながら
立っている姿。
立ち止まり眺めていると、もやもやしたものがリセットされる
ここちです。人間は最も弱い存在ではないか、そうも思います。
人の営みは暮らしを便利にしてきたのですが、便利がいいと
思う人にはなんと面倒なことを山の中でやっているのだと
思われるようです。面倒を嫌う人…、でも本当は面倒かどうか
やってもいないからわからないんじゃないかな、そう思います。
めんどくさがりでぼーっとしてるのが好き、そう自覚してるし、
それは今も変わらないと思いますが、作る、耕す、育てることに
直接触れてみると、生きる歓びというのがそこに詰まっている
ことに気づきます。
便利すぎると通り過ぎてしまって「恵み」に出会う間もない。
高度経済成長と家電革命、車社会は労働の辛さから人を解放して
くれました。けれど、今また作ったり育てたりする喜びを発見し、
求める人が特に都会では増えています。
お年寄りは庭仕事や畑仕事をすると元気になると言います。
放射能のせいで故郷を追われ仮設住宅や避難先に今も住まざるを
えない人々はなによりも美しく豊かだった土を懐かしんでいます。
失ったものへの愛着と取り戻せないという嘆きは深いものです。
けれども立ち止まってばかりではなく、工夫と人々の助け合いで、
耕し育て食すという生きる原点に再び取り組もうとする試みも
あります。その姿に生きぬく知恵を教えられますが、一方で…
電力会社の原発再稼働申請のニュースには不快感が募ります。
再稼働より、生きる根源を奪ったことへの償いはどうするのか、
早く気づいてほしいのですが。
なんなんだか、ほんとうに見えない人には見えないのですね、
金、金、金と目先の金の話ととらぬたぬきの話するムジナばかり。
古今東西、悪は絶えずして、滅びてもまたどこからか出流るもの、
同じ数、いやそれ以上の数の善をもって防ぐしかないということ、
黄泉本紀を思い出しました。