想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

牛のデイジー

2013-10-24 20:21:38 | Weblog
牛つながりで今度はとても幸せな話。

「農場の裏手にある丘の、野菜畑を少し上がったところには
デイジーが住んでいたが、これはベージュ色のジャージー牛だ。
デイジーは少女にいくつかの特典を与えてくれた。たとえば
食べものを噛みくだきながら、デイジーがゆっくりと午どきの
休息をとるあいだ、自分の暖かい横腹に少女がもたれるのを
許してやった。ときには傍らにいる小さな人間をふり向いて、
濡れた茶褐色の目でじっと見つめることもあったが、けっして
驚いた様子は見せない。お礼にメイベルは、デイジーに群がる
ハエを長いあいだ青い小枝で追い払ってやったし、デイジーの
水飲み桶をみたすためにバケツで水運びをするという、ひどく
骨の折れる仕事にも、何時間もついやすのだった。
………

ところが悲しいことに、こんなに骨を折ったというのにデイジー
はすぐに水を飲みにはやってこようとはせず、自分の気の向く
までは動こうともしない。それでも牛は、ときには情をみせた。
あるときはメイベルの行くところへはどこまでもついて歩き、
とうとう狭い通り路の茂みのあいだに挟まれて動けなくなった。
しかしゆうゆうとして胃のなかの食べものを反芻しながら、
何年かかろうと後戻りなどするものかと立ちつくしていた。
少女と牛は両極端だったが、たがいを尊敬していた。」
メイ・サートン「私は不死鳥を見た」p27から。

メイの母親メイベルは英国人であった。両親が仕事でカナダへ
行くためにウェールズにある農場に預けられた時の思い出を、
メイベル自身の手記をみつけたメイが、子どもの頃に母から
聞いた話とすりあわせながら綴っている「追憶の緑野」の章。
デイジーと過ごすメイベルのなかに何が起こっていたのか、
至福の時を描いたこの文章がとても好きだ。
子どもでなくても、動物と対等にふれあうことでどんなにか
柔らかな平和な気持ちで満たされることか、よくわかる。
人間から受けるのとは違う、手つかずの生の喜びというような
まじりっけのない幸福感だ。

家畜という言葉がどうも間違っているのではないかと思う時が
ある。その印象の悪さは、実際の牛飼いや養豚家、養鶏家の
暮らしをずいぶん貶めている気がしてならない。
牛を可愛がる牛飼いや豚の子を抱いてみせてくれた養豚場の
おじさんも知っているから。
ただ金のためだけに働くのなら人間も畜生であるけれども
生きものを育てることの難しさも、喜びも、また愛情も同時に
あって、ただともに生きて役割を果たしあっているというのが
本当の姿だった。きれいごとではなく本当にそうだったのだ。




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LoveMEATender Trailer (English Overdub)

2013-10-24 16:50:49 | Weblog
LoveMEATender Trailer (English Overdub)



牛さんは消化のために反芻する。新鮮な牧草や栄養がいっぱい
つまった干草のご飯をあたえられる牛はこのごろめっきり減って
もっぱら大豆が主食らしい。大豆は消化がよくないらしく反芻
の回数も増えて、牛さんのゲップは高らかにCO2を放出する。
ということで、環境汚染しているのは牛肉、いや牛だと…
批難の声もあるというが、牛だって広い牧草地の上で暮らして
いたらもっと消化もいいし健康なんだ…

アマゾンの原生林をバッサバッサと切り倒し、次々に広大な
飼料大豆やトウモロコシ畑になっていく。機械化された農業は
農作物ではなく工業製品を作るのと同じになってしまった。
食べ物ではなく製品、物である。
それを食べさせられ、精肉という製品になり、空を飛び海を超え
トラックで輸送されて近所のスーパーマーケットでお肉のパック
として並んでいる。

ふつうのあたりまえに、手をかけて育ててもらった牛や豚や鶏
たちのことをある子どもは「幸せなお肉」と言ったという。
幸せなお肉という言い方はいいなあ。
わたしたちは納豆や豆腐からタンパク質を摂る伝統的な食事を
してきた歳月のほうがずっと長く、牛肉を食べるようになった
のは明治時代からだからまだほんの百年ちょっとだ。
けれども日本人の食卓から魚料理が激減し、肉中心になった。

最も安い飼料として牛に肉骨粉を与え、狂牛病を引き起こし、
それに懲りない面々がもっともっとと大量生産する牛肉を
「やわかいねー」「じゅうしぃー」と舌なめずりしてみせる
グルメ番組のせいもあって、とにかく食べたがる傾向にある。

ドーピングされた肉のかたまりはもはや家畜のしあわせな肉
とはほど遠く、それを食べるのがはたして食事なのかどうか…
この話から見えてくるのは食肉産業のことに限らず、
どのように生きるのか、何が幸せなのかを問いかけである。

命をもらって生きる人間、人間だけでなく動物たちは犠牲の
上に自らの命を長らえる。そのめぐりめぐるしくみを人間が
手を加えいびつに歪め、破壊していくことを知れば、今晩から
「何食べよっかな~」がちょっと変わるのではなかろうか。

もう一つ心に思う浮かぶのは…
レジスタンス「希望の牧場」だ。
吉沢さんたちの責任の取り方、放射能の中に牛を放置し見殺しに
せず、飼育し続けている姿があることがとても誇らしい。
うちには犬のおやつマシンがあったけれど、希望の牧場には
おやつ台! しあわせな牛たちだね。
http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/blog/fund.html
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