ふるごとは、古事あるいは古語とも書かれている。
古事記も旧事本紀もふるごとのふみである。
古代の記録、歴史という括りでは収まらず広く深い。
その中でもっとも重要なことは、言葉、詞の成立と意味
である。
現代語はもやは外国人の言葉のように変わりはてたと
いえるけれども、すべて消え失せたわけではない。
言葉をつきつめると、心である。
古代の人が大切にした、しかしあたりまえでもあった事が
言葉には顕れている。
それは万葉集のより古い時代のものに見ることができ、
古事記や旧事紀の中にも見出すことができる。
ただし、現代語に訳すると、その心は読み取れない。
そのまま、古語のままに詠むことがとても大切だ。
意味がわからないから訳するという「変換」は禁物である。
現代語訳は便利なようで、その実、安物買いの銭失いに
なりかねない、感じ取ることはかえって難しくなる。
猫と話すには猫になり、犬と生きるには犬になってみる、
古代人の声を聴くには同じ言の葉を諳んじてみることが
どんなに大事か、いまさらながらに思う。
「あわれ」を今風の憐れむ、同情という意味に解釈して
はばからない文学者が時々いる。
京大の学者は、「もののあわれ」は本居宣長の発明かの
ように持ち上げすぎている、同じ言葉はもっと古い文献
にも同時代の江戸の黄表紙にも出てきて、男女が情を通じて、
はばかることなきをよきことのように宣長が言っているのは
どうかと思うが、そのようなものである」
と冷静を装いつつ暗にこき下ろしていた。
びっくりすると同時に、非常に気持ちが悪かった。
上の学者が校註した「本居宣長集(但し二作品のみ)」は
小林秀雄「本居宣長」とほぼ同時期に出版されているが、
内容は天地の開きであった。
「あわれ」の意味を理解できない大学教授に教わる学生が
また教職につき、間違ったことを講義したり書いたり…
しないことを祈るばかりだが、安易に信じてしまうと
「もののあわれ」はまったく別物になりはててしまう。
宣長翁が古語から発見し、古の人の風情を伝え、これは
わが国古来のもともとのこころばえであると歓喜した事
など、ほとんど誰も知らない。
宣長翁、折口信夫、小林秀雄の共通点は「謙虚」さにある。
謙虚の意味もまた誤解され、軽くなった。
言い換えると、「義」の人といえる。
いちいち漢字で表すとかえって遠ざかる気がしないでもなく
こころもとないが、清い人たちである。
現代人にとって、そのことはあまり価値のないことに
なってしまったが。
同期、同調するには、邪魔なものを捨てなければならない。
邪魔なものは「私」であると、いずれの古事のふみにも
あり、歌に、物語に、史があきらかに伝えている。
古語、事を伝え残してくれた先人たちに心から感謝する
日々である。
追記:
政治をまつりごとというが、その古語は実際にはまったく
合わない。
まつりごととは命を第一に尊重するのが理であるが、
その逆しかおこなっていない現実である。
この一点だけをとってみても、古語に学び、修正すること
ができるのではないだろうか。
福島県知事選は終わったけれども、当選したからといって
勝ち誇ってもらっては困る。
政治家の仕事は、セールスマンではなく命を守ることである。
トップセールスで経済活性化、風評被害をなくすというと
聞こえがいい?
経世済民ではなく短縮されて意味も消えたのだから経済は
金儲けの商売のことに過ぎない、命とはほぼ真逆になった。
命を尊び、始めて暮らしが成り立つ。
そのことを要求し続けたいと思う。
だいそれたことではなく、あたりまえのこととして。
古事記も旧事本紀もふるごとのふみである。
古代の記録、歴史という括りでは収まらず広く深い。
その中でもっとも重要なことは、言葉、詞の成立と意味
である。
現代語はもやは外国人の言葉のように変わりはてたと
いえるけれども、すべて消え失せたわけではない。
言葉をつきつめると、心である。
古代の人が大切にした、しかしあたりまえでもあった事が
言葉には顕れている。
それは万葉集のより古い時代のものに見ることができ、
古事記や旧事紀の中にも見出すことができる。
ただし、現代語に訳すると、その心は読み取れない。
そのまま、古語のままに詠むことがとても大切だ。
意味がわからないから訳するという「変換」は禁物である。
現代語訳は便利なようで、その実、安物買いの銭失いに
なりかねない、感じ取ることはかえって難しくなる。
猫と話すには猫になり、犬と生きるには犬になってみる、
古代人の声を聴くには同じ言の葉を諳んじてみることが
どんなに大事か、いまさらながらに思う。
「あわれ」を今風の憐れむ、同情という意味に解釈して
はばからない文学者が時々いる。
京大の学者は、「もののあわれ」は本居宣長の発明かの
ように持ち上げすぎている、同じ言葉はもっと古い文献
にも同時代の江戸の黄表紙にも出てきて、男女が情を通じて、
はばかることなきをよきことのように宣長が言っているのは
どうかと思うが、そのようなものである」
と冷静を装いつつ暗にこき下ろしていた。
びっくりすると同時に、非常に気持ちが悪かった。
上の学者が校註した「本居宣長集(但し二作品のみ)」は
小林秀雄「本居宣長」とほぼ同時期に出版されているが、
内容は天地の開きであった。
「あわれ」の意味を理解できない大学教授に教わる学生が
また教職につき、間違ったことを講義したり書いたり…
しないことを祈るばかりだが、安易に信じてしまうと
「もののあわれ」はまったく別物になりはててしまう。
宣長翁が古語から発見し、古の人の風情を伝え、これは
わが国古来のもともとのこころばえであると歓喜した事
など、ほとんど誰も知らない。
宣長翁、折口信夫、小林秀雄の共通点は「謙虚」さにある。
謙虚の意味もまた誤解され、軽くなった。
言い換えると、「義」の人といえる。
いちいち漢字で表すとかえって遠ざかる気がしないでもなく
こころもとないが、清い人たちである。
現代人にとって、そのことはあまり価値のないことに
なってしまったが。
同期、同調するには、邪魔なものを捨てなければならない。
邪魔なものは「私」であると、いずれの古事のふみにも
あり、歌に、物語に、史があきらかに伝えている。
古語、事を伝え残してくれた先人たちに心から感謝する
日々である。
追記:
政治をまつりごとというが、その古語は実際にはまったく
合わない。
まつりごととは命を第一に尊重するのが理であるが、
その逆しかおこなっていない現実である。
この一点だけをとってみても、古語に学び、修正すること
ができるのではないだろうか。
福島県知事選は終わったけれども、当選したからといって
勝ち誇ってもらっては困る。
政治家の仕事は、セールスマンではなく命を守ることである。
トップセールスで経済活性化、風評被害をなくすというと
聞こえがいい?
経世済民ではなく短縮されて意味も消えたのだから経済は
金儲けの商売のことに過ぎない、命とはほぼ真逆になった。
命を尊び、始めて暮らしが成り立つ。
そのことを要求し続けたいと思う。
だいそれたことではなく、あたりまえのこととして。