呼んでないのにこっち向く。
呼んでる時には毛づくろい。
勝手きままな猫道だけど、耳目はあーたよりマシなのよ
縁側や庭でくつろぐ猫たちに、言われた気がする今日この頃。
良寛禅師は、さま付けで呼びたい。何故か。
子どもの頃から手まり歌の良寛さまとして教えられ
やさしい、偉いお坊さんと刷り込まれているからである。
多くの人がその御名に覚えがあるだろうけれど、
良寛さまが何を為した人なのか、どういう生涯であったかに
ついて多くを知っている人は少ないのではないだろうか。
うらをみせおもてをみせて散るもみじ
良寛さまにつき従った貞心尼が編み遺した「蓮の露」に
良寛さま辞世として記された…詠みひと知らずの歌だ。
二十数年前、カメの教えを乞うために門を叩いた、その初めの頃の
講義で板書されていたことを思い出す。
執着を離れた心を説いていただいた。
良寛の象徴のように覚えている。
寺院という組織に拘泥せず、また束縛もされず自由に生きた
といえば聞こえがいいかもしれないが、実際にそれを行うとは
どういうことか。
生半可な信仰では私心を捨てきることはできない。
捨てれば軽やかに自由になる。
それを頭で知っても身体で拒む人間の根底にある本能と、
永遠の魂を天秤にかけ、己を凝視しつづける。
そうやって覚った者にしかできないことである。
想像すると今の自分の小ささ、未熟さを恥入りたくなる。
まあ、聖人と呼ばれた人生と自分を比較するのはおかしいと
嗤われるだろうけれど、先人に学ぶという意味で言っているので
お許し願いたい。塵みたいな私…ではなく塵なんである。
テレビで「ぶっちゃけ○○」なんたらで、坊さんたちが寺のしくみ
の裏側を暴露して稼いでいるが、あれは仏教徒でもなんでもない
袈裟をつけたリーマンだということだ。自営業者でもない。
なぜなら寺は宗派で組織されてこそ、寺院と名乗れるからだ。
組織に上納金をあげなけばならない。サラリーマンでなければ
フランチャイズの店長ということだ。
仏教ではなく葬祭請け負い業の一端である。葬儀社は別にあって
式の段取りを皆してくれるからお経をあげるだけだから一端だ。
こういう坊主だけではないということもわかっているが、
いったいどこに行けばそうではない僧侶はいるのか?
そのことが良寛さまを思えばよくわかる。
仏道を行く僧侶は、袈裟もつけず、乞食同然の姿で世にまぎれ
さしづめ半俗半僧であるだろうから、寺にはいないのである。
寺にいて修行はできない、仏には会えないと覚るだろうから。
出家とは世俗を離れることだが、今のテレビは世俗も世俗、
俗の悪臭を集めたような箱だ。
世俗の中にいて、わが胸中に宝塔ありという生き方をする
それがとても難しい。
その難しいことをしている僧侶の汚れなき姿が人々の崇敬を
集めたのだから、仏教を宣伝すればするほどに大衆の心は
離れるはずなのだが…、今の人はこの道理さえも通じない。
日本仏教は傑出した聖人を出してもきたが、それは後世に
見いだされただけで、生きていた当時には世の中からは
見捨てられた人生だったという皮肉。これを悲しむべきこと
とも思わない。なぜならば、当事者とその直近の者たちだけ
は真を分かち合っていただろうことが推測できるからである。
さきに上げた貞心尼のように良寛さまの心を受け継ぎ伝えた
人がいたことに、本当に慰められる。
仏教の頽廃は、お釈迦さまに責任はない。承知のことかと
思うなり。