想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

良寛さま

2015-05-15 10:39:13 | Weblog

呼んでないのにこっち向く。
呼んでる時には毛づくろい。
勝手きままな猫道だけど、耳目はあーたよりマシなのよ
縁側や庭でくつろぐ猫たちに、言われた気がする今日この頃。

良寛禅師は、さま付けで呼びたい。何故か。
子どもの頃から手まり歌の良寛さまとして教えられ
やさしい、偉いお坊さんと刷り込まれているからである。
多くの人がその御名に覚えがあるだろうけれど、
良寛さまが何を為した人なのか、どういう生涯であったかに
ついて多くを知っている人は少ないのではないだろうか。

うらをみせおもてをみせて散るもみじ
良寛さまにつき従った貞心尼が編み遺した「蓮の露」に
良寛さま辞世として記された…詠みひと知らずの歌だ。
二十数年前、カメの教えを乞うために門を叩いた、その初めの頃の
講義で板書されていたことを思い出す。
執着を離れた心を説いていただいた。
良寛の象徴のように覚えている。

寺院という組織に拘泥せず、また束縛もされず自由に生きた
といえば聞こえがいいかもしれないが、実際にそれを行うとは
どういうことか。
生半可な信仰では私心を捨てきることはできない。
捨てれば軽やかに自由になる。
それを頭で知っても身体で拒む人間の根底にある本能と、
永遠の魂を天秤にかけ、己を凝視しつづける。
そうやって覚った者にしかできないことである。

想像すると今の自分の小ささ、未熟さを恥入りたくなる。
まあ、聖人と呼ばれた人生と自分を比較するのはおかしいと
嗤われるだろうけれど、先人に学ぶという意味で言っているので
お許し願いたい。塵みたいな私…ではなく塵なんである。

テレビで「ぶっちゃけ○○」なんたらで、坊さんたちが寺のしくみ
の裏側を暴露して稼いでいるが、あれは仏教徒でもなんでもない
袈裟をつけたリーマンだということだ。自営業者でもない。
なぜなら寺は宗派で組織されてこそ、寺院と名乗れるからだ。
組織に上納金をあげなけばならない。サラリーマンでなければ
フランチャイズの店長ということだ。
仏教ではなく葬祭請け負い業の一端である。葬儀社は別にあって
式の段取りを皆してくれるからお経をあげるだけだから一端だ。
こういう坊主だけではないということもわかっているが、
いったいどこに行けばそうではない僧侶はいるのか?

そのことが良寛さまを思えばよくわかる。
仏道を行く僧侶は、袈裟もつけず、乞食同然の姿で世にまぎれ
さしづめ半俗半僧であるだろうから、寺にはいないのである。
寺にいて修行はできない、仏には会えないと覚るだろうから。

出家とは世俗を離れることだが、今のテレビは世俗も世俗、
俗の悪臭を集めたような箱だ。
世俗の中にいて、わが胸中に宝塔ありという生き方をする
それがとても難しい。
その難しいことをしている僧侶の汚れなき姿が人々の崇敬を
集めたのだから、仏教を宣伝すればするほどに大衆の心は
離れるはずなのだが…、今の人はこの道理さえも通じない。

日本仏教は傑出した聖人を出してもきたが、それは後世に
見いだされただけで、生きていた当時には世の中からは
見捨てられた人生だったという皮肉。これを悲しむべきこと
とも思わない。なぜならば、当事者とその直近の者たちだけ
は真を分かち合っていただろうことが推測できるからである。
さきに上げた貞心尼のように良寛さまの心を受け継ぎ伝えた
人がいたことに、本当に慰められる。

仏教の頽廃は、お釈迦さまに責任はない。承知のことかと
思うなり。


コメント
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