(三角西港、左手に天草五橋の
一号橋が見える場所)
姪っ子の運転で観光地へ行った。
帰郷の目的は別に色々とあったが、
珍しく身内が歓迎してくれ(笑)
断りきれずにでかけた。
熊本文学館へ行きたいと言うと
それよりもっといいところ、
室内より遠出でしょといわれ
随ったのだが…。
で、世界文化遺産登録となって
張り切っているらしいココへ。
「明治日本の産業革命遺産
製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業」
として登録され、石積みの港は
埠頭、水路が遺っている。
明治の三大築港の一つ。
朝から空は快晴、それもいいね
とは言ったものの彼女は片手運転、
スピード出すんである。
助手席でヒヤヒヤした。
三角へ向かう途中、宇土を通る。
宇土は地震被害が大きく道路が
波打ったままの箇所や、壊れた
家屋、ブルーシートで覆われた
屋根が点在していた。
続けて二度の大地震に襲われた
熊本は、人々がようやく余震に
慣れ、生活を取り戻すために
どうにかこうにか立ち上がった
ばかりという印象であった。
まだ当時を思うと涙ぐんで
しまい言葉に詰まる人もいた。
短時間、街中を車で走っただけ
だが、そういう思いで見るから
という以上の沈滞した憂いの
気配を感じもし、記憶にあった
カラリとした威勢のいい雰囲気
を失ったように思えるのだった。
この地震によって忘れていた
〈隣人との絆〉を思い出し
それぞれの共同体で助け合う
ことの大事さを気づけたのが
よかったという話を耳にした。
渡辺京二さんが熊日新聞に
そのようなことを寄稿され、
また実際そういう話は多いとか。
それは東北震災ではなかった話で
ある。当然助け合いはあったが、
それを台無しにすることの方が
上回っていた。
東北大震災は地震津波に原発事故
が加わった三重苦の震災であった。
特に放射能汚染が被害の深刻さ
を増し、風評被害、自主避難、
帰還困難区域などの表現は、
同じ被害を受けたはずの人々を
分断していった。
曲線でつながる古い土地を行政は
机上の計算で線引きした。
あっちは高汚染で強制避難で
道路の真ん中からこっちは自主
判断でどうぞ。
先祖の代から続いた近隣の
人付きあいを地図上の線が
引き裂くこととなった。
不公平、不手際、おおざっぱ。
そこに人が人を思う心は見えず、
助け合いをしたくともできない
切迫した状況に人々は追いやられ
やがて黙った。
元々、思いを率直に話す土地柄
ではないところに周囲を慮って
口をつぐむ。
不信感を押しのけ手を繋ごうと
外から働きかけてくれる人々が
いなかったら地元住民だけでは
難しい状況だった。
公共広告で盛んに使われた絆は
官製の形式にすぎない。
福島で気づかされたのは行政
つまり公務は誰のためにあるのか
ということ、その根本がすでに
腐りきっているということだった。
被害の大きかった熊本城の修復
を望む声が大きいと聞いて
それよりも優先すべきことが
あるのではないか?
東京そして福島にいるとそう
思うのだった。
けれども電車通りから見えた
向こう側に波打ち傾いた、漆喰の塀
を目にしたとたんに、嗚呼これは…
と気づいた。
熊本市は城下町である。
城が人の胸の中に根を下ろし
生活の一部になっている。
あってあたりまえの故郷の景色。
歴史的遺産という建造物の物の
価値を超えている。まあそれを
文化と呼ぶのだが、目で見て
実感し、腑に落ちたのだった。
一方、福島ではあまりに多くの
ものを失い、地面そのもの、海
そのものという取り返しのつかない
ものを失った。いまだに解決する
術無く、巨額の費用が垂れ流され
ている現状だ。実は修復できる
ものが少ない。
除染のためといい掘り返した土を
フレコンバックに詰めて数万㎡の
土地に仮置きしているのもそうだ。
解決ではなく先送りしているだけで
それに次々に公費をつぎ込み、失敗
し続けている。
その責任は誰も取らないまま次へ
次へと予算は膨らむばかりだ。
帰る家、土地を失った人への補償は
あいまいにして、汚染地域へ帰還
せよと迫っている。
補償打ち切りも決まった。
福島の現実が熊本で繰り返され
ないようにと思うのだった。
熊本あそ空港は被害甚大だった
西原村のそばである。
帰路へつく前、空港への途中に
西原村へ続く道を走ってもらった。
しばらく行くと新しい仮設住宅が
ぎっしりと並んでいた。
ああ、ここも大変だと胸が詰まった。
ドア部分を木製で作ってあった。
大自然に囲まれた暮らしから一転、
狭い住居、庭のない場所でこの冬を
しのがなければならない。
心ばかりの工夫なのだろうか。
二重ローンへ配慮した法整備が
なければ住宅再建も難しい。
生活弱者は、再起できなくなり
子どもの教育にも支障が出る。
何を見ても福島のようにならない
ことを願うばかりだった。
長い繰り言のようになったが、
福島で体験したことを踏まえず
に熊本を訪れることはできない。
福島は終わっていないのだから。
金子光晴の自伝「どくろ杯」
冒頭に関東大震災の描写がある。
大正12年(1923年)9月1日の
地震は東京、横浜を火の海にした。
燃えさかる火によって死んでいく
者、生き延びようとする者、
そして詩人として世に出ようと
していた矢先の災難である金子
自身の状況とが詳細に綴られて
いく。
そこに気になる言葉があった。
長くなるが引用する。
「ふりかえってみると、あの時
が峠で、日本の運勢が旺から墓
に移りはじめたらしく、眼には
みえないが人のこころに、
しめっぽい零落の風がそっと
しのび入り、地震があるまでの
日本と、地震があってからあとの
日本とが、空気の味までまったく
ちがったものになってしまった
ことを、誰もが感じ、暗黙に
うなずきあうようであった。
乗っている大地が信じられなく
なったために、その不信がその
他諸事万端にまで及んだ、と
いうよりも、地震が警告して、
身の廻りの前々からの崩れが
重なって大きな虚落になって
いるということに気づかせら
れたといったところである。」
(金子光晴「どくろ杯」)
この後、日本全体が軍国主義
一辺倒へと向かっていく。
百年周期で歴史は繰り返すと
いうが、やがて百年がくる。
一号橋が見える場所)
姪っ子の運転で観光地へ行った。
帰郷の目的は別に色々とあったが、
珍しく身内が歓迎してくれ(笑)
断りきれずにでかけた。
熊本文学館へ行きたいと言うと
それよりもっといいところ、
室内より遠出でしょといわれ
随ったのだが…。
で、世界文化遺産登録となって
張り切っているらしいココへ。
「明治日本の産業革命遺産
製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業」
として登録され、石積みの港は
埠頭、水路が遺っている。
明治の三大築港の一つ。
朝から空は快晴、それもいいね
とは言ったものの彼女は片手運転、
スピード出すんである。
助手席でヒヤヒヤした。
三角へ向かう途中、宇土を通る。
宇土は地震被害が大きく道路が
波打ったままの箇所や、壊れた
家屋、ブルーシートで覆われた
屋根が点在していた。
続けて二度の大地震に襲われた
熊本は、人々がようやく余震に
慣れ、生活を取り戻すために
どうにかこうにか立ち上がった
ばかりという印象であった。
まだ当時を思うと涙ぐんで
しまい言葉に詰まる人もいた。
短時間、街中を車で走っただけ
だが、そういう思いで見るから
という以上の沈滞した憂いの
気配を感じもし、記憶にあった
カラリとした威勢のいい雰囲気
を失ったように思えるのだった。
この地震によって忘れていた
〈隣人との絆〉を思い出し
それぞれの共同体で助け合う
ことの大事さを気づけたのが
よかったという話を耳にした。
渡辺京二さんが熊日新聞に
そのようなことを寄稿され、
また実際そういう話は多いとか。
それは東北震災ではなかった話で
ある。当然助け合いはあったが、
それを台無しにすることの方が
上回っていた。
東北大震災は地震津波に原発事故
が加わった三重苦の震災であった。
特に放射能汚染が被害の深刻さ
を増し、風評被害、自主避難、
帰還困難区域などの表現は、
同じ被害を受けたはずの人々を
分断していった。
曲線でつながる古い土地を行政は
机上の計算で線引きした。
あっちは高汚染で強制避難で
道路の真ん中からこっちは自主
判断でどうぞ。
先祖の代から続いた近隣の
人付きあいを地図上の線が
引き裂くこととなった。
不公平、不手際、おおざっぱ。
そこに人が人を思う心は見えず、
助け合いをしたくともできない
切迫した状況に人々は追いやられ
やがて黙った。
元々、思いを率直に話す土地柄
ではないところに周囲を慮って
口をつぐむ。
不信感を押しのけ手を繋ごうと
外から働きかけてくれる人々が
いなかったら地元住民だけでは
難しい状況だった。
公共広告で盛んに使われた絆は
官製の形式にすぎない。
福島で気づかされたのは行政
つまり公務は誰のためにあるのか
ということ、その根本がすでに
腐りきっているということだった。
被害の大きかった熊本城の修復
を望む声が大きいと聞いて
それよりも優先すべきことが
あるのではないか?
東京そして福島にいるとそう
思うのだった。
けれども電車通りから見えた
向こう側に波打ち傾いた、漆喰の塀
を目にしたとたんに、嗚呼これは…
と気づいた。
熊本市は城下町である。
城が人の胸の中に根を下ろし
生活の一部になっている。
あってあたりまえの故郷の景色。
歴史的遺産という建造物の物の
価値を超えている。まあそれを
文化と呼ぶのだが、目で見て
実感し、腑に落ちたのだった。
一方、福島ではあまりに多くの
ものを失い、地面そのもの、海
そのものという取り返しのつかない
ものを失った。いまだに解決する
術無く、巨額の費用が垂れ流され
ている現状だ。実は修復できる
ものが少ない。
除染のためといい掘り返した土を
フレコンバックに詰めて数万㎡の
土地に仮置きしているのもそうだ。
解決ではなく先送りしているだけで
それに次々に公費をつぎ込み、失敗
し続けている。
その責任は誰も取らないまま次へ
次へと予算は膨らむばかりだ。
帰る家、土地を失った人への補償は
あいまいにして、汚染地域へ帰還
せよと迫っている。
補償打ち切りも決まった。
福島の現実が熊本で繰り返され
ないようにと思うのだった。
熊本あそ空港は被害甚大だった
西原村のそばである。
帰路へつく前、空港への途中に
西原村へ続く道を走ってもらった。
しばらく行くと新しい仮設住宅が
ぎっしりと並んでいた。
ああ、ここも大変だと胸が詰まった。
ドア部分を木製で作ってあった。
大自然に囲まれた暮らしから一転、
狭い住居、庭のない場所でこの冬を
しのがなければならない。
心ばかりの工夫なのだろうか。
二重ローンへ配慮した法整備が
なければ住宅再建も難しい。
生活弱者は、再起できなくなり
子どもの教育にも支障が出る。
何を見ても福島のようにならない
ことを願うばかりだった。
長い繰り言のようになったが、
福島で体験したことを踏まえず
に熊本を訪れることはできない。
福島は終わっていないのだから。
金子光晴の自伝「どくろ杯」
冒頭に関東大震災の描写がある。
大正12年(1923年)9月1日の
地震は東京、横浜を火の海にした。
燃えさかる火によって死んでいく
者、生き延びようとする者、
そして詩人として世に出ようと
していた矢先の災難である金子
自身の状況とが詳細に綴られて
いく。
そこに気になる言葉があった。
長くなるが引用する。
「ふりかえってみると、あの時
が峠で、日本の運勢が旺から墓
に移りはじめたらしく、眼には
みえないが人のこころに、
しめっぽい零落の風がそっと
しのび入り、地震があるまでの
日本と、地震があってからあとの
日本とが、空気の味までまったく
ちがったものになってしまった
ことを、誰もが感じ、暗黙に
うなずきあうようであった。
乗っている大地が信じられなく
なったために、その不信がその
他諸事万端にまで及んだ、と
いうよりも、地震が警告して、
身の廻りの前々からの崩れが
重なって大きな虚落になって
いるということに気づかせら
れたといったところである。」
(金子光晴「どくろ杯」)
この後、日本全体が軍国主義
一辺倒へと向かっていく。
百年周期で歴史は繰り返すと
いうが、やがて百年がくる。