三日前から蕾がほころびはじめ
午前中にすこし開きかけていたのが
午後は、陽ざしを浴びて花びらが
すっかり開いた。
あたりぜんたいが明るく輝いている。
放たれた桜の光に照らされて
なにもかもがやさしく映る。
樹を数えるのは、桜にかぎって無粋な
ような気がする。
数えたいが数えない。
森庭にある桜のだいたいの数は記憶に
あるが、自慢になるから書かない。
(と、自慢している、誰に?)
なんという幸せ。自分に言い聞かせて
いるのである、おまえは幸せだよと。
ほんとうは母さんに見せてあげたい。
この季節、森は桜色でぼんやりと明るい。
まだ若葉もうすみどりの新芽だから
あわあわとしている。
どうしたものか、気持ちが華やぐ。
ろくなことはない日々なのだが、
桜の樹から伸びた枝の、ほんのりと
した薄もも色を下から見上げていると
薄いベールに包まれているようで
守られているここち、なんだか、うれしい。
歩いていたら、小さな花。
どのくらい小さいか、花びらを置いた。
ぽつ、ぽつ、とある。
名前は知らないけど、名乗らないのが
ここのいいところ。
小さなせせらぎのそばに、りんどうもどき
が増えていた。名前を知らない、あるいは
忘れた。だけど、大事にしている。
ずいぶん増えたなあ。
若い頃から読んでいるメイ・サートンは
「独り居の日記」に始まり「82歳の日記」で
サートンが亡くなる前の年まで書かれた。
その日記をまた読んでいる。
節目節目にこの本を取り出すのは、
迷いのなかから自分を取り戻すための
ようだ。
今日は山暮らしをやめて海辺へ移った
2年間を書いた「海辺の日記」を取り出した。
そこに書かれていたこと。
死はあまりにも美しい…
サートンはテレビである女医が話すのを
聞いて、ラザロの像をみたときのことを
思い出す。(ラザロはイエスの奇跡によって
死から蘇った)帰ってこなくてはならない
とはなんとおぞましいことだろう、と
サートンは想像したのだ。
女医は死線を越えて戻ってきた人から
聞いた話として「死の世界は美しい」と
話したのだった。
私もしばしば目を瞑って、夢想する。
そのときまぶたの裏側にあるのは
白く明るい光であり、調べだ。
しばし、安らいで戻ってくる。
戻りたくはないと言うわけにはまだ
いかないからだが、ときどきあっち側
へ行きたくなる。
目を瞑り、行ったつもりになり、つかの間
煩わしさから逃げるのだ。
身体が軽くなり、輪郭が周囲に融けて
しまったようになったら、戻ってくる。
サートンが信じているのは、蘇りではなく
死の先にある美しき旅路のことだ。
死んでしまったら何もかも消えてなくなり
肉体活動の終わりが存在の終わりだと
いう考えは、芸術家サートンを苦悩させる。
たとえ自分の生命は終わっても、作品は
長く読まれるかもしれないという希望が
詩人の創作意欲と理性をかろうじて
支えているからだ。
サートンは死が虚無ではなく新しい旅の
始まりだと語る女医の話に「血管を流れる
酒のように確かなさわやかさを肌に感じた」
と書いている。
覚醒の感覚を得たサートンは同時に
それまで自分がひどい気鬱だったことを
自覚したのだ。
目を瞑りあちらがわへ行きたがるからと
いって、今起きていることから目をそむけ
たがっているのではない。私は、生きる力
をすこし分けてもらいたくて目を瞑る。
あちらがわにある、澄んだ明るい気で
己を充満させて、こちらがわの闇の中で
闘える力にするためだ。
友人の知人がコロナ感染症で亡くなった。
突然のことだから友人はショックを受けていた。
死を身近に感じると、自身のことが不安になって
当然だろうと思った。
今できることは何だろうか、何もかも
止んでいる日々に、不安以外に考える
ことは何か。そんなことを話していた。
死の訪れかたは様々だけれど、
死の先にあるものはそう多くない。
実は、二つしかない。二つにひとつ
明るいか、暗いほうへか。
明るいほうへ行ける練習をする時間、
生きている時に与えられたこの時間を
有効に使いたい。
どのような死に方をしても、行く先は
二つに一つだから。
感染症流行の前から変わりなく、
もう長いこと練習生だ。
死はひとつの区切り、新たな門である。
今できることは、魂を汚すものを
遠ざけることかな。
自らの生き方が問われる時間。
午前中にすこし開きかけていたのが
午後は、陽ざしを浴びて花びらが
すっかり開いた。
あたりぜんたいが明るく輝いている。
放たれた桜の光に照らされて
なにもかもがやさしく映る。
樹を数えるのは、桜にかぎって無粋な
ような気がする。
数えたいが数えない。
森庭にある桜のだいたいの数は記憶に
あるが、自慢になるから書かない。
(と、自慢している、誰に?)
なんという幸せ。自分に言い聞かせて
いるのである、おまえは幸せだよと。
ほんとうは母さんに見せてあげたい。
この季節、森は桜色でぼんやりと明るい。
まだ若葉もうすみどりの新芽だから
あわあわとしている。
どうしたものか、気持ちが華やぐ。
ろくなことはない日々なのだが、
桜の樹から伸びた枝の、ほんのりと
した薄もも色を下から見上げていると
薄いベールに包まれているようで
守られているここち、なんだか、うれしい。
歩いていたら、小さな花。
どのくらい小さいか、花びらを置いた。
ぽつ、ぽつ、とある。
名前は知らないけど、名乗らないのが
ここのいいところ。
小さなせせらぎのそばに、りんどうもどき
が増えていた。名前を知らない、あるいは
忘れた。だけど、大事にしている。
ずいぶん増えたなあ。
若い頃から読んでいるメイ・サートンは
「独り居の日記」に始まり「82歳の日記」で
サートンが亡くなる前の年まで書かれた。
その日記をまた読んでいる。
節目節目にこの本を取り出すのは、
迷いのなかから自分を取り戻すための
ようだ。
今日は山暮らしをやめて海辺へ移った
2年間を書いた「海辺の日記」を取り出した。
そこに書かれていたこと。
死はあまりにも美しい…
サートンはテレビである女医が話すのを
聞いて、ラザロの像をみたときのことを
思い出す。(ラザロはイエスの奇跡によって
死から蘇った)帰ってこなくてはならない
とはなんとおぞましいことだろう、と
サートンは想像したのだ。
女医は死線を越えて戻ってきた人から
聞いた話として「死の世界は美しい」と
話したのだった。
私もしばしば目を瞑って、夢想する。
そのときまぶたの裏側にあるのは
白く明るい光であり、調べだ。
しばし、安らいで戻ってくる。
戻りたくはないと言うわけにはまだ
いかないからだが、ときどきあっち側
へ行きたくなる。
目を瞑り、行ったつもりになり、つかの間
煩わしさから逃げるのだ。
身体が軽くなり、輪郭が周囲に融けて
しまったようになったら、戻ってくる。
サートンが信じているのは、蘇りではなく
死の先にある美しき旅路のことだ。
死んでしまったら何もかも消えてなくなり
肉体活動の終わりが存在の終わりだと
いう考えは、芸術家サートンを苦悩させる。
たとえ自分の生命は終わっても、作品は
長く読まれるかもしれないという希望が
詩人の創作意欲と理性をかろうじて
支えているからだ。
サートンは死が虚無ではなく新しい旅の
始まりだと語る女医の話に「血管を流れる
酒のように確かなさわやかさを肌に感じた」
と書いている。
覚醒の感覚を得たサートンは同時に
それまで自分がひどい気鬱だったことを
自覚したのだ。
目を瞑りあちらがわへ行きたがるからと
いって、今起きていることから目をそむけ
たがっているのではない。私は、生きる力
をすこし分けてもらいたくて目を瞑る。
あちらがわにある、澄んだ明るい気で
己を充満させて、こちらがわの闇の中で
闘える力にするためだ。
友人の知人がコロナ感染症で亡くなった。
突然のことだから友人はショックを受けていた。
死を身近に感じると、自身のことが不安になって
当然だろうと思った。
今できることは何だろうか、何もかも
止んでいる日々に、不安以外に考える
ことは何か。そんなことを話していた。
死の訪れかたは様々だけれど、
死の先にあるものはそう多くない。
実は、二つしかない。二つにひとつ
明るいか、暗いほうへか。
明るいほうへ行ける練習をする時間、
生きている時に与えられたこの時間を
有効に使いたい。
どのような死に方をしても、行く先は
二つに一つだから。
感染症流行の前から変わりなく、
もう長いこと練習生だ。
死はひとつの区切り、新たな門である。
今できることは、魂を汚すものを
遠ざけることかな。
自らの生き方が問われる時間。