想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

予感っつうか、遠眼鏡いや千里眼っつうか‥

2011-10-02 09:28:13 | Weblog
秋が来たと言っても今年の秋は紅葉に染まる森の樹々をどんな気持ちで
眺めればいいのか。美しければ美しいほど悲しみが増すだろうからなあ
なんてこと思っちまうこのごろであるよ。
東京の人、代々木公園の森はだいじょうぶかな?
福島だけの問題ではないぞよ、スピーディーのデータを文科省は隠して
後出しばかりしてるんだから。

ところで、なにげなく2010年10月のブログカレンダーをクリック、
いやなにげなくではないな、見たかったからだ、美しい秋を。
色とりどりの衣をまとった景色が遠出もせずに眼前にあるのを眺めて、
熱い紅茶とクッキー持参で、丸太のベンチに腰掛けて過ごしてた、
例年であればやがてそういう時間があったわけで、もうじきだったわけで。

予期せず、災いはふいに、訪れて、まだ去ってはくれず、居座りのままだ。
今年雪解けの春三月からこのかた、丸太のベンチは誰も座らない。

去年10月のカレンダーをクリックすると月末から逆順に見れる。
ベイビーの甘えた顔にふふふと笑いながらスクロールしていき、24日の
タイトルが目に止まった。
まねびの喜びと記している。

小林秀雄の「本居宣長」を引用した文章を綴っている。ああ、これかと
思い出しながら、書いていたときの気分らしきものが少し蘇ってきた。
最初はフンフンと自分で書いたものを確認しながら読んでいたのだが‥。
しばらくして、驚いてしまった。

『引用と比喩から始まったまねびがいつか
直感で伝わりひらめくときがやってくるのだ。(中略)
それらが脳内で形をとって表れ次に比喩の言葉も引用も
浮かんでくるようになる。その興奮がたまらない。
おもしろいことは他にもないことはないが、わたしには
カメに学ぶ旧事の世界が世界の扉であり、渡る橋である。』

そう結んで行間を空けた後、それまでの文章と異質な展開になっている。
本居宣長や旧事本紀の解釈の世界とはちょっと結びつきようもない
「I(アイ)君という人がいた』という書き出しで始まる。
I君とは、エテカッテ大明神とわたしが渾名した人物のことで、その人物を
つらつらと思い出しながら綴っている内容である。この時に実際には伝聞で
しか知らないのであったが、知らなかったわりには、約一年後のこの夏に
発覚した事実とぴったり一致することを書いている。

昔エテカッテ大明神のもう一つの渾名は「知ったかブタ(仏陀のモジリ)」
であった。
その知ったかブタが今現在、日々ツィートしたりまき散らしているのは
私たちにはなじみ深い言葉で、それを見た者はまず驚く。驚愕といった方が
リアリティがあるくらい、驚く。
カメこと源宗先生の教えの言葉そのものだからだ。
旧事本紀からの引用と解釈、例えば仁智義礼信、五常五行、人の道、なんて
序の口で、人の生き方なるものをとうとうと調子に乗ってつぶやき。
もちろん出典も引用とわかる表現もしない、知ったかぶりそのものだ。
(ハンドルネーム削除しておきます)その男はプロフィールに顔写真も使って
いるので、確かにエテカッテ大明神と知れる。

気持ちワリーなーというのを抑えて我慢しながら読んだというのが大方の
感想である。皆そう言いながらチェックしているようで、知らせてくる。
それを聞いた時もまだ去年のブログに書いていたことを思い出せなかった。



去年すでにI君はカメの言葉をパクって商売に使っていたわけであるが、
話を聞いた時点では軽い伝聞なので、さもありなん、だけどまあヤツには
先生の教えは理解不能であったし、それが教祖なんちゃって真似てやって
詐欺で掴まらなきゃいいが、位しか思わなかったのだ。
まだ気持ち悪いツィッターやmixi(ニックネームは○○様)の記事を目に
していなかったのだ。
それでも、おそらくこういうことするんだろうなくらいのことで去年の記事に
以下のように書いたのであった。

『カメの講義録や書籍や機関紙の類を引用、いやパクッている姿
を想像するに難くない。エテカッテの彼がかつてレポートの束をわたしに
持ってきたことがあったが(何のためかわからんが)、その内容はすべて
カメの講義録のパクリであった。いやパクル自覚もないレベルである。
ただ真似て引き写して、それを反復することでわかったつもりになっていた。
その先をつきつめるんだよ、当時あきれて、何度そう言ったかしれないが、
そのうちいなくなったので束だけ残った。
本一冊分くらいのレポート用紙の束はコピーされたもので使用した紙は
勤務先のロゴ入りの用紙。勤務中に書いていたらしい。本末転倒、その後彼は
管理職だった勤め先を解雇されている。』

ここに出てくるレポートとは「井上レポート」と当時呼んでいて、
今もファイルが保管されている。なぜ処分しなかったか、不思議‥。
I君の肉筆は特徴的で、それが今わたしの手元にあることを知れば彼は驚愕
することだろう。なぜ捨てなかったのか今にしてみれば証拠品。



自称門下生という者がいて、I君はその中に混じっていた。カメに学びたいと
集まっていた人のうち十数人の男子どもがオレらはずっと先生についていきたいと
だから今日から門下生だと名乗りをあげたわけである。
ならばそれらしく学べというのがカメの返答だったかどうかは知らないが、
ちなみにわたしはその仲間ではない。

門下生は自らが決めたルールから脱落したり生き方や利害で衝突しながらも
ビミョウな絆で結ばれていることは見て取れる。
彼らにとってはその中心にある重みがとても強固で大きいということ。
このたびのI君のパクリ事件でそれを知ったのである。
門下生達は激しく憤って許さんと言った。それを見てわたしはアラほんとに
あなた方は門下生だったんだねと言ったしだいである。
有事に臨んでしか本音って見えないものだから失礼したが、それは逆に嬉しい
ことであった。

さてI君は「まねびの喜び」を知らないままに不始末で逃げたのだから今の様子は
さもありなんだが、内実は寂しいし、不安なのではないか。可哀想な気もする。
しかしながら向こうはわたしを心底憎んでいるだろう。
会えば太ったからだで心臓に悪いだろうなあ。
ボクシングでブヨブヨの贅肉を筋肉にしたと喜んで自分の写真をバラまき、
下品を超えてしまった姿はトドメなし。なおさらに哀れだが、心臓は鍛えられない。
ココロはもっと鍛えられない。
ココロはやわらかにするしかない。

縁もいろいろ、さて、極まり易わりいかに定まるか、これからだ。

10/6追記 さてさてと言ってたら、ツィッター上のパクリ言葉が消えたようなので
こちらでもハンドルネームを削除しました。
過去ログでの盗用については記録してあります。
追って調査しているので再開されたら再度名前を載せます。
悪質な場合には他の件も公表するしかないですね、ネット上もリアルも同じ。
していいことと許されないことはありますし、自由って言っても法律犯しては
いけないでしょう。バレなきゃいいって感じで隠れてやってる人には日当たりの
いい場所へお誘いいたします、まぶしいよ~、お日様は。
さて、いかに定まるか、注視担当の皆様、不愉快でさぞかしお疲れ様でしょう
けれども、しばし継続のほどよろしくお願いします。




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