若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

ホントに必要?今のフルセットな公教育

2019年05月25日 | 政治
twitterのTL上を賑わしていた公教育の必要性について、私なりに思ったところをつらつらと。

※ 公教育と一口に言ってもいろいろあるので、ここでは「公立の小学校・中学校を中心とした義務教育システム」を指して「公教育」と呼ぶことにします。

【画一的な「公教育」に切り捨てられる頭と尻尾】

「公教育」というのは無責任でいい加減なものです。県庁や役場が膨大な時間と予算と人員を突っ込んでいるのに、読み書きや簡単な計算すら漏れなく習得させることができていません。アルファベットすら書けず掛け算の九九を覚えていない中学3年生であっても卒業させてしまいます。

こうした生徒にとって、中学3年間、いや、小学6年間も合わせた9年間の授業時間はさぞや苦痛だったことでしょう。小学校の授業の7割以上、中学校の授業のほぼ全てにおいて、教員が何を言っているか分からないまま耐え忍ぶしか無かったのですから。

こうした生徒は中卒で就職先を探すか、地域で一番入学の簡単な高校に進学することが多い。すると、入った高校では、アルファベットの大文字と小文字を書き分けられ、筆算の掛け算ができる程度で
「お前、すげぇじゃん」
と秀才扱いされるという始末です。

他方で。

「公教育」で提供される教育内容のレベルが低く、学校の授業が終わった後でわざわざ塾や家庭教師で自分に合った内容を教えてもらう生徒がいます。こうした生徒からすれば、学校での授業の進みは遅く、内容も浅い。中には、中学2年の時点で中学3年までの内容を理解し終えて、高校の数学や物理・化学に取り組んでいる生徒もいる位です。

こうした生徒にとって、小中9年間の授業時間は退屈だったことでしょう。もっと知りたい・深く知りたいと思っている分野が他にあるのに、既に知っていることを浅く紹介する授業への出席を強いて時間を拘束するのは、まるで罰ゲームのよう。

このように、勉強のできる子とできない子を同じ教室に押し込めて、同じ内容の授業を提供しているのが「公教育」です。これほど非効率なことはありません。子供の多様性を無視し、飲み込みの遅い子供と出来る子供に同じ進度で授業を提供することで、頭と尻尾の生徒に苦役を強いています。

【「公教育」の主目的は管理】

この惨状は、「公教育」が学習機会の提供、子供の学力を向上させることが目的ではなく、管理することが目的だからまかり通る話です。

子供の学力向上が目的であれば、一定水準の学力を有しない生徒をそのまま卒業させることは許されないはずです。しかし、一定地域に住む子供を15歳までまとめて管理することが目的であるため、生徒が卒業時にどの程度までの学力を持っているかは重要ではなく、とりあえず9年間通うことで目的達成と判断され、晴れて卒業となります。

入学式、運動会、合唱コンクール、卒業式・・・これらは学力向上に寄与しませんし、ここに費やされる時間と人員の分だけ学習を受ける機会が減らされてしまいます。
式典や行事、その練習を繰り返し繰り返し実施することで、クラスのまとまり感、団結心が養成されます。これによって「公教育」の主目的たる15歳までの管理はしやすくなりますが、それだけのことです。

炎天下で運動会開会式の整列・散開練習をさせ、
「そこの二人、曲がってる!全員やり直し!」
と繰り返し走らせるのは、一体感養成と管理精度の向上を図る上では有効なのでしょう。そして、運動会当日に号令に従って整然と並ぶ生徒の列を見て、保護者は
「うわー凄い!」
と思うかもしれませんが、その凄さは全体主義的・北朝鮮的な凄さです。

こうした式典・行事及びその練習時間を廃止し、低所得で教育する意欲の低い家庭の子供に補修授業を提供し、そうでない並み以上の家庭の子供は早く帰宅させて時間的余裕を与えた方が良いと思うのですが、そうしないのは「公教育」の目的が管理だからです。

そして、こうした北朝鮮的な行事の無い所に通わせようとしても、歩きや自転車で通学できる距離にある小学校・中学校が1校しか無いということになると、事実上そこに通わせざるを得なくなります。田舎になればなるほど、選択の余地が無くなります。税金を支払うよう強制されて家計を圧迫され、北朝鮮的な行事を実施する義務教育に通うことを強いられるわけですよ。親や子供が教育内容を選択する自由は著しく制限されています。

【擁護するなら、せめて目的と手段を整理して】

「『親が子供を学校に行かせない、教育を受けさせない』とか『虐待している』とか、親に任せていてはどうにもならないケースもある。これはどうするのか。やはり『公教育』は必要なんだ。」

という意見もあります。

しかし、これは教育の機会を与えられていない子供をどうすべきかという議論であって、できる子供とそうでない子供とを一括りにして地域の子供ほぼ全員を同じ空間に押し込めて管理している現行の「公教育」を擁護する理由にはなりません。

不熱心な親の支配下にある子供に最低限の教育機会を提供するため、外部から家庭に介入することが必要な場合もあるでしょう。不熱心な親が自己の支配下にある子供に教育機会を提供しない場合の措置は考えても良いでしょう。だからといって、現行「公教育」の規模、枠組み、運営主体の在り方が肯定されるわけではありません。

子供に最低限の教育機会を提供することが目的なら、小中学校のように各科目の教員や設備をフルセットで揃えた大規模な施設は不要です。児童クラブ・学童保育のように、簡素な設備、そこまで専門性の高くないスタッフでも事足ります。全科目に対応可能である必要もなく、授業科目ごと、内容ごと、習熟度ごとに生徒が通う所を選ぶことができればよいでしょう。何なら、講義自体は大手学習塾で録画配信しているものを利用し、出来ないところだけを補習で対応する形でも良いはずです。運営主体が行政でなくとも可能です。

「公教育」という枠組みを外しても、教育は提供されます。現に「公教育」の枠外でも教育は提供されています。

現行の「公教育」の枠組みでは教育内容の選択の余地が少なく、出来る子供にとって退屈であり、飲み込みの遅い子供にとって苦痛になるだけでなく、怪我や病気で長期入院して遅れた子供のリカバリーが困難です。また、「公教育」の枠組みでは
「住んでいる地域の子供達=小学校・中学校・部活」
と人間関係が固定的であるため、一度いじめが発生すると逃げ場・居場所がなくなるという弊害も生じます。

私は、現行のフルセット「公教育」の枠組みを解体・分割し、運営主体も自治体でなく学習塾や進学予備校、家庭教師、通信教育、フリースクール、地元住民主催の寺子屋などなど多様な選択肢の中からその子供に合った中から選択できる形が良いと考えています。部活動も、学校単位の強制加入とする必要は皆無で、地域のクラブという位置づけの中から各自好きな所に所属すれば良いんじゃないないでしょうか。

「公教育」が必要だと擁護するのであれば、擁護側から「公教育」の目的を明示し「この目的のためにはこの範囲まで必要」という説明をしてほしい、そう思います。現行のフルセット「公教育」は、飲み込みの遅い子供にとっても出来る子供にとっても非効率な形態であり、いじめが起きる温床となっています。さらには、授業・生活指導・部活動・進路指導、政府の指示に基づく書類仕事の全てをしなければならない教員の過重労働の原因となっています。様々な弊害を無視して「公教育は必要なんだ」と言われても、全然説得力がありません。

いきなりゼロにしろ、とは言いません。出来るとも思っていません。
でも、フルセットで大きすぎる「公教育」を小さくしていった方が、関係するいろんな人にとって良いと思うんですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする