若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

合格ライン操作は 実在する!?(1次筆記試験3割得点でも合格できる行橋市職員採用試験)

2020年03月07日 | 地方議会・地方政治
海賊A「ワンピース、ひとつなぎの大秘宝なんておとぎ話だろ?」

海賊B「グランドラインを進んでいっても何もねぇよ。」

海賊C「まだあんな話に騙されてる海賊がいるのかっはっはっは」

いいえ、


「ワンピースは 実在する!!!」

カッコいいですよね、白ひげの名シーンです。

【令和元年度行橋市職員採用試験の怪】

さて、本題。

行政関係者なら誰もがきっと「そりゃいくらなんでもやりすぎだ」と思うであろう、不審な出来事が起きていました。


35:30頃から~
会議録はこちら↓
行橋市議会 令和元年12月 定例会(第16回) 12月09日-02号
======【引用ここから】======
◆16番(鳥井田幸生君)
(~~~省略~~~)
 それとですね、続けて職員の採用問題についてです。令和元年、ことしですね、職員の採用試験がございました。初級・上級とも、ほぼ同数の応募者数があっているようでございます。しかしですね、聞くところによれば、初級職員は一次試験において、ボーダーラインを設置した関係上、合格者数が11名ですか、なっております。ところが上級職に関してはですね、受験者数が一次試験において全員合格したということになっていますけど、これは事実なんでしょうか、まずお聞かせ願いたいと思います。
(~~~省略~~~)
◆16番(鳥井田幸生君) 
 そうすると私が言ったように上級職員に関してはですね、一次試験を受けた方が全員合格ということで、これは間違いないわけですよね。
                (総務部長、頷く)
なんでこのようなことが起きるんでしょうか。

======【引用ここまで】======

 市役所職員の採用試験で、
一次試験を受けた方が全員合格
・・・・・・やばい、この市役所やばい。

 全国津々浦々で、国家公務員や都道府県職員、市区町村職員の採用試験が行われています。多少のスタイルの差こそあれ、1次でマークシートを中心とした筆記試験、2次・3次で論文や面接、討論という形が一般的です。

 1次筆記試験は、受験者の意欲・適性・コミュニケーション能力とは別に、職務を遂行する上で必要な知識・教養・処理能力を持っているかどうかを確認するために行うものです。1次筆記試験は、「〇点取ったら1次合格」という絶対評価のラインを設定するか、相対評価として「受験者の上位〇%を1次合格」というルールを設定するかのどちらかが行われます。あるいは、上位〇%を合格とするとしつつ、「教養科目・専門科目それぞれ最低限この点数は取ってほしい」という足切りラインも設定しておく絶対評価・相対評価合わせ技のような形を採用するところもあります。

 数十人、数百人が受ける1次筆記試験で、受験者全員を合格させるなんてことはありえません。相対評価ルールであれば、全員合格は皆無です。また、絶対評価ルールであれば、受験者全員がその設定ラインを超えてくれば全員合格となりますが、毎年実施している試験で同じ程度のラインを設定していれば、そういうことはまず起こりません。

(小規模町村や職種限定の試験において、最終合格1人の枠に対し、1次筆記試験を2人が受けて2人とも1次合格する、ということはあります。ただこれは少人数であるが故の例外。)

 しかし、行橋市では
「1次筆記試験受験者 全員合格」
という事態が生じました。これは極めて異常なことです。

【他団体の例】

 他の公務員採用試験ではどうなっているでしょうか。
 google検索で引っかかったものを幾つかご紹介。

〇平成31年度(令和元年度)福津市正規職員採用試験(前期)結果状況
======【抜粋ここから】======
行政事務A(大卒程度)第1次試験 受験者数156人 合格者数49人
======【抜粋ここまで】======

〇【医師以外】令和元年度吹田市職員採用候補者試験(5月実施)実施状況
======【抜粋ここから】======
一般事務 事務A 受験者数605人 1次試験合格者数225人
======【抜粋ここまで】======

〇令和元年度 佐賀県職員採用試験実施状況
======【抜粋ここから】======
大卒程度 行政 第1次試験受験者数175人 第1次試験合格者数82人
======【抜粋ここまで】======

〇南魚沼市 令和元年度職員採用試験の実施状況
======【抜粋ここから】======
大学卒業程度一般行政1 1次試験受験者28人 1次試験合格者14人
======【抜粋ここまで】======

〇宇多津町 令和元年度職員採用試験受験状況について
======【抜粋ここから】======
一般行政事務(大卒程度) 一次試験受験者26人 合格者21人
======【抜粋ここまで】======

 当たり前なんですけど、1次筆記試験で合格する人、不合格となる人がいます。(それなりの人数規模の試験で、受験者全員が1次筆記試験を合格した例があったら教えてください。)
 こうした一般的な運用例を見た後で、改めて行橋市のものを見てみましょう。

〇令和元年度 行橋市職員採用試験結果
======【抜粋ここから】======
上級 事務職 1次受験者29人 1次合格者29人
======【抜粋ここまで】======

 ・・・うん、やっぱり違和感しかない。1次試験の意味がない。
 足切り、学力選別という機能を、1次筆記試験が全く果たしていないのです。こうやって比較してみると、異常さが際立ちます。

 この市の過去の結果とも比べてみましょうか。

〇平成30年度 行橋市職員採用試験結果
======【抜粋ここから】======
上級 事務職 1次受験者31人 1次合格者14人
======【抜粋ここまで】======

〇平成29年度 行橋市職員採用試験結果
======【抜粋ここから】======
上級 事務職 1次受験者31人 1次合格者20人
======【抜粋ここまで】======

〇平成28年度 行橋市職員採用試験結果
======【抜粋ここから】======
上級 事務職 1次受験者12人 1次合格者8人
======【抜粋ここまで】======

 他の年度の試験は、きちんと筆記試験でふるいにかけています。令和元年度のみ、1次の筆記試験が無意味になってしまっているのです。
 私が学生の頃、地域で最も偏差値の低い高校では「入試に行って名前を書けば合格した」なんて事が嘘か本当か言われていましたが、1次筆記試験で全員合格というのはそういうことです。

 これについて、冒頭の市議会でのやりとりを再度見てみましょう。

行橋市議会 令和元年12月 定例会(第16回) 12月09日-02号
======【引用ここから】======
◆16番(鳥井田幸生君)
同じ公務員の採用においてですね、上級職・初級職、それぞれあるわけでしょうけど、事務職に対してですね。片や一次試験にボーダーラインを設置しながら、片方では全員合格と。理解に苦しむんですね。一次試験が何のために行われているのか。何のためにやるのか。
 私は議員ですけど、この結果について、受験者の本人も親も理解に苦しむんじゃないですかね。市長、一次試験は何のためにあるんですか、答弁を願います。
○議長(田中建一君) 
 田中市長。
◎市長(田中純君) 
 お答え申し上げます。議員の御質問の趣旨が分からない。つまり100人受けて100人合格したら、それはおかしいんですか。
           (鳥井田君「おかしいでしょ」の声あり)
どうしておかしいですか。100人受けて100人とも同点だったらどうしますか。全員合格でしょ、二次試験、三次試験があるんだから。そりゃ100人受けて100人全員同点だったとは言いませんけども、同点者が数名いれば、当然同じ数の人がいても、それは全然論理上、不思議ではないと思いますが、いかがでしょうか。
----(中略)----
来年、100人受けて全員0点なら全員落としますよ。試験とはそういうものでしょ。
======【引用ここまで】======

 田中純市長は、先ほど例え話で出した「入試を受けに行って名前を書けば合格した」レベルの高校・大学の出身なのかと思いきや、この答弁レベルで京都大学卒というから驚きです。

 そう思わせるくらい、この市長答弁はひどい。全く説明になっていません。
 受験者全員同点とか受験者全員0点とか、確率的に、あるいは実務的にあり得ない仮定の事象を挙げて感情的に反論している姿は、行政トップの答弁として0点です。
 筆記試験を実施して、仮に下位70%集団が1~3点差でだんご状態になっていたとしても、その中のどこかで線引きをするシビアさが必要です。そのシビアさが試験の公正さを保っています。1点に笑い1点に泣く、それが試験というものです。

 1次試験受験者全員を合格させた行橋市長の決定について、納得できない受験者もきっと居るでしょう。筆記試験が最初の関門と思って試験勉強をして臨んだにもかかわらず
「実は1次筆記試験は飾りで無意味でしたー。2次以降の論文、面接、討論だけで決めますー」
なんて結果を見たら、
「何この市役所、ふざけてるの?」
「筆記試験がお飾りなら、最初から試験対策する必要無かった」
と思うでしょうし、
「筆記試験の結果を操作したんだろうか?」
といった疑念に駆られることでしょう。
筆記試験の出来は良かったのに、最終合格を逃した受験者が
「筆記試験の下位だった受験者を最終合格させるため、市は筆記試験合格ラインを操作して、その下位受験者を最終合格させた結果自分は落とされたのでは?」
と思っても不思議ではありません。

 数点の差の中に受験者が集中していたとしても、その僅かな差の中でラインを引くのが試験実施者の責務です。これが出来ないということは公正な試験が出来ない団体なので、そもそも採用試験を辞めてしまった方がいいと思います。

 追及していた議員が、
市長、一次試験は何のためにあるんですか
と問うたのは、まさにその通りです。

【3割得点で筆記試験合格できる市役所】

 では実際、得点の状況はどうだったのでしょうか。
 次の市議会3月定例会で、驚愕の事実が出てきました。


======【テキスト起こし】======
41:20頃~
工藤政宏議員これ僕情報公開請求で、令和元年度の行橋市職員採用試験、第1次試験の得点表、これを出して貰いました。
 29人受けて、合格ラインがご丁寧にも合格ライン29名の下に引いてあります。これ僕が引いたんじゃないですよ。出てきた情報にこうやって引いてくれているんです。29人受けて29人合格なんです。
 点数これだけ開きがありますよ。おそらく200点満点中ですかね。1位が168点、2位が155点、下の方を見ますと25位83点、26位83点、27位65点、28位60点、29位58点ですよ。相当な点数の開きがあります。
 これどういうことなんですか市長。
『100人受けて100合格したらそれはおかしいんですか。100人受けて100人とも同点だったらどうします。』
これ実情全然そんなことないですよ。

======【テキスト起こし】======

 例えば、例年、ボーダーラインを6割正解で設定し、それで、30人受験者がいて15人合格する、という結果が出ていたとします。例年通り6割正解をボーダーラインにしていたところ、令和元年度だけ、受験者全員が8割、9割正解をした・・・というのであれば、全員合格もあり得ます。こうした状況であれば、12月定例会での
100人受けて100合格したらそれはおかしいんですか。100人受けて100人とも同点だったらどうします。
という田中純市長の答弁も成り立ちます。

 しかし蓋を開けてみれば、200点満点中、1位168点、29位58点、その間にバラツキがある試験結果です。ごくごく一般的な試験結果です。受験者全員が同点で優秀だったという田中純市長の言っていたイレギュラーな事例ではありません。過去の試験状況に照らしても、不自然さは際立っています。この令和元年度試験だけボーダーラインを意図的に低く設定しなければ、全員合格という事態は生じません。市長が「ボーダーラインを25%得点にしろ」と指示しない限り、この結果を生じさせることは不可能です。

 この市役所、今年はさぞや優秀な職員を採用できたことでしょう(皮肉ですよ?)。
 1次筆記試験の合格ラインを3割正解よりも下に引いた合理的説明、できるんですか田中純市長さん?

 職員採用は、生涯賃金2億とも3億とも言われる人件費が投じられる、ある意味で巨額の公共事業です。しかも、よほどの事が無い限り自治体は倒産せず、職員の身分保障も手厚くなっています。このため、「公務員試験でコネ採用があるのではないか?」「あの職員は地元有力者が市長に頼み込んだのではないか」等の疑惑は昔からいろんなところで囁かれています。
 試験において有力者の関係する受験者を贔屓しようとした時、面接や討論であれば面接官の主観で左右できる為、贔屓するのは比較的容易です。複数いる面接官のうちの一人に頼んで高得点を付けてもらうようにするのは、ちょっとした有力者なら出来るかもしれません。この場合、市長がコネ採用を知らないまま終わるという事もあり得るでしょう。
 しかし、1次筆記試験のボーダーラインを極端に下げることは、市長が許可を出さないと実施できません。仮に、人事担当部長・課長クラスの人が今年だけ1次筆記試験のボーダーを3割弱で設定しようとしても、市長が「なんでそんな筆記試験の出来の悪い受験者まで面接するんだ?例年通りのボーダーラインにしろ」と一喝すればそれまでですから。

 どのくらい市長に近い人の頼みだったのでしょうか。

【受験者への謝罪を】

 さて。
 このブログをなぜ今回書こうと思ったのか。

 それは、

医学部不正入試、東京医大に受験料返還義務…対象は女子だけで2800人に : 国内 : ニュース : 読売新聞オンライン

というニュースが入ったからです。
 背景や構図に違いはあるものの、事前の告知なく不正な処理をして受験者に不利益を与え、社会に不信感を持たせてしまったのは同じです。
 東京医大には受験料返還が命じられました。
 行橋市も、市長による公式の謝罪はもとより、受験料返還、今年度試験の白紙撤回と再試験の実施、あるいは、今年度不合格者は来年度の筆記試験免除といった措置を検討すべきではないでしょうか。

公務員試験にコネ採用はある!?コネでも落ちた国家や地方受験者はいる? | 現役公務員ママの本音とリアル
======【引用ここから】======
・筆記試験はコネが影響する余地なし
 筆記試験を実施する段階では、コネが影響する余地はありません。
 この段階でコネなどが影響するとすれば、それは採点の不正操作にあたります。
 間違いなく、トップニュースで報じられるレベルです。

======【引用ここまで】======

二重の基準論をそのままに、最高裁の復権なんて無理でしょう

2020年03月07日 | 政治
今日のお題は、二重の基準論・再考。

二重の基準論の意義 - 社会科学研究会
======【引用ここから】======
憲法学において、「二重の基準論」(double standard)といわれる理論が存在します。
----(中略)----
この考え方によれば、経済的自由を制約する立法は民主政治による是正というプロセスに期待して、裁判所は積極的な介入を控えるべきだとされる一方で、精神的自由を制約する立法は民主政治のプロセス自体を損ねるおそれがあるため、裁判所の積極的な介入が必要であるとされます。
----(中略)----
アメリカで行われたこの数々の”ニューディール立法”に対して最高裁判所は、私有財産権および自由な経済活動を守るという理由から違憲判決を続出させました。しかし、それらの違憲判決は国民の批判を受けることになりました。”裁判所の違憲立法審査権は、一体何のために、誰のためにあるのか”ということが問われたのです。ニューディール政策は、経済的・社会的に不利な立場にいる国民を救うために実施しようとされた政策です。そのような政策を実現するための立法を違憲と判断するということは、最高裁判所は国民の利益を考えていないのではないか、と考えられたのです。1937年、ついに最高裁判所は、今までの契約の自由を保護してきた判例を覆しました。経済政策立法についての違憲審査において、最高裁判所は方向転換を図ったのです。この一連の動きは、”憲法革命”といわれることがあります。この出来事以降、最高裁判所は、経済政策立法に対する違憲判決を控えるようになりました。これが、憲法学における二重の基準論の誕生です。
======【引用ここまで】======

そもそも、ニューディール立法は国民のためになったのでしょうか。
ニューディール政策は成功だったのでしょうか。

アメリカの失業率は、1933年に25%となった後、ニューディール政策を開始した1937年に14%へと回復します。
ところが、この効果は一時的なものに過ぎず、翌1938年には19%に逆戻り。
失業率が本格的に回復するのは、第二次世界大戦により軍需工場や戦場で人手が必要になった頃からでした。

法律が作られるとき、前文や第1条の中に
「国民生活の向上のため」
「福祉の向上のため」
「経済的・社会的弱者保護のため」
と美辞麗句で飾ることがよくあります。
しかし、そのとおりに実現するとは限りません。
逆に終わることも多いのです。
政府の意図する立法目的・社会正義が、短絡的な政策によって実現できるほど多数の人々からなる社会は単純ではないのです。

【自由市場を歪める政府介入】

個人の自由な活動、自発的な取引が市場を成立させています。
この繰り返しが、結果として人々の便益を増し資源のより望ましい分配を可能にします。
長期的にみた時、資源を効率的に分配する方法として、市場より優れた方法はおそらく存在しないでしょう。

政府にできることは、ごくごく短期間の、分野や対象者を限定した利益誘導くらいのものです。
Aから金を奪ってBに配ったり、Aの活動を制限してBのみに特権を与えれば、Bの状態は改善されますが、それはAの不利益を前提としています。
じゃあ次は不利益を受けたAに金を配るためにCから金を取ろう、その次はCに特権を認めるためにBの権利を制限し・・・という事を繰り返すと、人々は、

「自分の生活を向上させるためには、他人に対し有益な商品やサービスを提供し、その交換で自分にとって有益な商品やサービスを手に入れるという迂遠な方法よりも、投票をチラつかせて政治家に泣き付いた方が手っ取り早い」

と思うようになります。
そして、この過程で、政府による奪う権限、配る権限が拡大します。
政府の権限や取り扱う金額が増え、政府規模が拡大し、政府職員も増えることになります。

大きな政府の誕生です。

【二重の基準論から始まった個人の自由の侵食】

非効率で大きな政府への道を、アメリカの憲法は閉ざしていました。
この扉を開いたのがニューディール政策です。

ニューディール政策を社会主義という母親から産まれた子供とすれば、助産師として母親の胎内からニューディール政策を取り上げたのが「二重の基準論」であるというのが私の認識です。
あるいは、憲法という自由の堤防が「二重の基準論」という穴から徐々に決壊し、ニューディールを始め社会主義的介入政策の氾濫を止められなくなったと言った方が良いでしょうか。

世界恐慌という特殊状況の中、短期間の効力すら疑わしいニューディール政策を肯定するために誕生した特殊理論を、長期間にわたって憲法の通説として取り扱い、憲法が持つ自由の基礎法としての機能を弱めてきたことを、憲法学に携わる人々は反省すべきです。

【法の番人はいずこへ】

さて、冒頭のブログでは次のように続きます。

二重の基準論の意義 - 社会科学研究会
======【引用ここから】======
内閣法制局のあり方は問題にされるべきだと思います。日本国憲法は必ずしも、内閣法制局の存在を予定していません。内閣法制局を置く日本の制度が一定の成果をあげてきたことは事実だと思いますが、これからもこのような制度でよいのかと問われることは有益であると思います。日本国憲法第九条の解釈にしても、”憲法の番人”であるはずの最高裁判所ではなく、官僚である内閣法制局長官が表明してきた憲法解釈の方が影響力を持ってきたことに表れています。内閣法制局長官による憲法解釈は技術的な側面が強すぎ、硬直的な解釈である点も指摘されることがあります。内閣法制局による憲法解釈や事前審査によって一貫した法体系や法解釈が維持されてきた反面、最高裁判所こそが国民のための”法の番人”であるという事実は忘れられてきた部分があると思います。最高裁判所こそが”法の番人”であるという事実は、もう一度確認される必要があるのではないでしょうか。
======【引用ここまで】======

内閣法制局が今のように「法の番人」としての地位を築いたのか。
それは、「二重の基準論」に沿って裁判所が国会・内閣の定めた経済政策に大きく譲歩することを繰り返した結果、

「裁判所は憲法判断をしない。実質的には、政策立案する内閣による『ここまでなら合憲』という線引きが重要になる。それを決めているのは内閣法制局だ。」

という運用が積み重ねられたからです。

最高裁判所が「法の番人」の地位を内閣法制局から取り戻すためには、「二重の基準論」を捨て、経済政策についても憲法上の自由権・財産権規定に沿った判断を裁判所がやっていく必要があります。

経済活動は単独で存在しているのではなく、その活動に携わる人々の意思・思想・表現と密接に繋がっています。
精神的自由と経済的自由を切り分けることができる、国会・内閣が立案した経済政策にはノータッチという「二重の基準論」の発想が最高裁判所の地位を暴落させ、いち官僚に過ぎない内閣法制局長を実質的な「法の番人」たらしめているのです。

裁判官のみなさん、安心してください。
「私たち裁判官は経済政策を判断する材料を持っておらず、経済政策を適切に判断する能力を有していない」
なんて卑下する必要はありません。
国会議員にしろ、中央省庁の官僚にしろ、地方自治体にしろ、みんな経済政策を適切に判断する能力なんて持ち合わせていないのですから。