どうもこんばんは、若年寄です。
ブルシットジョブ(くそどうでもいい仕事)でお馴染みデビット・グレーバーの翻訳者に、酒井隆史氏という人がいます。
今回のお題は、酒井氏のネオリベラリズム(新自由主義)批判について、です。
定義のあいまいなままの新自由主義批判は、中身が・・・といういつものお話。
ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
小泉改革のあたりからだろうか、公務員がムダの元凶、不効率の砦として、攻撃の槍玉にあげられるようになった。マスコミをあげての総攻撃の結果、郵政を筆頭に、それまで公的領域にあったものが続々と「民営化」されていった(民営化はprivatizationの訳語であり、本来、私有化とか私営化といった含意をもつはずだが、日本語の語感はそれがあたかも「民衆」を主体とするものであるかのようなニュアンスをかもしだしてしまい、この訳語自体が、ネオリベラリズムのイデオロギー効果を増幅させてしまうことに注意してほしい)。
======【引用ここまで】======
酒井氏の文章の中で、冒頭のこの箇所は、唯一といっていい有用な内容を含んでいます。
「privatization」は、直訳である「私有化・私営化」のニュアンスで徹底されていません。「民営化」という日本語訳に含まれる「民衆」の語感から、民主主義のイデオロギーに引きずられています。
ネオリベラリズムに基づき市場原理を導入しようとしたものの、市場原理が徹底されず民主政の介入を大きく受けている、そんな公共事業は多い。市場原理の不徹底と民主的介入の余地を残したことが、非効率を生み出す元となっています。その典型が、酒井氏が例として挙げる大学運営です。
======【引用ここから】======
シラバス作成にかんして、「非効率」なはずの伝統的大学では、大学職員から大学教員への通知ひとつでことはすんでいる。実に「スリム」なのである。ところが先端的経営による効率性をうたう大学では、管理チェックのプロセスなどがあいだにはさまって、複雑怪奇なものになっている。これが先端的経営理念による「効率化」の実態である。
======【引用ここまで】======
以前は、シラバスの作成に際し大学教員と大学職員の間で通知一本で済んでいた。それが、「民営化」や効率化の導入によって複雑なやりとり、報告、承認が必要となった・・・と嘆く酒井氏。
この図には、大学教員、大学職員、大学管理者の三者が描かれています。しかし、この図を幾ら眺めても
「なぜ大学管理者は教員や職員に対し詳細な指示を出し報告を求めるのか」
は見えてきません。なぜかと言うと、この図に、予算配分に携わる政府当局者が出てこないからです。
大学の運営は、税金の配分を受けることで成り立っています。文科省が予算を獲得し、運営費交付金その他の補助金といった形で大学に配っています。税金の配分をとおして、大学は文科省の定めた基準やマニュアルに従属させられています。税金で交付金や補助金をもらっているから政府の定める詳細な基準やマニュアルを無視できない、結果として膨大な書類仕事や報告が増えるという側面に、酒井氏は言及しません。
政府は、徴収した税金を社会保障費や公務員人件費、ダムや道路の整備、国防費、特定産業への補助金などに山分けしています。その中で、文科省は
「各大学はこういう事をやっていてそのための経費が幾ら必要だから、総額としてこのくらい予算を確保したい」
と主張するための材料として、大学からの報告を用いることになります。財務省への折衝や国会論議の中で、大学への予算配分の必要性を説明し説得できなければ、少子高齢化の中で膨張し続ける社会保障費の圧力に押されてどんどん削られることでしょう。予算折衝をとおして、大学は年金・医療・介護・生活保護・保育・警察といった他分野と税金獲得競争をしているのです。
「民営化」と言いつつ「私営化」が不徹底で、大学運営の大きな部分を税金の民主的配分に依存しているからこそ、大学教員は膨大な書類仕事に追われることになるのです。
「民営化」における「私営化」が徹底され、市場原理が浸透すれば、これとは違う状況が生じます。大学管理者の指示に沿って書類的に完璧なシラバスを作ったとしても、その授業を受講したいという学生を集められなければ授業料収入は減少するでしょう。逆に、どれだけ大雑把なシラバスを作ったとしても、学生の人気を得られれば授業料収入を確保できるでしょう。
また、多くの人から馬鹿にされる研究内容でも、ただ一人の資産家から
「あんたの研究は素晴らしい」
と評価され寄付を受けられれば、研究を続けることができます。
人は、お金を払う人の意向や動向を重視します。「私営化」が徹底されれば、授業料を払う学生の動向や、寄付をする資産家の意向が重要になります。おそらく、彼らは書類仕事を要求しません。
政府権力者と昵懇な者は、制度の枠を越えて税金の配分を受けることができるようにはなります。ですが、これは税金の私物化です。税金の私物化はいかん、予算配分の必要性・正当性を示すべきである、という要請は、民主制から生じます。
税収に余裕があり、社会保障費の膨張圧力が弱かった頃であれば、杜撰な手続きと安易なルールで税金から大学運営費を配分できたかもしれません。しかし、社会保障を始め他分野との税金配分競争が熾烈になれば、より厳格に、基準と手続きを適正にして正当性・必要性を示さなければならなくなります。それが、「民営化」における「民衆」の側面、民主的統制からの要請になります。
ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
このようなことは大学でだけ起きているわけではない。グレーバーがこの事例をあてたわけは、「実質のある仕事(リアル・ワーク)のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結」であることをわかりやすく示そうとしてのことである。
つまり、効率化を旗印にし、ムダの削減を呼号するような市場原理による改革がすすめばすすむほど、逆に、官僚制的手続きはややこしくなり、規則はやたらと増殖し、ムダな役職も増えていくことの背景には、このように、数量化しえないものを数量化しようとする「市場原理」の拡大があるということになる。
======【引用ここまで】======
商品やサービスの提供を行う、あるいはその質の向上に直接的に関わる「実質のある仕事(リアル・ワーク)」よりも、手続きや書類仕事の割合が高くなる「ブルシット化」は、「民営化」における「私営化」が不徹底で市場原理が貫徹されず、税金の配分を始めとする民主的統制が大きな割合を占めているからではないか、というのは先ほど述べたとおりです。
もし、税金投入の割合が減り、市場原理による改革がすすみムダの削減が至上命題となれば、
「ムダな書類仕事をする暇があったら、授業料収入を増やすため一人でも多くの学生を受け入れて講義を提供しろ」
となるはずです。講義時間を削ってでもシラバスを作成し報告しろという要請は、手続きに則って税金の配分を受ける必要性から生じるものです。文科省がシラバスの定義や評価基準を定めたとしても、文科省が運営費の配分権限や許認可権限を持っていなければ、誰が文科省のシラバス基準なんかに従うでしょうか。
人間は、お金をくれる人の方へ意識が向きます。利用者が自腹でサービスの対価を払うのであれば、サービス提供側は利用者の動向に注意を払い、満足を向上させる方向で努力するでしょう。しかし、税金の配分を受ける者は、税金の配分を決める政府当局の満足する書類作成に注力するようになるのです。
「民営化」の語感から導かれる「民衆」、そして民主的統制。ここから生じる手続きの煩雑さを、「私営化」のせいにしても解決はしないのです。
======【引用ここから】======
「数量化しえないものを数量化しようとする欲望」は、もともと資本主義に内在するのだが、ネオリベラリズムはその欲望を全面的に解放するものなのである。
それはしかし、ナチュラルなプロセスとはほど遠い。というのも、人間生活の領域は、数量化しえない――市場原理になじまない――膨大な蓄積に根ざしているからである。たとえば、「福祉」と要約されるようなケアの領域、愛情の領域、友情や連帯感の領域、地域性の領域などなどである。
したがって、その領域――これを経済人類学にならって「社会」の領域とひとまずしよう――にまで市場原理が拡張しようとするとき、かならず抵抗や摩擦が起きる。
======【引用ここまで】======
酒井氏は、数量化の問題を資本主義、市場原理特有の問題と考えている節がありますが、これは大きな間違いです。
ケアの領域、愛情の領域、友情や連帯感の領域、地域性の領域・・・酒井氏の挙げる社会の領域は、介護、子育て、公教育、公園や公民館整備などの場面で行政と交差します。行政と交差するということは、どの分野に幾ら税金を配分するかという数量化と無縁ではいられません。
税収・予算が潤沢にあり、各領域からの要望が小さければ、厳密な数量化は必要無いかもしれません。どんぶり勘定でやっていけるうちは、数量化するための膨大な書類仕事に追われることはありません。しかし、税収は伸びない一方で、社会における様々な領域から「金をくれー」「金をくれー」という要望が高まっています。社会の様々な領域からの各要望の優先度を検討し、予算の割合、配分順位を考慮し、配分予算額の決定という数量化をしています。
数量化しえない社会の領域は、税金を配分するために民主的統制の観点から数量化の手続きを求められます。他方、数量化しえない社会の領域に市場原理を拡張することで、対価・利潤をとおして数量化されます。
民主的統制と市場原理とでは数量化の手法や考え方が異なることから、市場原理に軸足を移していく過程で今まで配分を受けられなかった人が配分を受けられるようになったり、あるいはその逆が生じます。民主的統制から市場原理に移行する際には当然ながら摩擦が生じます。
なお、民主的統制に基づく配分においては、説得するための膨大な手続きとルールが必要になり、これに伴って書類仕事が増えます。他方、市場原理においては、「この商品やサービスならこの金額を支払っても満足できる」という手法によって個人個人の主観を金額に変換する数量化が行われます。
「ブルシット化が進んでいる」
「手続きが煩雑になって実質のある仕事のウエイトが下がっている」
というのは、「市場原理」「民営化」と言いながらも「私営化」が進まず、民主的統制の削減に繋がらなかったという事を意味しています。民営化と言いながら運営費を税金で賄っていたり、政府が大株主だったり、法律で事業運営方法を事細かく定めたりしていれば、そりゃあ官僚向けの煩雑な手続きは減りませんよ。
======【引用ここから】======
商業的市場は、そもそものはじまりにおいて国家に密着していたのみならず、その市場の維持と運営にはつねに国家のようなものが必要とされてきた。資本主義社会におけるその未曾有の拡大が、必然的に官僚制の拡大をともなうのはこのためである。
これをグレーバーは、「リベラリズムの鉄則」と呼んでいる。
「リベラリズムの鉄則とは、いかなる市場改革も、規制を緩和し市場原理を促進しようとする政府のイニシアチヴも、最終的に帰着するのは、規制の総数、お役所仕事の総数、政府の雇用する官僚の総数の上昇である」。
ネオリベラリズムは、そのようなリベラリズムの鉄則を極限まで拡張するものである。カフカ的悪夢は20世紀の遺物ではない。官僚制につねにつきまとってきた「非効率」「不合理」そして「不条理」は、未曾有のレベルにまで達しつつある。
======【引用ここまで】======
酒井氏のいう「商業的市場は、そもそものはじまりにおいて国家に密着していた」という部分は、貨幣の起源に関するかなり異端な(トンデモ?)考え方に依拠しているので、無視して構わないでしょう。
(「貨幣を兵士への給料として配ったことで市場が成立した」って、その前にその貨幣(かその貨幣に使った金属)を用いての交換が、ある程度慣習として存在していたから、給料として成り立ったと考えるのが自然ではないでしょうか。交換価値の確立していない貨幣を兵士に渡して「これで物資を調達しろ」と命令したところで、「これで何がどれくらい買えるんだ、ふざけるな」と逆に兵士の反乱を招きかねません。)
商業的市場は古くから存在し、そして、政府機構も様々な形で存在してきました。政府機構は、商業的市場から税を徴収してきました。ある時は暴力を背景に、またある時は大義名分を立てて、税を徴収し、配分する。これが官僚制の最大の業務です。グレーバーや酒井氏が非難するお役所仕事の増大、官僚総数の増加、官僚制の非効率や不合理は、税負担額の増加や税目の増加、支出項目、規制対象が多岐にわたることで引き起こされたものです。税の徴収や配分過程に一切触れることなく、官僚制が招く不条理さを嘆く酒井氏の本記事は、長いだけで中身が薄いと言わざるを得ません。
手続きの煩雑さを我慢して税金の配分を受けるか、自分で授業料や寄付を集めるか、先生ならどっちを選びます?あるいは、「社会の領域」という念仏を100回唱えたら、税金を私物化できるようになるのでしょうか。
ブルシットジョブ(くそどうでもいい仕事)でお馴染みデビット・グレーバーの翻訳者に、酒井隆史氏という人がいます。
今回のお題は、酒井氏のネオリベラリズム(新自由主義)批判について、です。
定義のあいまいなままの新自由主義批判は、中身が・・・といういつものお話。
ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
小泉改革のあたりからだろうか、公務員がムダの元凶、不効率の砦として、攻撃の槍玉にあげられるようになった。マスコミをあげての総攻撃の結果、郵政を筆頭に、それまで公的領域にあったものが続々と「民営化」されていった(民営化はprivatizationの訳語であり、本来、私有化とか私営化といった含意をもつはずだが、日本語の語感はそれがあたかも「民衆」を主体とするものであるかのようなニュアンスをかもしだしてしまい、この訳語自体が、ネオリベラリズムのイデオロギー効果を増幅させてしまうことに注意してほしい)。
======【引用ここまで】======
酒井氏の文章の中で、冒頭のこの箇所は、唯一といっていい有用な内容を含んでいます。
「privatization」は、直訳である「私有化・私営化」のニュアンスで徹底されていません。「民営化」という日本語訳に含まれる「民衆」の語感から、民主主義のイデオロギーに引きずられています。
ネオリベラリズムに基づき市場原理を導入しようとしたものの、市場原理が徹底されず民主政の介入を大きく受けている、そんな公共事業は多い。市場原理の不徹底と民主的介入の余地を残したことが、非効率を生み出す元となっています。その典型が、酒井氏が例として挙げる大学運営です。
【「私営化」されなかった大学運営】
ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社======【引用ここから】======
シラバス作成にかんして、「非効率」なはずの伝統的大学では、大学職員から大学教員への通知ひとつでことはすんでいる。実に「スリム」なのである。ところが先端的経営による効率性をうたう大学では、管理チェックのプロセスなどがあいだにはさまって、複雑怪奇なものになっている。これが先端的経営理念による「効率化」の実態である。
======【引用ここまで】======
以前は、シラバスの作成に際し大学教員と大学職員の間で通知一本で済んでいた。それが、「民営化」や効率化の導入によって複雑なやりとり、報告、承認が必要となった・・・と嘆く酒井氏。
この図には、大学教員、大学職員、大学管理者の三者が描かれています。しかし、この図を幾ら眺めても
「なぜ大学管理者は教員や職員に対し詳細な指示を出し報告を求めるのか」
は見えてきません。なぜかと言うと、この図に、予算配分に携わる政府当局者が出てこないからです。
大学の運営は、税金の配分を受けることで成り立っています。文科省が予算を獲得し、運営費交付金その他の補助金といった形で大学に配っています。税金の配分をとおして、大学は文科省の定めた基準やマニュアルに従属させられています。税金で交付金や補助金をもらっているから政府の定める詳細な基準やマニュアルを無視できない、結果として膨大な書類仕事や報告が増えるという側面に、酒井氏は言及しません。
政府は、徴収した税金を社会保障費や公務員人件費、ダムや道路の整備、国防費、特定産業への補助金などに山分けしています。その中で、文科省は
「各大学はこういう事をやっていてそのための経費が幾ら必要だから、総額としてこのくらい予算を確保したい」
と主張するための材料として、大学からの報告を用いることになります。財務省への折衝や国会論議の中で、大学への予算配分の必要性を説明し説得できなければ、少子高齢化の中で膨張し続ける社会保障費の圧力に押されてどんどん削られることでしょう。予算折衝をとおして、大学は年金・医療・介護・生活保護・保育・警察といった他分野と税金獲得競争をしているのです。
「民営化」と言いつつ「私営化」が不徹底で、大学運営の大きな部分を税金の民主的配分に依存しているからこそ、大学教員は膨大な書類仕事に追われることになるのです。
「民営化」における「私営化」が徹底され、市場原理が浸透すれば、これとは違う状況が生じます。大学管理者の指示に沿って書類的に完璧なシラバスを作ったとしても、その授業を受講したいという学生を集められなければ授業料収入は減少するでしょう。逆に、どれだけ大雑把なシラバスを作ったとしても、学生の人気を得られれば授業料収入を確保できるでしょう。
また、多くの人から馬鹿にされる研究内容でも、ただ一人の資産家から
「あんたの研究は素晴らしい」
と評価され寄付を受けられれば、研究を続けることができます。
人は、お金を払う人の意向や動向を重視します。「私営化」が徹底されれば、授業料を払う学生の動向や、寄付をする資産家の意向が重要になります。おそらく、彼らは書類仕事を要求しません。
【書類仕事を要求するのは、税金配分に手続き的正当性が必要だから】
税金配分の必要性を満たしているかどうかを確認するために、法律・政令・省令で各種報告・届出・申請の制度を設けています。結果、現場は煩雑な手続きに追われることになるのです。政府権力者と昵懇な者は、制度の枠を越えて税金の配分を受けることができるようにはなります。ですが、これは税金の私物化です。税金の私物化はいかん、予算配分の必要性・正当性を示すべきである、という要請は、民主制から生じます。
税収に余裕があり、社会保障費の膨張圧力が弱かった頃であれば、杜撰な手続きと安易なルールで税金から大学運営費を配分できたかもしれません。しかし、社会保障を始め他分野との税金配分競争が熾烈になれば、より厳格に、基準と手続きを適正にして正当性・必要性を示さなければならなくなります。それが、「民営化」における「民衆」の側面、民主的統制からの要請になります。
ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社
======【引用ここから】======
このようなことは大学でだけ起きているわけではない。グレーバーがこの事例をあてたわけは、「実質のある仕事(リアル・ワーク)のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結」であることをわかりやすく示そうとしてのことである。
つまり、効率化を旗印にし、ムダの削減を呼号するような市場原理による改革がすすめばすすむほど、逆に、官僚制的手続きはややこしくなり、規則はやたらと増殖し、ムダな役職も増えていくことの背景には、このように、数量化しえないものを数量化しようとする「市場原理」の拡大があるということになる。
======【引用ここまで】======
商品やサービスの提供を行う、あるいはその質の向上に直接的に関わる「実質のある仕事(リアル・ワーク)」よりも、手続きや書類仕事の割合が高くなる「ブルシット化」は、「民営化」における「私営化」が不徹底で市場原理が貫徹されず、税金の配分を始めとする民主的統制が大きな割合を占めているからではないか、というのは先ほど述べたとおりです。
もし、税金投入の割合が減り、市場原理による改革がすすみムダの削減が至上命題となれば、
「ムダな書類仕事をする暇があったら、授業料収入を増やすため一人でも多くの学生を受け入れて講義を提供しろ」
となるはずです。講義時間を削ってでもシラバスを作成し報告しろという要請は、手続きに則って税金の配分を受ける必要性から生じるものです。文科省がシラバスの定義や評価基準を定めたとしても、文科省が運営費の配分権限や許認可権限を持っていなければ、誰が文科省のシラバス基準なんかに従うでしょうか。
人間は、お金をくれる人の方へ意識が向きます。利用者が自腹でサービスの対価を払うのであれば、サービス提供側は利用者の動向に注意を払い、満足を向上させる方向で努力するでしょう。しかし、税金の配分を受ける者は、税金の配分を決める政府当局の満足する書類作成に注力するようになるのです。
「民営化」の語感から導かれる「民衆」、そして民主的統制。ここから生じる手続きの煩雑さを、「私営化」のせいにしても解決はしないのです。
【「数量化」は市場原理に特有の問題ではない】
ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社======【引用ここから】======
「数量化しえないものを数量化しようとする欲望」は、もともと資本主義に内在するのだが、ネオリベラリズムはその欲望を全面的に解放するものなのである。
それはしかし、ナチュラルなプロセスとはほど遠い。というのも、人間生活の領域は、数量化しえない――市場原理になじまない――膨大な蓄積に根ざしているからである。たとえば、「福祉」と要約されるようなケアの領域、愛情の領域、友情や連帯感の領域、地域性の領域などなどである。
したがって、その領域――これを経済人類学にならって「社会」の領域とひとまずしよう――にまで市場原理が拡張しようとするとき、かならず抵抗や摩擦が起きる。
======【引用ここまで】======
酒井氏は、数量化の問題を資本主義、市場原理特有の問題と考えている節がありますが、これは大きな間違いです。
ケアの領域、愛情の領域、友情や連帯感の領域、地域性の領域・・・酒井氏の挙げる社会の領域は、介護、子育て、公教育、公園や公民館整備などの場面で行政と交差します。行政と交差するということは、どの分野に幾ら税金を配分するかという数量化と無縁ではいられません。
税収・予算が潤沢にあり、各領域からの要望が小さければ、厳密な数量化は必要無いかもしれません。どんぶり勘定でやっていけるうちは、数量化するための膨大な書類仕事に追われることはありません。しかし、税収は伸びない一方で、社会における様々な領域から「金をくれー」「金をくれー」という要望が高まっています。社会の様々な領域からの各要望の優先度を検討し、予算の割合、配分順位を考慮し、配分予算額の決定という数量化をしています。
数量化しえない社会の領域は、税金を配分するために民主的統制の観点から数量化の手続きを求められます。他方、数量化しえない社会の領域に市場原理を拡張することで、対価・利潤をとおして数量化されます。
民主的統制と市場原理とでは数量化の手法や考え方が異なることから、市場原理に軸足を移していく過程で今まで配分を受けられなかった人が配分を受けられるようになったり、あるいはその逆が生じます。民主的統制から市場原理に移行する際には当然ながら摩擦が生じます。
なお、民主的統制に基づく配分においては、説得するための膨大な手続きとルールが必要になり、これに伴って書類仕事が増えます。他方、市場原理においては、「この商品やサービスならこの金額を支払っても満足できる」という手法によって個人個人の主観を金額に変換する数量化が行われます。
「ブルシット化が進んでいる」
「手続きが煩雑になって実質のある仕事のウエイトが下がっている」
というのは、「市場原理」「民営化」と言いながらも「私営化」が進まず、民主的統制の削減に繋がらなかったという事を意味しています。民営化と言いながら運営費を税金で賄っていたり、政府が大株主だったり、法律で事業運営方法を事細かく定めたりしていれば、そりゃあ官僚向けの煩雑な手続きは減りませんよ。
【官僚制は税の徴収と配分の機構】
ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか(酒井 隆史) | 現代新書 | 講談社======【引用ここから】======
商業的市場は、そもそものはじまりにおいて国家に密着していたのみならず、その市場の維持と運営にはつねに国家のようなものが必要とされてきた。資本主義社会におけるその未曾有の拡大が、必然的に官僚制の拡大をともなうのはこのためである。
これをグレーバーは、「リベラリズムの鉄則」と呼んでいる。
「リベラリズムの鉄則とは、いかなる市場改革も、規制を緩和し市場原理を促進しようとする政府のイニシアチヴも、最終的に帰着するのは、規制の総数、お役所仕事の総数、政府の雇用する官僚の総数の上昇である」。
ネオリベラリズムは、そのようなリベラリズムの鉄則を極限まで拡張するものである。カフカ的悪夢は20世紀の遺物ではない。官僚制につねにつきまとってきた「非効率」「不合理」そして「不条理」は、未曾有のレベルにまで達しつつある。
======【引用ここまで】======
酒井氏のいう「商業的市場は、そもそものはじまりにおいて国家に密着していた」という部分は、貨幣の起源に関するかなり異端な(トンデモ?)考え方に依拠しているので、無視して構わないでしょう。
(「貨幣を兵士への給料として配ったことで市場が成立した」って、その前にその貨幣(かその貨幣に使った金属)を用いての交換が、ある程度慣習として存在していたから、給料として成り立ったと考えるのが自然ではないでしょうか。交換価値の確立していない貨幣を兵士に渡して「これで物資を調達しろ」と命令したところで、「これで何がどれくらい買えるんだ、ふざけるな」と逆に兵士の反乱を招きかねません。)
商業的市場は古くから存在し、そして、政府機構も様々な形で存在してきました。政府機構は、商業的市場から税を徴収してきました。ある時は暴力を背景に、またある時は大義名分を立てて、税を徴収し、配分する。これが官僚制の最大の業務です。グレーバーや酒井氏が非難するお役所仕事の増大、官僚総数の増加、官僚制の非効率や不合理は、税負担額の増加や税目の増加、支出項目、規制対象が多岐にわたることで引き起こされたものです。税の徴収や配分過程に一切触れることなく、官僚制が招く不条理さを嘆く酒井氏の本記事は、長いだけで中身が薄いと言わざるを得ません。
手続きの煩雑さを我慢して税金の配分を受けるか、自分で授業料や寄付を集めるか、先生ならどっちを選びます?あるいは、「社会の領域」という念仏を100回唱えたら、税金を私物化できるようになるのでしょうか。