(注意:本記事は映画のネタバレを含みます。)
〇帰ってきたヒトラー : 作品情報 - 映画.com
======【引用ここから】======
ヒトラーが現代によみがえり、モノマネ芸人として大スターになるというドイツのベストセラー小説を映画化。服装も顔もヒトラーにそっくりの男がリストラされたテレビマンによって見出され、テレビに出演させられるハメになった。男は戸惑いながらも、カメラの前で堂々と過激な演説を繰り出し、視聴者はその演説に度肝を抜かれる。かつてのヒトラーを模した完成度の高い芸として人々に認知された男は、モノマネ芸人として人気を博していくが、男の正体は1945年から21世紀にタイムスリップしたヒトラー本人だった。ヒトラー役を演じるのは、舞台俳優オリバー・マスッチ。
======【引用ここまで】======
現代に復活したヒトラーが、1940年代と2010年代のギャップに戸惑い、モノマネ芸人と勘違いされつつも、SNSやテレビを通じ、その演説とカリスマによって再び現代のドイツ国民の人気を得ていくという、ちょっと背筋の寒くなるブラックなコメディです。
ヒトラーに対し、その人種差別政策や迫害政策、残忍な性格に強い反感を示す人々がいる一方で、外国人問題に悩む人々は排外主義的な内心を打ち明け、「強い指導者」の復活を歓迎します。
この映画の中で私が怖いと思ったのが、人種差別政策や迫害政策以外の、ヒトラーが行った諸政策については登場するドイツ国民が皆好意的に捉えていて、誰も反論しないというところです。
例えば。
前半のとある場面
======【テキスト起こし】======
(テレビ局にて、突然、会議室に入るヒトラー。会議室では役員が打合せ中。)
局長「状況はそんなに絶望的だったの?」
ヒトラー「あなたは正しい」
局長「何が?」
ヒトラー「状況は絶望的だ。ともに手を携えてドイツを救おう」
副局長「それはいいな。アドルフ、面接は終わりだ、帰ろう」
局長「まぁいいから。で、どうやって救うの?」
ヒトラー「あなたはコーヒーを飲むか?」
局長「時々ね」
(ヒトラーはいっとき無言で会議室を見渡し、他の役員の肩に手を置き)
ヒトラー「君は?コーヒーを飲むかね?」
役員「あぁ」
ヒトラー「どこで買ってくるかね?」
役員「大抵はスターバックス」
ヒトラー「そのコーヒーに誰が責任を持つ?」
(一同、??)
ヒトラー「添加物に関しては誰が責任を持つ?もちろんスタルバックス氏ではない。スタルバックス氏は責任を取らない。誰も取ろうとしない。」
役員「・・確かに」
ヒトラー「だから変革が必要なのだ。指導者は明確に責任を持たねばならない。ドイツは思い出すべきだ!アウトバーンはどこかの道化によって作られたのではない!違う!作ったのは総統だ!ゆうべにパンを食べるときは、誰が焼いたか知らねばならない。朝、チェコスロバキアに進軍する時は、総統が命じたと知らねばならない。」
======【テキスト起こし】======
「モノマネ芸人がテレビ局に演説ネタを売り込みに来た」と思って笑う役員がいる一方で、その演説内容や力強さに関心する役員がいるのです。この作中で、人種差別政策や迫害政策以外の、ヒトラーの政治的主張に正面から反対、反論する人はほぼ出てこなかったかと思います。
そこが怖いのです。
高速道路からコーヒー、パンに至るまで、国民が利用する全ての物について、指導者が明確に責任を持たなければならない、という思考方法。ヒトラーが復活する土壌はここにあります。
これは、商品やサービスで何かトラブルがあった時は誰かが対処してくれたらいいのになぁ、誰かが安全性を保障してくれたらいいのになぁ、いっそのこと商品やサービスを選んで私に提供してくれたらいいのになぁ、という国民の甘え・依存心に呼応するものです。
高速道路の建設からコーヒーの安全性に至るまで、全てのものに指導者の責任を求める国民の声が、最終的には、指導者に全てのものの決定権限を委ねることに繋がります。
政府・指導者への権限の集中が、大規模な迫害、虐殺を可能にしました。権限が大きくなり、その範囲が広大になれば、いざ指導者が間違った何かをしようとしても誰もこれを止められません。社会保障政策や労働政策、経済政策を迅速かつ力強く実施してもらうためには指導者の広範な権限を予め認めておく必要がありますが、この権限を他に転用したとしても待ったをかけられないのです。また、指導者の定めた社会経済政策に反対の少数派がいたとしても、その声は無視されることとなり、個人主義はその分後退することになります。
フロムの『自由からの逃走』をふと思い出しました。
指導者に何でも決めてもらい、責任を取って欲しいと願う国民の声が、虐殺や迫害の生みの親なのです。虐殺や迫害を可能にする強力な権限と、虐殺や迫害の歯止めとなるべき個人主義の後退を招くのが、「指導者の明確な責任による政策遂行」なのです。
国民の声を反映させて決めたとしても、国民の声に従ったものだと言い張る指導者が決めたとしても、いずれにせよ、その決まった事を政府が一律に全国民に適用するという点では同じです。一つの意思決定内容を多種多様な考え・価値観を持つ人に適用するのは、全体主義的な手法です。
公平・公正な選挙制度、国会における審議機能などによって民主制がいかに充実しようとも、そこで決まるのは単一のルール。単一のルールを適用する事に適した分野と、そうでない分野とがあります。実のところ、単一のルールに適した分野なんてそうそうありません。
何か問題が起きた時に
「これは社会的な問題だ!」
と騒ぎ政府の責任の下で規制を求める声が沸き起こりますが、いやいやいや、個人や企業において個別に対応すれば済むだろう、こっちの方が効率的で素早くベターな解決に導けるだろうと思うわけです。
国民が決めたものでも、指導者が決めたものでも、一つの意思決定内容を国民全体に適用する領域そのものを少なくしなければなりません。パンやコーヒーの中身も政府が決めるのではなく、各メーカーが提供し、消費者が選択する中で決めればそれで良いのです。
これは、ドイツのコメディ映画の中の話だけで済む話ではありません。
現代日本においても、個人の選択の自由を放棄して消費先を民主主義的に決めて問題ないと暗に主張する意見が登場したり、
〇「お盆に帰省していいのか、ダメなのか」それすら明言しない安倍政権の責任逃れ
という記事が掲載されたり、と、指導者の責任と指示を求める声は至る所に存在します。惨事を招いた戦前ドイツを笑えない状況になっています。
また、
「ヒトラーは正しい財政・金融政策をしていた」
などと言う人も。
これが誤りのもと。ヒトラーは、迫害政策のみならず、財政・金融政策も込みで全体主義的政策を推し進め、各政策が相互に個人主義・自由主義を侵食していったのです。
政府に極力何もさせない事が、自由を保障する上で重要なことです。民主的な政府であれ、強い指導者に導かれた政府であれ、選択肢が幾つもある中でわざわざ政府が一つの選択肢に絞る必要性はそうそうありません。
そして、様々な分野にまたがる広範で強力な権限を政府に持たせる事は、危険なのです。
作中、ヒトラーはしきりに民主主義と政治を強調していました。この民主主義と政治の力を強化することは、実は、全体主義への最短ルートだったりします。
そんなこんなで、色々考えさせられつつ、でもコメディ要素も豊富なこの『帰ってきたヒトラー』。ちょっと前の作品ですが、機会があれば是非ご覧ください。
〇帰ってきたヒトラー : 作品情報 - 映画.com
======【引用ここから】======
ヒトラーが現代によみがえり、モノマネ芸人として大スターになるというドイツのベストセラー小説を映画化。服装も顔もヒトラーにそっくりの男がリストラされたテレビマンによって見出され、テレビに出演させられるハメになった。男は戸惑いながらも、カメラの前で堂々と過激な演説を繰り出し、視聴者はその演説に度肝を抜かれる。かつてのヒトラーを模した完成度の高い芸として人々に認知された男は、モノマネ芸人として人気を博していくが、男の正体は1945年から21世紀にタイムスリップしたヒトラー本人だった。ヒトラー役を演じるのは、舞台俳優オリバー・マスッチ。
======【引用ここまで】======
現代に復活したヒトラーが、1940年代と2010年代のギャップに戸惑い、モノマネ芸人と勘違いされつつも、SNSやテレビを通じ、その演説とカリスマによって再び現代のドイツ国民の人気を得ていくという、ちょっと背筋の寒くなるブラックなコメディです。
ヒトラーに対し、その人種差別政策や迫害政策、残忍な性格に強い反感を示す人々がいる一方で、外国人問題に悩む人々は排外主義的な内心を打ち明け、「強い指導者」の復活を歓迎します。
この映画の中で私が怖いと思ったのが、人種差別政策や迫害政策以外の、ヒトラーが行った諸政策については登場するドイツ国民が皆好意的に捉えていて、誰も反論しないというところです。
例えば。
前半のとある場面
======【テキスト起こし】======
(テレビ局にて、突然、会議室に入るヒトラー。会議室では役員が打合せ中。)
局長「状況はそんなに絶望的だったの?」
ヒトラー「あなたは正しい」
局長「何が?」
ヒトラー「状況は絶望的だ。ともに手を携えてドイツを救おう」
副局長「それはいいな。アドルフ、面接は終わりだ、帰ろう」
局長「まぁいいから。で、どうやって救うの?」
ヒトラー「あなたはコーヒーを飲むか?」
局長「時々ね」
(ヒトラーはいっとき無言で会議室を見渡し、他の役員の肩に手を置き)
ヒトラー「君は?コーヒーを飲むかね?」
役員「あぁ」
ヒトラー「どこで買ってくるかね?」
役員「大抵はスターバックス」
ヒトラー「そのコーヒーに誰が責任を持つ?」
(一同、??)
ヒトラー「添加物に関しては誰が責任を持つ?もちろんスタルバックス氏ではない。スタルバックス氏は責任を取らない。誰も取ろうとしない。」
役員「・・確かに」
ヒトラー「だから変革が必要なのだ。指導者は明確に責任を持たねばならない。ドイツは思い出すべきだ!アウトバーンはどこかの道化によって作られたのではない!違う!作ったのは総統だ!ゆうべにパンを食べるときは、誰が焼いたか知らねばならない。朝、チェコスロバキアに進軍する時は、総統が命じたと知らねばならない。」
======【テキスト起こし】======
「モノマネ芸人がテレビ局に演説ネタを売り込みに来た」と思って笑う役員がいる一方で、その演説内容や力強さに関心する役員がいるのです。この作中で、人種差別政策や迫害政策以外の、ヒトラーの政治的主張に正面から反対、反論する人はほぼ出てこなかったかと思います。
そこが怖いのです。
高速道路からコーヒー、パンに至るまで、国民が利用する全ての物について、指導者が明確に責任を持たなければならない、という思考方法。ヒトラーが復活する土壌はここにあります。
これは、商品やサービスで何かトラブルがあった時は誰かが対処してくれたらいいのになぁ、誰かが安全性を保障してくれたらいいのになぁ、いっそのこと商品やサービスを選んで私に提供してくれたらいいのになぁ、という国民の甘え・依存心に呼応するものです。
高速道路の建設からコーヒーの安全性に至るまで、全てのものに指導者の責任を求める国民の声が、最終的には、指導者に全てのものの決定権限を委ねることに繋がります。
政府・指導者への権限の集中が、大規模な迫害、虐殺を可能にしました。権限が大きくなり、その範囲が広大になれば、いざ指導者が間違った何かをしようとしても誰もこれを止められません。社会保障政策や労働政策、経済政策を迅速かつ力強く実施してもらうためには指導者の広範な権限を予め認めておく必要がありますが、この権限を他に転用したとしても待ったをかけられないのです。また、指導者の定めた社会経済政策に反対の少数派がいたとしても、その声は無視されることとなり、個人主義はその分後退することになります。
フロムの『自由からの逃走』をふと思い出しました。
指導者に何でも決めてもらい、責任を取って欲しいと願う国民の声が、虐殺や迫害の生みの親なのです。虐殺や迫害を可能にする強力な権限と、虐殺や迫害の歯止めとなるべき個人主義の後退を招くのが、「指導者の明確な責任による政策遂行」なのです。
【単一制度を国民全体に適用する民主制の危険性】
このように、ヒトラーの政策は国民の声、願望に支えられていました。そういう意味で、ヒトラーは民主主義者です。この映画でも、作中、ヒトラーは民主主義という言葉を何度も用いています。国民の声を反映させて決めたとしても、国民の声に従ったものだと言い張る指導者が決めたとしても、いずれにせよ、その決まった事を政府が一律に全国民に適用するという点では同じです。一つの意思決定内容を多種多様な考え・価値観を持つ人に適用するのは、全体主義的な手法です。
公平・公正な選挙制度、国会における審議機能などによって民主制がいかに充実しようとも、そこで決まるのは単一のルール。単一のルールを適用する事に適した分野と、そうでない分野とがあります。実のところ、単一のルールに適した分野なんてそうそうありません。
何か問題が起きた時に
「これは社会的な問題だ!」
と騒ぎ政府の責任の下で規制を求める声が沸き起こりますが、いやいやいや、個人や企業において個別に対応すれば済むだろう、こっちの方が効率的で素早くベターな解決に導けるだろうと思うわけです。
国民が決めたものでも、指導者が決めたものでも、一つの意思決定内容を国民全体に適用する領域そのものを少なくしなければなりません。パンやコーヒーの中身も政府が決めるのではなく、各メーカーが提供し、消費者が選択する中で決めればそれで良いのです。
これは、ドイツのコメディ映画の中の話だけで済む話ではありません。
現代日本においても、個人の選択の自由を放棄して消費先を民主主義的に決めて問題ないと暗に主張する意見が登場したり、
〇「お盆に帰省していいのか、ダメなのか」それすら明言しない安倍政権の責任逃れ
という記事が掲載されたり、と、指導者の責任と指示を求める声は至る所に存在します。惨事を招いた戦前ドイツを笑えない状況になっています。
また、
「ヒトラーは正しい財政・金融政策をしていた」
などと言う人も。
これが誤りのもと。ヒトラーは、迫害政策のみならず、財政・金融政策も込みで全体主義的政策を推し進め、各政策が相互に個人主義・自由主義を侵食していったのです。
政府に極力何もさせない事が、自由を保障する上で重要なことです。民主的な政府であれ、強い指導者に導かれた政府であれ、選択肢が幾つもある中でわざわざ政府が一つの選択肢に絞る必要性はそうそうありません。
そして、様々な分野にまたがる広範で強力な権限を政府に持たせる事は、危険なのです。
作中、ヒトラーはしきりに民主主義と政治を強調していました。この民主主義と政治の力を強化することは、実は、全体主義への最短ルートだったりします。
そんなこんなで、色々考えさせられつつ、でもコメディ要素も豊富なこの『帰ってきたヒトラー』。ちょっと前の作品ですが、機会があれば是非ご覧ください。