【殺人事件を利用して自説展開】
川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい(藤田孝典) - 個人 - Yahoo!ニュース======【引用ここから】======
それを受けてネット上では早速、犯人らしき人物への非難が殺到しており、なかには「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」などの強い表現も多く見受けられる。
まず緊急で記事を配信している理由は、これらの言説をネット上で流布しないでいただきたいからだ。
次の凶行を生まないためでもある。
秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは「社会に対する怨恨」「幸せそうな人々への怨恨」である。
要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。
類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。
======【引用ここまで】======
事情はどうあれ、他者に対するセリフを
「死ぬべき」
「死ね」
で結ぶと、どぎつい印象を与えます。
「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」
「死ぬなら迷惑かけずに死ね」
等の表現から受ける印象は、確かに良くありません。
しかし、その前段にある
「人を巻き込まずに」
「迷惑かけずに」
の部分はどうでしょうか。
「凶行に自分は巻き込まれたくない、他人を巻き込んでほしくない、被害者が巻き込まれてしまった事が非常に残念だ」
という恐怖・願い・思いは、ほぼ全ての人に共通しているはずです。
殺人の被疑者に対する非難感情が上がるのも当然です。
こうした「他人を巻き込むな」という当然な意見に対し、ほっとプラス藤田は、次の凶行を招くものとして批判しています。
しかし、これを正しくありません。
正しいと判断するには、疑問を2つ解消する必要があります。
疑問の1つ目が、例として挙げている秋葉原無差別殺傷事件などの過去の殺傷事件の原因が、本当に「社会に対する怨恨」なのか?(秋葉原無差別殺傷事件の原因として、誰も手を差し伸べず、社会的に孤立していたことについて否定的な見解もあります。)
そして2つ目が、仮に過去の殺傷事件の原因が「社会に対する怨恨」だとしても、今回の事件が過去の殺傷事件と同一・類似の原因や背景を持つものなのか?
何も分かっていない時点で、今回の事件の原因や背景について
「社会が何もしてくれなかったから今回の犯行に及んだのだ」
と推測し、過去の無差別殺傷事件と類似の事件であると誘導し、憶測を元に
「『死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき』と言うべきでない」
とニュースとして流す。
そして「社会はあなたを大事にしている、というメッセージが予防につながる」と無根拠で自説を述べる神経が、私には理解できません。
【早すぎる安易な意見】
======【引用ここから】======藤田孝典 | NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学人間福祉学部客員准教授 5/28(火) 13:10
報道の通り、5月28日(火)朝方、川崎市で多くの子どもが刺殺、刺傷される事件が発生した。
現時点では被害状況の一部しか判明していないため、事実関係は明らかではないが、犯人らしき人物が亡くなったことも報道されている。
======【引用ここまで】======
お分かりいただけるでしょうか。
5月28日の朝に事件が発生し、ここから数時間しか経過していない13時、事実関係も背景も何も分かっていない時点で、ほっとプラス藤田は憶測でニュース記事を配信しているのです。
彼は、様々な事件や出来事に対し、短絡的に
「低所得が原因」
「企業が悪い」
「社会が悪い」
という持論に結びつける傾向にあります。
最近では、小学生の学力と世帯収入の表を見て相関関係と因果関係を誤認し
「学歴とか成績は努力や頑張りではなく、親が金を出して買える商品になった日本。」
と述べるなど、その安易さ、安直さに拍車がかかっています。
仮にも「聖学院大学人間福祉学部客員准教授」の肩書きを表に出している学者であるならば、
「何が起きたのか」
「何が目的だったのか」
「人間関係はどうだったのか」
「どういう心理状態だったのか」
を把握、分析した上でコメントを述べるのが筋でしょう。
しかし、被害状況の一部しか判明しておらず、事実関係も明らかになっていない(と自身でも認めている)段階であるにもかかわらず、憶測から主張を展開していつもの「社会に問題がある」との持論に着地させているのです。
彼は事実を調査し分析した上で結論を出す学者としての能力・姿勢を持ち合わせておらず、日ごろの持論を述べるために今回の事件を利用しているにすぎません。そういう意味で、彼は学者ではなく活動家・煽動者です。そういう論理性皆無の人物に、客員准教授の肩書きを与えている大学の見識を疑います。
【「社会」とは何か】
ところで、皆さんは、社会と聞いてどんなイメージや考えを持ってますか。私は、社会とは、人と人の繋がり、人と人の関連性、人と人が交わる場、そういったイメージを持っていました。
ところが、ほっとプラス藤田は違います。
======【引用ここから】======
要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。
類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。
・・・(中略)・・・
そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。
======【引用ここまで】======
「社会は辛い自分に何もしてくれない」
「社会は手を差し伸べる」
「社会はあなたを大事にしている」
「社会はあなたの命を軽視していない」
・・・まるで、「社会」が何らかの実体を持っており、「社会」が意思を持ち、「社会」が具体的に行為をする主体であるかのような言い回しがズラリと並んでいます。
しかし、物を考え、行為をするのは個々の人です。
今回の事件を起こしたのも個人。
残念ながら被害をうけたのも個人。
犯行まで被疑者に日々接していたのも個人。
あなたを大事に思うのも個人、あなたの命を軽視するのも個人。
あなたの辛い時に手を差し伸べたのも個人、差し伸べなかったのも個人。
今回の事件においても、被疑者、被害者、それぞれの家族や親族、近隣住民、そういった各個人の性質や経歴、個々人の関連性の有無を見ていった中で、犯行の原因や背景が見えてきます。仮に企業、団体が事件に影響していたとしても、その組織としての意思決定をするのも最終的には個人ですし、組織としての行為を実際に行うのも個人です。
個人の経歴、性質や個々人の関連性を検討し事件の背景を分析した中で、最終的に
「本件は社会の中における被疑者の居場所が~」
との結論に至ることはあり得るでしょう。
しかし、結論に至る前の検討・分析の過程で「社会」を持ち出すと、とたんに焦点がぼやけてしまい、事の真相にたどり着くのを妨げてしまいます。
分析段階において
「社会が手を差し伸べてくれなかったから犯行が起きた」
といった意見が出されると、対象が広く曖昧であるために雲を掴むような話になり、何も判明していないのに無理矢理納得させられた気分がしませんか。
「いやいやいや、具体的にどういうことよ。何か誤魔化そうとしてないか?」
と疑ってしまうのは私だけでしょうか。
ほっとプラス藤田は
「次の凶行を生まないため」
と言っていますが、事件の原因を安易に「社会への怨恨」と推測すると真相解明の妨げとなります。ほっとプラス藤田の主張は現実を踏まえたものではなく、これを再発防止につなげることは難しいでしょう。
※追記
久々に見たあの人
相変わらずで何より。
ほっとプラス藤田と同じ穴の狢。