雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

松坂、メジャーへ

2006-11-02 13:30:04 | スポーツ
松坂の会見は、実にさわやかであった。

とうとう、メジャーへ行く。
間違いなく、海の向こうでも、期待通りの活躍を見せるだろう。

彼には、実力とともに運もある。

春夏連続の優勝、それも一つは、ノーヒットノーランで達成した。
今年の春は、WBCで世界一になり、MVPにもなった。
決勝リーグに出られたのは、運が良かったからだと思う。

本当に大スターとしての道を、一筋に自分の努力と運で突き進んでいる。

日本のスター選手が大リーグに行くことを、日本のプロ野球の人気が下がり衰退に繋がると、反対する意見もあるが果たしてそうだろうか。

日本のプロ野球のレベルも、相当なところに来ていると思う。
大リーグとの野球技術のレベルの差は、今は未だあると思うが、もう少しで追いつけるのではないか。

むしろ、球団経営の質の差を縮める努力こそ望まれる。
日本の経営陣の旧態依然とした考え方が、プロ野球の発展を抑えているようにも思う。

選手の技術レベルは、スター選手が居なくなることで、また新しい素材が成長するのだと思う。
それがまた、全体のレベルを押し上げる。

かっての巨人の一塁手のように、川上と王の二人で、その位置を何年間独占し続けたことか。
その間、何人もの逸材といわれた人たちが消えていった。

松坂の会見で言った言葉。
出て行く人がいれば、新しい風を吹かせてくれる人もいる。今までもそうだった。

その通りだと思う。
西武のショートがいい例である。

松坂のアメリカでの頑張りと、松坂に代わるスターの出現に期待したい。


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カワサキが初めて鈴鹿を走った日

2006-11-02 09:13:10 | M/Cレース

★1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。

当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。

4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。

当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。

メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。

あまり大きな声では言えないが、2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

★モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある北陸の塩本にも出場を要請したのである。
案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。

駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆はは、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,佐藤(佐藤ではなくて鈴木だったようです)であった。

結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?

当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。

終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。

雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。

私は、現場には行っていなかったが、

チームマネージャーの川合さんから、5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

★カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助けとなった。 本当に何かの運である。

3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、

一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参加を認めることになったのである。

約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤、飯原(いずれもキヨさんの先輩ライダーである)は決まったのだが、

関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。

そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできyたのが、金谷秀夫なのである。 このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

★ もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。

このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれた内田さん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。

こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。

 

●不思議なことだが、カワサキが初めて鈴鹿を走ったのは、1965年5月3日、ライダーは、後全日本モトクロスチャンピオンを3年連続で獲得した山本隆君

●1ヶ月後のアマチュア6H耐久の監督は、Z1の開発責任者の大槻幸雄さん、副監督が田崎雅元さん(のち川重社長)である。

●走ったマシンは90cc、  この耐久レースヤマハは確か鈴木忠さん、スズキは菅家などみんなモトクロスライダーが走ったのである。タイムは3分20秒は切れなかったと思う。

コメント (1)
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