SPA直入物語ー2
いろいろあったが、テストコース建設のための土地は購入されたのである。
現在SPA直入はどちらも1.43キロのオンロードコースとアドベンチャ林間コースの二つで運営されているが、
これは所有の土地のほんの一部を使用したもので、土地全体は4キロのテストコースが十分に取れる広大な広さなのである。
土地は購入したものの、80年に入る頃は事業部の経営は非常に苦しく大規模なテストコースなどとても建設できる余裕のない状況に至ったのである。
購入後の約10年間は地元直入町とのいろいろな交渉の連続であった。
土地の購入条件はいろいろあって、各年次にその条件に従って道の整備など細かいところは約束どおり履行できたのだが、
問題はベースのテストコースの建設が止まってしまっているので、根本的な問題の解決には程遠いのである。
特に人の雇用問題は大変であった。
年に何回か、直入町長以下が明石に来られてその交渉が行われていた。
小さな工場を運営していたこともあって、会社側は酒井勉工場長が当時担当されていて、毎回大変であったようである。
その間、モーターサイクルの性能はどんどん高性能化して、最高速などは300キロ近くにもなり、4キロのテストコースでは役に立たない状況になってきて、いよいよテストコースの建設は見込みが立たない状況になるのである。
その後企画を担当したが、酒井さんが担当されていて直接の関わりはなかったのだが、長期的に見てやっかいな問題ではあったのである。
88年に私は営業に異動し、直入問題は柏木茂企画室長に移管された。
その後も、直入町長以下の交渉は続き、直入町のしいたけを購入するなどの苦しい対応をしていたのだが、何か土地のいい利用方法はないかと若手のプロジェクトで検討も続けられていた。
88年3月8日に柏木さんがモトクロス場にしたいのだが運営を考えてくれないかと相談があった。
モトクロス場だけでは維持管理が難しいし、小型のサーキットでも出来ないかと、その日に岡山にある中山サーキットを前田祐作、岩崎茂樹,今城公徳君を連れて観に行ったのである。
これがSPA直入計画のスタートである。
3月11日に「大分コース提案」として纏めて、高橋本部長の了解を得て正式にスタートしたのである。
いろいろあったが、テストコース建設のための土地は購入されたのである。
現在SPA直入はどちらも1.43キロのオンロードコースとアドベンチャ林間コースの二つで運営されているが、
これは所有の土地のほんの一部を使用したもので、土地全体は4キロのテストコースが十分に取れる広大な広さなのである。
土地は購入したものの、80年に入る頃は事業部の経営は非常に苦しく大規模なテストコースなどとても建設できる余裕のない状況に至ったのである。
購入後の約10年間は地元直入町とのいろいろな交渉の連続であった。
土地の購入条件はいろいろあって、各年次にその条件に従って道の整備など細かいところは約束どおり履行できたのだが、
問題はベースのテストコースの建設が止まってしまっているので、根本的な問題の解決には程遠いのである。
特に人の雇用問題は大変であった。
年に何回か、直入町長以下が明石に来られてその交渉が行われていた。
小さな工場を運営していたこともあって、会社側は酒井勉工場長が当時担当されていて、毎回大変であったようである。
その間、モーターサイクルの性能はどんどん高性能化して、最高速などは300キロ近くにもなり、4キロのテストコースでは役に立たない状況になってきて、いよいよテストコースの建設は見込みが立たない状況になるのである。
その後企画を担当したが、酒井さんが担当されていて直接の関わりはなかったのだが、長期的に見てやっかいな問題ではあったのである。
88年に私は営業に異動し、直入問題は柏木茂企画室長に移管された。
その後も、直入町長以下の交渉は続き、直入町のしいたけを購入するなどの苦しい対応をしていたのだが、何か土地のいい利用方法はないかと若手のプロジェクトで検討も続けられていた。
88年3月8日に柏木さんがモトクロス場にしたいのだが運営を考えてくれないかと相談があった。
モトクロス場だけでは維持管理が難しいし、小型のサーキットでも出来ないかと、その日に岡山にある中山サーキットを前田祐作、岩崎茂樹,今城公徳君を連れて観に行ったのである。
これがSPA直入計画のスタートである。
3月11日に「大分コース提案」として纏めて、高橋本部長の了解を得て正式にスタートしたのである。