KSS物語ー2(1989年度)
新しい会社の設立で中心となったコンセプト、「ソフトの事業化」について一番求められたのは企画力の強化である。
「ソフト機能の強化」とは、
「異質性を組み合わせる力の強化であり、コンセプトの組み上げ方のノウハウを提供する力の強化である」と定義されている。
既に、KAZEもレースもイベントもその他いろいろの販促策が夫々単一には実施されていた。
それらを組み合わせて如何に効力を発揮させるか、これは従来のタテ型の組織から実行される完結型のやり方では難しいのである。
個別のものをヨコに結び、更に高質化を図ることを目的として新会社は設立されたのである。
1989年の1年目の活動は個々のプロジェクトの質を高めることからまずスタートしている。
KAZE活動は既に6000人の会員がいたが、カワサキマニア中心のものであった。
より広い範囲でモータサイクルを持っていなくても関心のある人を集めようと切り換えた。
JCBと組んで会員カードに機能を持たせ、JCBカードを会員証とする業界初の試みとしてスタートした。
昨日家にKAZE機関紙VOL.180が届いたが、
第1号はバラバラのチラシを何枚か封筒に入れて89年春に発送されている。その後、製本の形をとり毎月発行を目標に継続された。
第3種郵便の認可をとって現在と同じ形になったのは、2年後の91年2月7日である。
毎月発行できるベースとしてのニュース源の確保が最大の課題ではあったが、いろんな活動の成果でネタは有り余るほどあった。
3月にはSPA直入が着工され、1989年4月1日㈱ケイスポーツシステムは正式にスタートを切ったのである。
レース活動は、この年はまだスポーツ推進部で担当し実施されていたが、OB会でのハッパが効いたのか好成績が続いた。
3月には鈴鹿の2&4で宗和が3位になり、4月にはフランス遠征した「ルマン24H」で宗和、多田が3位入賞を果たした。
4耐はジュニアでBEETの高橋等が優勝、
6耐ではジュニア北川、鶴田も優勝を飾り、藤坂、林が2位に入った
8耐では塚本、前田が4位に入賞した。
好成績を収めたのはファクトリーを支えるチームグリーンの活動が主体であった。
5月にはZEPHYRの発売が開始され、販売は絶好調の月々が続いた。
MCだけでなくジェットスキーについても本格的な販売網政策とJJSBA対策を開始した。
KAZE対策としては各営業所にKAZE担当者を置き会員募集と活動の強化を図った。
6000名の会員は年末には倍増の12000名になっている。
9月からは、安全運動活動を本格化するため、当時鈴鹿8耐などの常連であった二輪専門の教習所阪神ライデングスクールの有馬社長と組んで種々の対策をスタートさせた。
10月には新販売網ARK(Authorized & Riliable shop of Kawasaki)構想、レタリング、看板などを発表したり、オータムフェスタin Akasi、岡山新ショップ構想など話題性のある業界初の試みを連発している。
12月には当時世界一であったフランスの耐久チームのスポンサードをKAZEが引き受けるなど新しい試みにチャレンジしている。
これらのいろんな話題やイベントをそれだけで終わらせることなく、どんどん繋いでその効果を更に倍増させてゆく新しい動きは業界から注目を浴びだした。
いろんなところで採り上げられ、日経ビジネス7月号には特集記事として掲載されたりもした。
社内でも話題になり、川重の関係会社社長会の席上でKSSの活動としてKAZE、レース活動などを発表して話題となったのである。
グループの各部門の諸活動をコンセプト通り「ヨコに結んで高質化を図るというソフト活動」は初年度、KSSの南常務以下数名の少人数での活動であった。
これら初年度の基礎部分の対策は、2年目以降更に大きく飛躍する可能性を約束するものとなったのである。
グループとしても充実した新規活動初年度であった。
新しい会社の設立で中心となったコンセプト、「ソフトの事業化」について一番求められたのは企画力の強化である。
「ソフト機能の強化」とは、
「異質性を組み合わせる力の強化であり、コンセプトの組み上げ方のノウハウを提供する力の強化である」と定義されている。
既に、KAZEもレースもイベントもその他いろいろの販促策が夫々単一には実施されていた。
それらを組み合わせて如何に効力を発揮させるか、これは従来のタテ型の組織から実行される完結型のやり方では難しいのである。
個別のものをヨコに結び、更に高質化を図ることを目的として新会社は設立されたのである。
1989年の1年目の活動は個々のプロジェクトの質を高めることからまずスタートしている。
KAZE活動は既に6000人の会員がいたが、カワサキマニア中心のものであった。
より広い範囲でモータサイクルを持っていなくても関心のある人を集めようと切り換えた。
JCBと組んで会員カードに機能を持たせ、JCBカードを会員証とする業界初の試みとしてスタートした。
昨日家にKAZE機関紙VOL.180が届いたが、
第1号はバラバラのチラシを何枚か封筒に入れて89年春に発送されている。その後、製本の形をとり毎月発行を目標に継続された。
第3種郵便の認可をとって現在と同じ形になったのは、2年後の91年2月7日である。
毎月発行できるベースとしてのニュース源の確保が最大の課題ではあったが、いろんな活動の成果でネタは有り余るほどあった。
3月にはSPA直入が着工され、1989年4月1日㈱ケイスポーツシステムは正式にスタートを切ったのである。
レース活動は、この年はまだスポーツ推進部で担当し実施されていたが、OB会でのハッパが効いたのか好成績が続いた。
3月には鈴鹿の2&4で宗和が3位になり、4月にはフランス遠征した「ルマン24H」で宗和、多田が3位入賞を果たした。
4耐はジュニアでBEETの高橋等が優勝、
6耐ではジュニア北川、鶴田も優勝を飾り、藤坂、林が2位に入った
8耐では塚本、前田が4位に入賞した。
好成績を収めたのはファクトリーを支えるチームグリーンの活動が主体であった。
5月にはZEPHYRの発売が開始され、販売は絶好調の月々が続いた。
MCだけでなくジェットスキーについても本格的な販売網政策とJJSBA対策を開始した。
KAZE対策としては各営業所にKAZE担当者を置き会員募集と活動の強化を図った。
6000名の会員は年末には倍増の12000名になっている。
9月からは、安全運動活動を本格化するため、当時鈴鹿8耐などの常連であった二輪専門の教習所阪神ライデングスクールの有馬社長と組んで種々の対策をスタートさせた。
10月には新販売網ARK(Authorized & Riliable shop of Kawasaki)構想、レタリング、看板などを発表したり、オータムフェスタin Akasi、岡山新ショップ構想など話題性のある業界初の試みを連発している。
12月には当時世界一であったフランスの耐久チームのスポンサードをKAZEが引き受けるなど新しい試みにチャレンジしている。
これらのいろんな話題やイベントをそれだけで終わらせることなく、どんどん繋いでその効果を更に倍増させてゆく新しい動きは業界から注目を浴びだした。
いろんなところで採り上げられ、日経ビジネス7月号には特集記事として掲載されたりもした。
社内でも話題になり、川重の関係会社社長会の席上でKSSの活動としてKAZE、レース活動などを発表して話題となったのである。
グループの各部門の諸活動をコンセプト通り「ヨコに結んで高質化を図るというソフト活動」は初年度、KSSの南常務以下数名の少人数での活動であった。
これら初年度の基礎部分の対策は、2年目以降更に大きく飛躍する可能性を約束するものとなったのである。
グループとしても充実した新規活動初年度であった。