源平芸能合戦出場
ホントに単車がスタートしたばかりの昔話である。
「源平芸能合戦」、福助足袋がスポンサーの当時TVの人気番組であった。
1964年8月22日のことだから40年以上前の話である。「知ってる」と答える人は50代以上の方だろう。
出場2チームが夫々4種目ずつ自慢の芸能を披露し、その点数を競うという内容の番組であった。
「ゴールデンタイムのTV番組にタダで出場出来ますよ。」と言うある広告代理店のお誘いに乗って始まった。8月8日のことである。
「タダで出場できる」 が魅力で飛びついたのだが、4種目ぐらいの芸能は簡単に何とかなると思っていたのが,そうはいかなかった。
忘年会などでの芸達者は幾らでもいるのだが、テレビ番組での芸能披露となると簡単ではなかった。
全国的にも「トップレベルの合唱団」が明石工場で組織されていて、これは直ぐ決まった。
手塚さんが「真剣での剣舞」をとこれも決まった。
岐阜工場に「ハワイアンバンド」があってこの出場をということになったが、演奏だけでは面白くないので「フラダンス」を添えようと、そこまでは決まった。
ところが、40年も前のことである。今では考えられないと思うが、出場してくれる女性を探すのが大変だった。
今川重の会長をしている田崎さんなども「口説く役割」を担当してくれて、何とか人数は揃ったが、腰蓑がどうのこうのとこれがまた大変だった。
後一つがどうにもならなくて、困り果てて広告代理店に頼み込んだら「少し金はかかるが」とのことだったが、吉本興業に頼み込んだのである。
吉本興業の企画案は、月を目指しているロケット宇宙時代を先取りした「かぐや姫の寸劇物語」という流石に素晴らしいもので、筋書きから演技指導も含めて手伝ってもらった。
フラダンスの演技指導もついでにお願いした。
本社の岩城常務の耳にも入り「うちは芸人を飼っているのではないから、芸に負けても、応援だけは負けるな」と妙なハッパもかかり、連日の応援練習が始まった。
応援の内容はその頃、藤田まことを起用して流していたテレビCMの「カ ぁちゃん,ワ ても、サ んせい、キーメタ。 カワサキ。」から流用して身振りよろしく声を張上げるという勇ましいものだった。。
前日の8月21日には、ABCのディレクターにわざわざ明石までも来てもらって「通し稽古」もした。
「こんな会社ははじめて」とABCも驚く熱の入れ方だったのである。
連日の練習の成果もあって、本番前の練習でも、応援は相手の「三洋電機」を圧倒して,よく揃って差は歴然であった。
いよいよ本番、四つの出し物も上手くいって、100点を越える高得点であったのだが、三洋も淡路浄瑠璃など抜群の演技で僅少差で負けてしまった。
「演技では負けたが、応援で勝ったからいいか。」と帰りのバスの中で自分を慰めていたが、後日テレビに映った画面を見て驚いた。
あれだけ揃って立派にこなせた応援も、テレビ写りはもう一つだし、声もそろってはいるがこれも映えないのである。
それに対して三洋の応援は、オリンピックの応援団よろしく階段にユニホーム姿の女性を並べて、ただ動いているだけでもう一つと思っていたら、これのほうが余程テレビ写りがいいのである。
動作の不揃いなどアップの映像になれば関係なく、美しいのである。
テレビの画面では、応援は完敗であった。
テレビに慣れている「スマートな三洋」と、「無骨な男、カワサキ」の差が歴然と出た勝負であった。
「タダでテレビ番組に出場できる」でスタートした企画であったが、
吉本興業への支払い、応援練習の夜食代、岩城常務に「よく頑張ったから、全員に記念品を」などいろいろあって、当時の金で300万円位掛かったのである。ちなみに、サラリーマンの年収50万ぐらいの頃のお話である。
かぐや姫役の上路さん、剣舞の手塚さん、ハワイアンの増木さん(津カワサキ)をはじめ合唱団や応援団など多くの人たちが参加してくれた。
応援団などで活躍してくれた田崎さんも私も、まだ「ぺいぺいの元気な頃」だった。
その後いろんなイベントに関係したが、これが一番神経をすり減らした私にとっては思い出多いイベントであった。
ホントに単車がスタートしたばかりの昔話である。
「源平芸能合戦」、福助足袋がスポンサーの当時TVの人気番組であった。
1964年8月22日のことだから40年以上前の話である。「知ってる」と答える人は50代以上の方だろう。
出場2チームが夫々4種目ずつ自慢の芸能を披露し、その点数を競うという内容の番組であった。
「ゴールデンタイムのTV番組にタダで出場出来ますよ。」と言うある広告代理店のお誘いに乗って始まった。8月8日のことである。
「タダで出場できる」 が魅力で飛びついたのだが、4種目ぐらいの芸能は簡単に何とかなると思っていたのが,そうはいかなかった。
忘年会などでの芸達者は幾らでもいるのだが、テレビ番組での芸能披露となると簡単ではなかった。
全国的にも「トップレベルの合唱団」が明石工場で組織されていて、これは直ぐ決まった。
手塚さんが「真剣での剣舞」をとこれも決まった。
岐阜工場に「ハワイアンバンド」があってこの出場をということになったが、演奏だけでは面白くないので「フラダンス」を添えようと、そこまでは決まった。
ところが、40年も前のことである。今では考えられないと思うが、出場してくれる女性を探すのが大変だった。
今川重の会長をしている田崎さんなども「口説く役割」を担当してくれて、何とか人数は揃ったが、腰蓑がどうのこうのとこれがまた大変だった。
後一つがどうにもならなくて、困り果てて広告代理店に頼み込んだら「少し金はかかるが」とのことだったが、吉本興業に頼み込んだのである。
吉本興業の企画案は、月を目指しているロケット宇宙時代を先取りした「かぐや姫の寸劇物語」という流石に素晴らしいもので、筋書きから演技指導も含めて手伝ってもらった。
フラダンスの演技指導もついでにお願いした。
本社の岩城常務の耳にも入り「うちは芸人を飼っているのではないから、芸に負けても、応援だけは負けるな」と妙なハッパもかかり、連日の応援練習が始まった。
応援の内容はその頃、藤田まことを起用して流していたテレビCMの「カ ぁちゃん,ワ ても、サ んせい、キーメタ。 カワサキ。」から流用して身振りよろしく声を張上げるという勇ましいものだった。。
前日の8月21日には、ABCのディレクターにわざわざ明石までも来てもらって「通し稽古」もした。
「こんな会社ははじめて」とABCも驚く熱の入れ方だったのである。
連日の練習の成果もあって、本番前の練習でも、応援は相手の「三洋電機」を圧倒して,よく揃って差は歴然であった。
いよいよ本番、四つの出し物も上手くいって、100点を越える高得点であったのだが、三洋も淡路浄瑠璃など抜群の演技で僅少差で負けてしまった。
「演技では負けたが、応援で勝ったからいいか。」と帰りのバスの中で自分を慰めていたが、後日テレビに映った画面を見て驚いた。
あれだけ揃って立派にこなせた応援も、テレビ写りはもう一つだし、声もそろってはいるがこれも映えないのである。
それに対して三洋の応援は、オリンピックの応援団よろしく階段にユニホーム姿の女性を並べて、ただ動いているだけでもう一つと思っていたら、これのほうが余程テレビ写りがいいのである。
動作の不揃いなどアップの映像になれば関係なく、美しいのである。
テレビの画面では、応援は完敗であった。
テレビに慣れている「スマートな三洋」と、「無骨な男、カワサキ」の差が歴然と出た勝負であった。
「タダでテレビ番組に出場できる」でスタートした企画であったが、
吉本興業への支払い、応援練習の夜食代、岩城常務に「よく頑張ったから、全員に記念品を」などいろいろあって、当時の金で300万円位掛かったのである。ちなみに、サラリーマンの年収50万ぐらいの頃のお話である。
かぐや姫役の上路さん、剣舞の手塚さん、ハワイアンの増木さん(津カワサキ)をはじめ合唱団や応援団など多くの人たちが参加してくれた。
応援団などで活躍してくれた田崎さんも私も、まだ「ぺいぺいの元気な頃」だった。
その後いろんなイベントに関係したが、これが一番神経をすり減らした私にとっては思い出多いイベントであった。