昨日、大西議員からコメントを頂いたのがきっかけで、「武雄市のブログ」を更新したのだが、
樋渡さんは早速「武雄市物語」に取り上げてご紹介頂いた上に、ブログにもコメントを頂いた。武雄のタケタクさんからもコメントを頂いたし、三木市の大西さんやジーン景虎さんからもコメントを頂いた。
何か、新たな広がりの気配も感じるし、自分の気持ちを纏めてお礼に代えさせて頂きたいと思います。
ブログには自分の想いを率直に書きたいと常に思っている。
私事だが、もう10年も前現役の最後の頃、
想いを共有する仲間たちの輪を繋ごうと「共感ネットワーキング」と称して10万人、100万人の輪にしようとの活動を展開したものである。
今もKAZEやNMCAにそんな思いが引き継がれているとは思うが、
最近改めてSNSなどといわれる時代になって、「タテ型の組織を越えたネットワーキング」のようなものが出来ないかと思うようになった。
インターネットという格好の中心を持たない仕組みが出現し、
ブログなどという知らない方とも自由に会話の出来る仕組みも出来て、
「何か共感できる、共感する仲間の輪」を拡げていけるそんな気持ちになっている。
武雄市や三木市のかたも、バイクやレースを愛するユーザーも、販売店の人たちや昔お世話になった人たちも、
タテ型で完結することなく、無限の広がりのあるヨコの世界で、特に枠をはめずに、
「何となく共感する仲間たち」が自然に集まるのは、何かの力になったり世の中のお役に立つのではと思ったりしている。
樋渡さんは今朝のコメントで、
「---ブログを書いている僕たちの仲間を勇気付けることになるでしょう。ブログと市民参加、そして情報共有。武雄は壮大な実験場となるかも知れません。」
更に
「三木市も市長さんが前向きな方なので、そうなっていくと思います。期待しています」と結んでおられる。
武雄と三木は何となく「共感できる」いろいろなものを持っていると思っている。
それは自治体という組織をこえて繋がり広がる可能性があるのではないか。
こんな夢みたいな話は非常に面白いと思っている。
タケタクさんとは以前にも何度かコメントを頂いた。いつもきれいなブログである。武雄のイメージ向上に間違いなく貢献されている。
三木の「はばカフェin三木 ~やっぱり、ぼちぼち息長く」というブログのジーン景虎さんからも「三木も捨てたもんではないですね」というコメントを頂いた。
ブログの大先輩で、ラジオなどいろんなカテゴリーで更新されているのだが、「三木市」というカテゴリーだけでも既に143本の記事が書かれている。
毎日、本当に沢山のコメントの入る人気ブログで、三木市長のブログにも何度かコメントを出されている。
ご自身のブログにも薮本さんの写真や、三木市政に関すること、イベントなどなど100回を越える記述があるのだが、残念ながら、三木市側からの反応は鈍いと言わざるを得ない。多分ご存知ないのだと思う。
この他にも「えみこな奮闘記」という三木市に直接関係のあるFMみっきいやホースランドなどのお仕事をスパイシー三木さんと一緒にやっておられる方のブログもあって、そのプロフィールの出身地に「神戸の隣の田舎町、人に聞かれたときわかってもらえないので神戸と答えます。」と書かれています。
このほか昨日ご紹介した市会議員さんのブログ。
最近、お世話になっているオンブズマン三木。
三木市では、
市長の週末日記
お庭番日記
市民ふれあい部長の小西さんのブログ。4月まで教育委員会におられてお世話になった。お話をするとホントに面白いのにブログになると少し固すぎるかな。電話で「お喋りになるまま書かれたら。」とつい言ってしまいました。そう言える雰囲気をお持ちです。「新しい風」を期待したい。
まちづくり部長の西山さんのブログ。想いいっぱいのブログです。
そのほか、
理事のブログ、技監のブログ、参与ブログ、
企画管理部長,健康福祉部長、産業観光部長さんなどの各部長のブログがあって、こんなに揃っているのは、全国でも三木市が一番と思っている。
ジーン景虎さんが言われるように、今後新しい仲間を増やし機能してゆけば
「三木も、捨てたもんではないのである」
いつか、神戸のとなりの田舎町と言わなくても、堂々と「三木市です」と言えるようになりたいものである。
樋渡さんは早速「武雄市物語」に取り上げてご紹介頂いた上に、ブログにもコメントを頂いた。武雄のタケタクさんからもコメントを頂いたし、三木市の大西さんやジーン景虎さんからもコメントを頂いた。
何か、新たな広がりの気配も感じるし、自分の気持ちを纏めてお礼に代えさせて頂きたいと思います。
ブログには自分の想いを率直に書きたいと常に思っている。
私事だが、もう10年も前現役の最後の頃、
想いを共有する仲間たちの輪を繋ごうと「共感ネットワーキング」と称して10万人、100万人の輪にしようとの活動を展開したものである。
今もKAZEやNMCAにそんな思いが引き継がれているとは思うが、
最近改めてSNSなどといわれる時代になって、「タテ型の組織を越えたネットワーキング」のようなものが出来ないかと思うようになった。
インターネットという格好の中心を持たない仕組みが出現し、
ブログなどという知らない方とも自由に会話の出来る仕組みも出来て、
「何か共感できる、共感する仲間の輪」を拡げていけるそんな気持ちになっている。
武雄市や三木市のかたも、バイクやレースを愛するユーザーも、販売店の人たちや昔お世話になった人たちも、
タテ型で完結することなく、無限の広がりのあるヨコの世界で、特に枠をはめずに、
「何となく共感する仲間たち」が自然に集まるのは、何かの力になったり世の中のお役に立つのではと思ったりしている。
樋渡さんは今朝のコメントで、
「---ブログを書いている僕たちの仲間を勇気付けることになるでしょう。ブログと市民参加、そして情報共有。武雄は壮大な実験場となるかも知れません。」
更に
「三木市も市長さんが前向きな方なので、そうなっていくと思います。期待しています」と結んでおられる。
武雄と三木は何となく「共感できる」いろいろなものを持っていると思っている。
それは自治体という組織をこえて繋がり広がる可能性があるのではないか。
こんな夢みたいな話は非常に面白いと思っている。
タケタクさんとは以前にも何度かコメントを頂いた。いつもきれいなブログである。武雄のイメージ向上に間違いなく貢献されている。
三木の「はばカフェin三木 ~やっぱり、ぼちぼち息長く」というブログのジーン景虎さんからも「三木も捨てたもんではないですね」というコメントを頂いた。
ブログの大先輩で、ラジオなどいろんなカテゴリーで更新されているのだが、「三木市」というカテゴリーだけでも既に143本の記事が書かれている。
毎日、本当に沢山のコメントの入る人気ブログで、三木市長のブログにも何度かコメントを出されている。
ご自身のブログにも薮本さんの写真や、三木市政に関すること、イベントなどなど100回を越える記述があるのだが、残念ながら、三木市側からの反応は鈍いと言わざるを得ない。多分ご存知ないのだと思う。
この他にも「えみこな奮闘記」という三木市に直接関係のあるFMみっきいやホースランドなどのお仕事をスパイシー三木さんと一緒にやっておられる方のブログもあって、そのプロフィールの出身地に「神戸の隣の田舎町、人に聞かれたときわかってもらえないので神戸と答えます。」と書かれています。
このほか昨日ご紹介した市会議員さんのブログ。
最近、お世話になっているオンブズマン三木。
三木市では、
市長の週末日記
お庭番日記
市民ふれあい部長の小西さんのブログ。4月まで教育委員会におられてお世話になった。お話をするとホントに面白いのにブログになると少し固すぎるかな。電話で「お喋りになるまま書かれたら。」とつい言ってしまいました。そう言える雰囲気をお持ちです。「新しい風」を期待したい。
まちづくり部長の西山さんのブログ。想いいっぱいのブログです。
そのほか、
理事のブログ、技監のブログ、参与ブログ、
企画管理部長,健康福祉部長、産業観光部長さんなどの各部長のブログがあって、こんなに揃っているのは、全国でも三木市が一番と思っている。
ジーン景虎さんが言われるように、今後新しい仲間を増やし機能してゆけば
「三木も、捨てたもんではないのである」
いつか、神戸のとなりの田舎町と言わなくても、堂々と「三木市です」と言えるようになりたいものである。
東北6県営業担当
仙台時代---1
1967年1月から、広告宣伝、レースなどのから、仙台での事務所を開設しての営業担当に異動した。
私の始めての営業経験であった。
当時はまだ地方の代理店制がまだ残っていて、メーカーの資本も入っていない、所謂自前のデーラーも存在していた。
まだ、メグロ系とかメイハツ系だとかが言われていたし、メーカー資本が入ったとはいえ、社長は従来の地元の人たちだったし、その従業員も現地採用の人たちばかりで構成されていた。
各社長の独特のやり方で経営がなされていたし、デーラーの特徴も県ごとに異なっていた。
五つの系列デーラーと、規模は小さいが八つの自前のデーラーで東北は構成されていた。
まだ、実用車全盛期で、カワサキにとっては東北が一番、九州が二番というような時代であった。
そんな中に、全くのド素人の35才の若僧が営業の世界に責任者として飛び込んだのである。
丁度4年間、仙台でお世話になったが、
一番末端の状況が解ったというか、勉強になった時代であったと言っていい。
粗っぽく言うと、1,2年目はどんどん売って全国の金賞、銅賞など頂いて悦にいっていたが、3,4年目はその反動で資金不足に陥り、デーラーの社長と銀行回りをしたり、本社に資金援助の稟議を書くのが仕事のようなことであった。
このときの経営に於ける資金繰りの重要性は身に沁みこんで、この経験が後に大きく役に立ったのである。
本当に、在庫を抱えての商売は常に資金を頭に置いておかないととんでもないことになるのである。
いつに時代にも、数を売りたい、売上高を大きくする誘惑にかられるが、一番は資金とのバランスである。
そんなことを実地に経験した時代、いろんなことを教えてくれた人たち。
会社の上司では、宮川部長。
デーラー社長では、岩手の久保社長、福島の中西社長。
思い出多い人たちは、秋田の斉藤雄幸、青森の小林清久さん宮城の門伝さん。
一緒に仕事をした仲間たち、宇田川、石塚、海老沢、田中、中田、菊池、君たち。
みんなに、本当にいろんなことを教えて貰った。
営業のド素人を助けてくれたのは、レース経験だった。
無茶苦茶、レースが盛んだったし、開催頻度も多かった。MFJの全日本モトクロスが郡山、札幌と2年続けて北日本で開催されたりした。
事、レースに関しては、各地の社長さんも足元にも寄せ付けない、知識と経験、それに山本、星野、岡部、歳森など全盛期で、彼らに顔が利いたことが、営業での未熟さを大いにカバーしてくれたのである。
この時期、お世話になった人のお話や出来事を少し続けてご紹介してみたい。」
仙台時代---1
1967年1月から、広告宣伝、レースなどのから、仙台での事務所を開設しての営業担当に異動した。
私の始めての営業経験であった。
当時はまだ地方の代理店制がまだ残っていて、メーカーの資本も入っていない、所謂自前のデーラーも存在していた。
まだ、メグロ系とかメイハツ系だとかが言われていたし、メーカー資本が入ったとはいえ、社長は従来の地元の人たちだったし、その従業員も現地採用の人たちばかりで構成されていた。
各社長の独特のやり方で経営がなされていたし、デーラーの特徴も県ごとに異なっていた。
五つの系列デーラーと、規模は小さいが八つの自前のデーラーで東北は構成されていた。
まだ、実用車全盛期で、カワサキにとっては東北が一番、九州が二番というような時代であった。
そんな中に、全くのド素人の35才の若僧が営業の世界に責任者として飛び込んだのである。
丁度4年間、仙台でお世話になったが、
一番末端の状況が解ったというか、勉強になった時代であったと言っていい。
粗っぽく言うと、1,2年目はどんどん売って全国の金賞、銅賞など頂いて悦にいっていたが、3,4年目はその反動で資金不足に陥り、デーラーの社長と銀行回りをしたり、本社に資金援助の稟議を書くのが仕事のようなことであった。
このときの経営に於ける資金繰りの重要性は身に沁みこんで、この経験が後に大きく役に立ったのである。
本当に、在庫を抱えての商売は常に資金を頭に置いておかないととんでもないことになるのである。
いつに時代にも、数を売りたい、売上高を大きくする誘惑にかられるが、一番は資金とのバランスである。
そんなことを実地に経験した時代、いろんなことを教えてくれた人たち。
会社の上司では、宮川部長。
デーラー社長では、岩手の久保社長、福島の中西社長。
思い出多い人たちは、秋田の斉藤雄幸、青森の小林清久さん宮城の門伝さん。
一緒に仕事をした仲間たち、宇田川、石塚、海老沢、田中、中田、菊池、君たち。
みんなに、本当にいろんなことを教えて貰った。
営業のド素人を助けてくれたのは、レース経験だった。
無茶苦茶、レースが盛んだったし、開催頻度も多かった。MFJの全日本モトクロスが郡山、札幌と2年続けて北日本で開催されたりした。
事、レースに関しては、各地の社長さんも足元にも寄せ付けない、知識と経験、それに山本、星野、岡部、歳森など全盛期で、彼らに顔が利いたことが、営業での未熟さを大いにカバーしてくれたのである。
この時期、お世話になった人のお話や出来事を少し続けてご紹介してみたい。」