若い頃の、田崎雅元さんのこと
非常にユニークで、至ってネアカで、好奇心、知識欲旺盛な勉強家でもある。
ご縁もあって、気もあって、30年以上同じ釜の飯を食った仲間である。
「共有する想い出」を沢山持っている。その中から若い頃の田崎さんをご紹介しようと思う。
私のほうが年次で一つだけ上なのだが、カワサキの単車の同じ時代を一緒に過ごした。
何故か本当にご縁があって、一緒に仕事をしたり行動をしたりすることが多かった。
ひょっとすると一番多かった仲間かも知れない。
昨日、アップした源平芸能合戦でも、いろんなことでいろいろ援けてくれた。
ハワイアンの演奏で踊る、女性候補たちを口説いて集めることなどに関しては、私より数段上の能力を発揮してくれたのである。
はじめて彼と出会ったのは、労働組合の常任幹事の会合のときである。
私は、単車がまだ発動機の中にあった発動機部門代表、田崎さんはJET部門代表で出席していた。
そんな労働組合の会議で、どんな議題でも、どんな話題にでも入っていって、また上手く喋って器用にこなしてしまうのである。
間違いなく事務屋だと思っていたら、技術屋と聞いて驚いた。
1964年に単車再建が本格的に決まって、JET部門から大勢の人が単車に移籍した。
高橋鉄郎さんも田崎さんもその時単車に移って来たのである。
それから仕事の上でのお付き合いが始まった。
高橋さんも田崎さんも生産工場関係で、私は販社の広宣担当で関係はなかったのだが、お二人とはレースで繋がったのである。
源平芸能合戦は64年の8月だが、
その翌月、9月13日甲府で行われた山梨モトクロスには、私がライダー関係、田崎さんはメカニックの統括で一緒に出かけている。
私の始めての現場でのレース活動だったが、技術オンチの私を援けてくれた。
先日のON ANY SADAのヴィンテージMXにも出場していた85J1の初陣で、90ccクラスは三吉一行君が乗って優勝している。
このことを以前ブログに書いたら、田崎さんから「その時の彼のツナギ姿の写真」をメールで送ってくれているのだが、私のパソコン技術ではご紹介出来ないのが残念である。
65年5月3日、カワサキがはじめて鈴鹿を走った日。走ったライダーはMXの山本隆君だった。
今年、MFJのふれあいミーテングに山本隆君に誘われ出席したのだが、その帰りの車の中でその時の話になった。
山本独特の語り口でホントはもっと面白いのだが、文章では表現が難しい。
話の中身は、「どうしても、ロードレースに出たかったが、あの頃は会社がモトクロスだけだったので、自分で車を買ってくるからそれをチューン改造してくれませんかと田崎さんに相談したら」
「まかしとけ。車は僕が都合してやると言ってくれた」と言う。
このお陰で、カワサキがはじめて鈴鹿を走ることになるのである。
「マシンは闇で造って、鈴鹿のモトクロスに行くという名目での出場を画策した」のは私だったのだが、
母体の車を都合してくれたのが田崎さんだったのだが、山本とそんなやり取りがあったとは、つい先日山本の話を聞くまで知らなかった。
これが、当日の雨にも援けられて、3位入賞の結果となり、カワサキのロードレースへの進出に繋がってゆくのである。
(もっと詳しく知りたい人は、このブログをどうぞ。)
(このブログも、関連があります)
本格的にロードレースへの進出を決めて、
その翌月、6月13日に鈴鹿で行われた6時間耐久ロードレースに出場することになった。
監督大槻幸雄さん、助監督田崎さんで3台6人のライダーで出場した。
神戸木の実の歳森、金谷のコンビで、はじめて金谷秀夫君がカワサキのライダーとして鈴鹿に登場したのである。
こんなライダー関係は私の担当だった。
そんな関係であったが、日記の記録を見ると、その年の7月23日に田崎さんのアメリカ行きが決まり、大槻さんのドイツ留学も決まっている。
そして、8月10日にレース関係者で明石デパートの屋上ビヤホールで「大槻、田崎さんの送別会」をやっている。
ちなみに、会費1000円、当時としては相当の額であった。
田崎さんとの付き合いは、その後延々と続くのだが、ここまでが、私(33歳)も田崎さんも(31歳)未だぺいぺいの若い頃、レース関係で繋がっていたころの昔話である。
田崎雅元さんは、元川重社長、今、会長である。
川崎重工業を「柔工業に」と提言し実行した、アタマの柔らかい田崎さんの若い頃です。
非常にユニークで、至ってネアカで、好奇心、知識欲旺盛な勉強家でもある。
ご縁もあって、気もあって、30年以上同じ釜の飯を食った仲間である。
「共有する想い出」を沢山持っている。その中から若い頃の田崎さんをご紹介しようと思う。
私のほうが年次で一つだけ上なのだが、カワサキの単車の同じ時代を一緒に過ごした。
何故か本当にご縁があって、一緒に仕事をしたり行動をしたりすることが多かった。
ひょっとすると一番多かった仲間かも知れない。
昨日、アップした源平芸能合戦でも、いろんなことでいろいろ援けてくれた。
ハワイアンの演奏で踊る、女性候補たちを口説いて集めることなどに関しては、私より数段上の能力を発揮してくれたのである。
はじめて彼と出会ったのは、労働組合の常任幹事の会合のときである。
私は、単車がまだ発動機の中にあった発動機部門代表、田崎さんはJET部門代表で出席していた。
そんな労働組合の会議で、どんな議題でも、どんな話題にでも入っていって、また上手く喋って器用にこなしてしまうのである。
間違いなく事務屋だと思っていたら、技術屋と聞いて驚いた。
1964年に単車再建が本格的に決まって、JET部門から大勢の人が単車に移籍した。
高橋鉄郎さんも田崎さんもその時単車に移って来たのである。
それから仕事の上でのお付き合いが始まった。
高橋さんも田崎さんも生産工場関係で、私は販社の広宣担当で関係はなかったのだが、お二人とはレースで繋がったのである。
源平芸能合戦は64年の8月だが、
その翌月、9月13日甲府で行われた山梨モトクロスには、私がライダー関係、田崎さんはメカニックの統括で一緒に出かけている。
私の始めての現場でのレース活動だったが、技術オンチの私を援けてくれた。
先日のON ANY SADAのヴィンテージMXにも出場していた85J1の初陣で、90ccクラスは三吉一行君が乗って優勝している。
このことを以前ブログに書いたら、田崎さんから「その時の彼のツナギ姿の写真」をメールで送ってくれているのだが、私のパソコン技術ではご紹介出来ないのが残念である。
65年5月3日、カワサキがはじめて鈴鹿を走った日。走ったライダーはMXの山本隆君だった。
今年、MFJのふれあいミーテングに山本隆君に誘われ出席したのだが、その帰りの車の中でその時の話になった。
山本独特の語り口でホントはもっと面白いのだが、文章では表現が難しい。
話の中身は、「どうしても、ロードレースに出たかったが、あの頃は会社がモトクロスだけだったので、自分で車を買ってくるからそれをチューン改造してくれませんかと田崎さんに相談したら」
「まかしとけ。車は僕が都合してやると言ってくれた」と言う。
このお陰で、カワサキがはじめて鈴鹿を走ることになるのである。
「マシンは闇で造って、鈴鹿のモトクロスに行くという名目での出場を画策した」のは私だったのだが、
母体の車を都合してくれたのが田崎さんだったのだが、山本とそんなやり取りがあったとは、つい先日山本の話を聞くまで知らなかった。
これが、当日の雨にも援けられて、3位入賞の結果となり、カワサキのロードレースへの進出に繋がってゆくのである。
(もっと詳しく知りたい人は、このブログをどうぞ。)
(このブログも、関連があります)
本格的にロードレースへの進出を決めて、
その翌月、6月13日に鈴鹿で行われた6時間耐久ロードレースに出場することになった。
監督大槻幸雄さん、助監督田崎さんで3台6人のライダーで出場した。
神戸木の実の歳森、金谷のコンビで、はじめて金谷秀夫君がカワサキのライダーとして鈴鹿に登場したのである。
こんなライダー関係は私の担当だった。
そんな関係であったが、日記の記録を見ると、その年の7月23日に田崎さんのアメリカ行きが決まり、大槻さんのドイツ留学も決まっている。
そして、8月10日にレース関係者で明石デパートの屋上ビヤホールで「大槻、田崎さんの送別会」をやっている。
ちなみに、会費1000円、当時としては相当の額であった。
田崎さんとの付き合いは、その後延々と続くのだが、ここまでが、私(33歳)も田崎さんも(31歳)未だぺいぺいの若い頃、レース関係で繋がっていたころの昔話である。
田崎雅元さんは、元川重社長、今、会長である。
川崎重工業を「柔工業に」と提言し実行した、アタマの柔らかい田崎さんの若い頃です。