カワサキ単車の昔話も80話になった。
旧い昔を、思い出させてくれる出来事が先日あった。
ブログにもアップした「マッハの思い出の座談会である。」
座談会の後、懐かしいクルマにいっぱい出会った。
そして、懐かしい人にも。特に加藤君は久しぶりである。
1965年5月3日、カワサキ(山本隆)が、会社には内緒で、始めて鈴鹿を走った。
その結果の3位のお陰で、
1ヵ月後の6月13日の6時間耐久に、カワサキは初めて正規にロードで鈴鹿にデビューしたのである。
3台のマシンを用意した。そのライダーたちは、
1台は歳森とカワサキに初めて乗った金谷秀夫。
もう1台はモトクロスライダー同士の梅津と岡部。
そしてもう1台がテストライダーチームで加藤と飯原であった。
この二人はカワサキのはじめてのモトクロス青野ヶ原でもライダーとして出場している。
そしてこの6時間耐久の監督が大槻さん、助監督が田崎さん(現川重会長)だった。
ライダーなどのチームマネージメントを私と大西君で担当していた。
大槻さんたちとは、昔のライダー諸君も含めてZ1会のゴルフでよく会っているが、
加藤君とは本当に久しぶりである。今回出会った懐かしいクルマの数々は今加藤君が整備を担当してくれているとか。
6時間耐久は結果はだめだったが、ここからカワサキのロードレースはスタートしていった。
まだ、タンクもグリーンになっていない、まだ「赤タンクのカワサキ」時代の話である。
そういえば、写真にある安良岡が乗った125のGPレーサーも、金谷の乗ったA1のロードレーサーもタンクはグリーンではなく赤である。
そんな昔のカワサキの歴史を背負ったマシンの数々と歴史を作ってきた人たちの写真をどうぞ。
マシンは説明抜きですが、充分お解かりの方が多いと思います。
旧い昔を、思い出させてくれる出来事が先日あった。
ブログにもアップした「マッハの思い出の座談会である。」
座談会の後、懐かしいクルマにいっぱい出会った。
そして、懐かしい人にも。特に加藤君は久しぶりである。
1965年5月3日、カワサキ(山本隆)が、会社には内緒で、始めて鈴鹿を走った。
その結果の3位のお陰で、
1ヵ月後の6月13日の6時間耐久に、カワサキは初めて正規にロードで鈴鹿にデビューしたのである。
3台のマシンを用意した。そのライダーたちは、
1台は歳森とカワサキに初めて乗った金谷秀夫。
もう1台はモトクロスライダー同士の梅津と岡部。
そしてもう1台がテストライダーチームで加藤と飯原であった。
この二人はカワサキのはじめてのモトクロス青野ヶ原でもライダーとして出場している。
そしてこの6時間耐久の監督が大槻さん、助監督が田崎さん(現川重会長)だった。
ライダーなどのチームマネージメントを私と大西君で担当していた。
大槻さんたちとは、昔のライダー諸君も含めてZ1会のゴルフでよく会っているが、
加藤君とは本当に久しぶりである。今回出会った懐かしいクルマの数々は今加藤君が整備を担当してくれているとか。
6時間耐久は結果はだめだったが、ここからカワサキのロードレースはスタートしていった。
まだ、タンクもグリーンになっていない、まだ「赤タンクのカワサキ」時代の話である。
そういえば、写真にある安良岡が乗った125のGPレーサーも、金谷の乗ったA1のロードレーサーもタンクはグリーンではなく赤である。
そんな昔のカワサキの歴史を背負ったマシンの数々と歴史を作ってきた人たちの写真をどうぞ。
マシンは説明抜きですが、充分お解かりの方が多いと思います。