60年代、カワサキ創生期のレースには色濃く関係をした。
長く、カワサキの二輪に関係して、晩年までレースとの縁は切れなかった。
最後のほうは、ジェットスキーのJJSBAのレースやサーキットの建設などもやったし、ファクトリーを支えたチームグリーンの活動に関心を持ち支援した。
そのチ-ムグリーンの中心で活躍し、今はその監督をしている野村純一君に先日会った。
マッハⅢの取材があって、その頃の営業やレースの話を期待されていたのだが、私が一番レースに遠ざかっていた時代が70年代である。
その頃は、国内の特約店制度を新たに立ち上げていたのと、
その後東南アジアのCKD進出と言う二つとも全く新しい未経験の分野を担当していて、レースを振り向く間もなかったのだと思う。
マッハのレースがスタートしたのは、そんな時期であった。
当時もレースに関係していた野村君を引っ張り出して取材の助けを求めたのである。
(当日の取材の写真、クリックすると大きくなります。
左から飯原武君、青野ヶ原のカワサキ初のモトクロスに出場、金谷がデビューした鈴鹿6時間耐久にも出場。私をゴルフのZ1会に誘ってくれました。
次が、現チームグリーン監督、野村純一君。
その向こうが、Z1もマッハも当時の開発責任者であった大槻幸雄さん。6時間耐久の監督でもあり、若い頃ずっとレースで関係があった。今はゴルフZ1会の会長でもある。
こんな人から声が掛かれば余り関係がないと思っても断わる訳にはいかない。それで、野村君に応援を求めたのである。)
取材中に私もはじめての話をいろいろ聞けて楽しかった。
アップハンドルのマッハで当時の鈴鹿を席捲し、清原明彦君が一躍ロードレースライダーとして有名になったのは私も知ってはいる。
野村君の話の中に、「モトクロスのライダーだと思っていたのに、ロードを走らせても早かったのでマッハで鈴鹿を走らせた」というのである。
清原はロードのライダーで有名である。取材の方も「清原がモトクロスを?」と不思議なような顔をされた。
清原はもともとテストライダーであった。
せがまれて、モトクロスのノービスのレースに出場さしていた頃は、私も関係していた。モトクロスも結構早くて、仙台の全日本でずっとトップを走りながら、何かで失格したようなことがあったと、おぼろげながら記憶にある。
マッハに乗り出したのは、その頃だと思う。
アップスタイルのロードレーサーは清原のマッハだけであろうし、あの縞々のシャツスタイルは、どこかで買ってきたものだ、などという話を野村君はした。
昨日は野村君にお世話になったので、若い頃の野村君の話を。
71年頃、大阪の所長をしていた。
所員の中「篠ちゃん」というめちゃくちゃレースを好きなのがいて、和田将宏君らがしょっちゅう出入りしていた。
和田君は当時カワサキのファクトリー契約のライダーだったのだが、
実は彼のレースは見たことがない。営業所で出会って親しくなったのである。
そのグループの中に、まだ学生であった野村君がいたのである。
これも、野村君本人から聞いた話だが、彼は根っからレースが好きなのである。
私のように、仕事で関係があって好きになったと言うレベルではない。
ホンモノである。
チームグリーンが常に確りとしているのも、彼のようなホンモノがそれを支えているからだと思っている。
長く、カワサキの二輪に関係して、晩年までレースとの縁は切れなかった。
最後のほうは、ジェットスキーのJJSBAのレースやサーキットの建設などもやったし、ファクトリーを支えたチームグリーンの活動に関心を持ち支援した。
そのチ-ムグリーンの中心で活躍し、今はその監督をしている野村純一君に先日会った。
マッハⅢの取材があって、その頃の営業やレースの話を期待されていたのだが、私が一番レースに遠ざかっていた時代が70年代である。
その頃は、国内の特約店制度を新たに立ち上げていたのと、
その後東南アジアのCKD進出と言う二つとも全く新しい未経験の分野を担当していて、レースを振り向く間もなかったのだと思う。
マッハのレースがスタートしたのは、そんな時期であった。
当時もレースに関係していた野村君を引っ張り出して取材の助けを求めたのである。
(当日の取材の写真、クリックすると大きくなります。
左から飯原武君、青野ヶ原のカワサキ初のモトクロスに出場、金谷がデビューした鈴鹿6時間耐久にも出場。私をゴルフのZ1会に誘ってくれました。
次が、現チームグリーン監督、野村純一君。
その向こうが、Z1もマッハも当時の開発責任者であった大槻幸雄さん。6時間耐久の監督でもあり、若い頃ずっとレースで関係があった。今はゴルフZ1会の会長でもある。
こんな人から声が掛かれば余り関係がないと思っても断わる訳にはいかない。それで、野村君に応援を求めたのである。)
取材中に私もはじめての話をいろいろ聞けて楽しかった。
アップハンドルのマッハで当時の鈴鹿を席捲し、清原明彦君が一躍ロードレースライダーとして有名になったのは私も知ってはいる。
野村君の話の中に、「モトクロスのライダーだと思っていたのに、ロードを走らせても早かったのでマッハで鈴鹿を走らせた」というのである。
清原はロードのライダーで有名である。取材の方も「清原がモトクロスを?」と不思議なような顔をされた。
清原はもともとテストライダーであった。
せがまれて、モトクロスのノービスのレースに出場さしていた頃は、私も関係していた。モトクロスも結構早くて、仙台の全日本でずっとトップを走りながら、何かで失格したようなことがあったと、おぼろげながら記憶にある。
マッハに乗り出したのは、その頃だと思う。
アップスタイルのロードレーサーは清原のマッハだけであろうし、あの縞々のシャツスタイルは、どこかで買ってきたものだ、などという話を野村君はした。
昨日は野村君にお世話になったので、若い頃の野村君の話を。
71年頃、大阪の所長をしていた。
所員の中「篠ちゃん」というめちゃくちゃレースを好きなのがいて、和田将宏君らがしょっちゅう出入りしていた。
和田君は当時カワサキのファクトリー契約のライダーだったのだが、
実は彼のレースは見たことがない。営業所で出会って親しくなったのである。
そのグループの中に、まだ学生であった野村君がいたのである。
これも、野村君本人から聞いた話だが、彼は根っからレースが好きなのである。
私のように、仕事で関係があって好きになったと言うレベルではない。
ホンモノである。
チームグリーンが常に確りとしているのも、彼のようなホンモノがそれを支えているからだと思っている。