部品に関連した話が続くが、ついでにもう一つ。
今は、日本でも非常に人気の高いハーレーだビットソンが潰れかかった時期があった。
1978年ごろだったと思う。
ハーレーがアメリカで日本各社を相手にダンピング訴訟を起こしたのである。
これは、川重本社も巻き込む大問題となった。
当時一番の大市場であるアメリカ市場の大問題であった。
私はCKDの市場開拓で東南アジアを担当していたので、当初は何の関係もなかった。
企画でこれを担当したのが、田崎さんである。
彼はこんな体系的なことを考えるのは得意であった。彼独特のカンと理論で解決の方向を見出していくのである。
これは基本的には、国内とアメリカの販売価格の問題なのだが、
単純ではなくなかなか難しい問題で、その対策は国内のマージン体系や固定費比率が問題になったのである。
問題となったのが、国内の部品の利益率、経費率であった。
詳細は避けるが、国内の構造的な体制整備を図らぬと、アメリカのダンピング対策が解決しないという結論になったのである。
当時の、カワサキオートバイ販売の組織自体も、部品の組織体制も見直しが検討された。
そして、部品は分離されて独立したKMSという会社になり、カワサキオートバイ販売の体制整備も検討される方向となったのである。
理屈、理論の段階を経て、具体的な検討に入った段階で、
78年10月、高橋鉄郎さんと私と前田君が国内経験があるということで、急遽引っ張り出されて、国内体制の整備案の検討を手伝うことになったったのである。
3ヶ月かかって12月に部品会社の独立案も新販社体制案も完成したのだが、
年末になって手伝っていた積りが「お前がやれ」と急遽そんなことになってしまったのである。
川重の課長の頃だったが、国内販社の常務で実質責任者にされてしまったのである。
300名の国内グループの再建を任されたのである。
国内6販社を含むグループ経営については、初めての経験だった。
45歳であった。
今は、日本でも非常に人気の高いハーレーだビットソンが潰れかかった時期があった。
1978年ごろだったと思う。
ハーレーがアメリカで日本各社を相手にダンピング訴訟を起こしたのである。
これは、川重本社も巻き込む大問題となった。
当時一番の大市場であるアメリカ市場の大問題であった。
私はCKDの市場開拓で東南アジアを担当していたので、当初は何の関係もなかった。
企画でこれを担当したのが、田崎さんである。
彼はこんな体系的なことを考えるのは得意であった。彼独特のカンと理論で解決の方向を見出していくのである。
これは基本的には、国内とアメリカの販売価格の問題なのだが、
単純ではなくなかなか難しい問題で、その対策は国内のマージン体系や固定費比率が問題になったのである。
問題となったのが、国内の部品の利益率、経費率であった。
詳細は避けるが、国内の構造的な体制整備を図らぬと、アメリカのダンピング対策が解決しないという結論になったのである。
当時の、カワサキオートバイ販売の組織自体も、部品の組織体制も見直しが検討された。
そして、部品は分離されて独立したKMSという会社になり、カワサキオートバイ販売の体制整備も検討される方向となったのである。
理屈、理論の段階を経て、具体的な検討に入った段階で、
78年10月、高橋鉄郎さんと私と前田君が国内経験があるということで、急遽引っ張り出されて、国内体制の整備案の検討を手伝うことになったったのである。
3ヶ月かかって12月に部品会社の独立案も新販社体制案も完成したのだが、
年末になって手伝っていた積りが「お前がやれ」と急遽そんなことになってしまったのである。
川重の課長の頃だったが、国内販社の常務で実質責任者にされてしまったのである。
300名の国内グループの再建を任されたのである。
国内6販社を含むグループ経営については、初めての経験だった。
45歳であった。