お手数ですが、ちょっとクリックいて頂けますか。
1990年1月、愈々90年代に入った。
平成2年、56歳である。自分で思っているより若かったのである。
二人の子供たちもまだ独身であった。
当然まだ孫もいない。サラリーマンとしての仕上げの時期であった。
7万台への挑戦は、2年目を迎えていた。
台数実績は1月末55072台。
この1年間で約1万台の増販であったが、目標7万台にはまだ1万5000台足りないそんな時期だった。
この間、ZERHREはずっとバックオーダーが続いて快調に売れた。
2年前にスタートして年間500台であったジェットスキーはこの年のスタート時点で10倍の6000台の売上を記録し、販売会社が同じ陣容で売上高が伸びるとこんなにも儲かるものかと思うほど、利益で満ち溢れていた。
損益分岐点は1000台ほどだから、それを越えた5000台分が丸々利益として残ったのである。
新しい販売網政策、ARK(Authorized & Reriable shop of Kawasaki)を立ち上げ、20年近く続いた従来の特約店契約を破棄して新しくARK契約を締結して再スタートしたのである。
1月24日には新宿ヒルトンホテルで、その政策発表会をM/c、ARK300店を集めて開催した。
川崎重工の大庭社長にも出席頂いて、盛大なパーテーであった。
この年から二輪業界ではじめて、先輩3社に先んじて委託から『受注契約』をスタートさせて業界の注目を浴びたのである。
二輪業界はカブなどモペットの販売が自転車屋さんを中心に売られており、その資金力からずっと委託販売が続いていた。
受注して買い取って、それを販売することはあるにはあったが、それを制度としてMUST化したのは、初めての試みであった。
ジェットスキーは、ヤマハがこの業界に新しく参入した時期であった。
この商品は日本で始めて売られる商品であったので、販売システムも最新のものを造り上げた。
販売会社の従業員は10人ほどにして、拠点も神戸に1店だけ、勿論受注仕切制度、全く新しい商品であったので、ボート屋で売りたいと言うのを全部断わってJJSBAのレース中心の『遊びを売る』というコンセプトの販売網であった。
二輪の販売店からの販売希望もあったが、別店舗の別契約、単に売ることでは契約をしなかった。
こんな効率化された、日本では珍しい販売システムでよく売れたので、
会社もARKも無茶苦茶儲かった懐かしい時期だったと思う。
カワサキとしては珍しくトップメーカであり、ヤマハさんとの協力体制を敷いたが、安全運転活動など率先して会長会社にならざるを得なかった。
カワサキとしては経験のない分野だったのである。
あくまでもボート業界のなかに入らずに、別にPWC(パーソナルウォータークラフト)という新しい業界を形造ることを意図したのである。
大分県直入町のSPA直入は建設中であったが、関東地区に何とか直入と同じコンセプトの一般ユーザーを視野に置いた新しいコンセプトのサーキットを造りたくて、候補地の物色をしていた。
益子町が是非やりたいと手を上げて、この計画の検討に入っている。
関東のサーキットは、この先もずっと続けて建設を計画したが、結局実現はしなったのである。
既に当時ホンダの「もてき」は計画中であった。
90年の幕開け1月頃はこんな時代であった。
1990年1月、愈々90年代に入った。
平成2年、56歳である。自分で思っているより若かったのである。
二人の子供たちもまだ独身であった。
当然まだ孫もいない。サラリーマンとしての仕上げの時期であった。
7万台への挑戦は、2年目を迎えていた。
台数実績は1月末55072台。
この1年間で約1万台の増販であったが、目標7万台にはまだ1万5000台足りないそんな時期だった。
この間、ZERHREはずっとバックオーダーが続いて快調に売れた。
2年前にスタートして年間500台であったジェットスキーはこの年のスタート時点で10倍の6000台の売上を記録し、販売会社が同じ陣容で売上高が伸びるとこんなにも儲かるものかと思うほど、利益で満ち溢れていた。
損益分岐点は1000台ほどだから、それを越えた5000台分が丸々利益として残ったのである。
新しい販売網政策、ARK(Authorized & Reriable shop of Kawasaki)を立ち上げ、20年近く続いた従来の特約店契約を破棄して新しくARK契約を締結して再スタートしたのである。
1月24日には新宿ヒルトンホテルで、その政策発表会をM/c、ARK300店を集めて開催した。
川崎重工の大庭社長にも出席頂いて、盛大なパーテーであった。
この年から二輪業界ではじめて、先輩3社に先んじて委託から『受注契約』をスタートさせて業界の注目を浴びたのである。
二輪業界はカブなどモペットの販売が自転車屋さんを中心に売られており、その資金力からずっと委託販売が続いていた。
受注して買い取って、それを販売することはあるにはあったが、それを制度としてMUST化したのは、初めての試みであった。
ジェットスキーは、ヤマハがこの業界に新しく参入した時期であった。
この商品は日本で始めて売られる商品であったので、販売システムも最新のものを造り上げた。
販売会社の従業員は10人ほどにして、拠点も神戸に1店だけ、勿論受注仕切制度、全く新しい商品であったので、ボート屋で売りたいと言うのを全部断わってJJSBAのレース中心の『遊びを売る』というコンセプトの販売網であった。
二輪の販売店からの販売希望もあったが、別店舗の別契約、単に売ることでは契約をしなかった。
こんな効率化された、日本では珍しい販売システムでよく売れたので、
会社もARKも無茶苦茶儲かった懐かしい時期だったと思う。
カワサキとしては珍しくトップメーカであり、ヤマハさんとの協力体制を敷いたが、安全運転活動など率先して会長会社にならざるを得なかった。
カワサキとしては経験のない分野だったのである。
あくまでもボート業界のなかに入らずに、別にPWC(パーソナルウォータークラフト)という新しい業界を形造ることを意図したのである。
大分県直入町のSPA直入は建設中であったが、関東地区に何とか直入と同じコンセプトの一般ユーザーを視野に置いた新しいコンセプトのサーキットを造りたくて、候補地の物色をしていた。
益子町が是非やりたいと手を上げて、この計画の検討に入っている。
関東のサーキットは、この先もずっと続けて建設を計画したが、結局実現はしなったのである。
既に当時ホンダの「もてき」は計画中であった。
90年の幕開け1月頃はこんな時代であった。