お手数ですが、ちょっとクリックいて頂けますか。
昨日だったか、7万台の挑戦の中でジェットスキーのことにもちょっと触れた。
その中で書こうかと思いながら書かなかったことがある。
89年にジェットスキーのデーラーミーテングをアメリカのオマハで開催している。
ジェットスキーを生産しているリンカーン工場と秋に『レークハバス』で行なわれるIJSBAのレース見学を兼ねてのアメリカツアーのことである。
私は、幕張のモータショーとの日程の関係で、デーラーミーテングだけでレークハバスには行けなかった。
その『レークハバス』と言う名前が思い出せなくて、
『ジェットスキー、レース、アメリカ』 で検索して探していたら、こんなサイトに出くわしたのである。
福井昇君のこんなコラムである。
こんなコラムを出しているのも知らなかったし、中味の話もよく知らない。
このブログにアップすることも彼には言っていないが、ジェットスキー創生期の貴重な面白い話なので、
昔の思い出話として是非残しておきたいと思ったのである。
興味のある方は是非ご一読下さい。
当時、85年ごろカワサキの明石の単車部門ではジェットスキーを担当する部門はなかったのである。
開発は発動機事業部。
エンジン生産も発動機事業部。
エンジンを送って生産はリンカーン工場で行なっていた。
販売はKMCでアメリカ市場が殆どであった。ヨーロッパや日本にもどこからかの輸入で少しは入っていた。
そんなことで明石の単車部門は全然関係なかったのである。
そんな時代であった。福井君は発動機事業部所属でどこにいたのか知らなかったがプライベートでジェットスキーのレースに出場していた。
私は単車の企画室にいた。
日本では西武自動車が輸入しカワサキの孫会社で細々と扱っていた。
その孫会社の社長さんが苧野豊秋さんで私や田崎さんの元上司であった。
ジェットスキー事業のアメリカ以外での展開案を企画するのは仕事の範疇であった。
故武本一郎君が企画にいて、JS400,500のエンジンを450,550ccにするための開発費の捻出や、アメリカ市場以外での販売を画策していたのである。
丁度、鶴谷君(気安く呼んでいるが今彼は川重商事の社長である)がオーストラリアから帰任した時で、企画にそのまま籍を置いて『ジェットスキー担当』としたのである。
単車にはジェットスキーに『乗れるヤツもいない』と福井君を強引に発動機から単車企画に引っ張ってきて鶴谷君の下につけた。
福井君の上司はたまたま私と同期の藤川さんだったので、頼み込んだのである。
国内はもとより欧州でのジェットスキー事業案を
企画室が計画し、市場調査も担当部門がなかったのでその販売までも全て実行もしたのである。
このコラムの話は、そのころのことである。
鶴谷、福井君のコンビは一生懸命であったし、国内の苧野、藤田、宇田川さんたち当時の開拓者の努力で今日があるのである。
国内のJJSBAを正規に立ち上げるべくアメリカのKMCに苧野さんとご一緒したりした、その当時のKMCの社長は田崎さんであった。
私はそんなお手伝いはしたのだが、
福井君が書いているこんなコラムの内容はよく知らない。それにしてもよくあちこちと行ったものである。
中味はよく知らないが、出張申請や出金伝票の決済は間違いなく私がしたのだと思う。世に言う『めくら印』である。
懐かしいいい時代であった。
遊んでいるようだがみんな一生懸命仕事をした。
こんな活動の成果でヨーロッパにジェットスキーの独立会社を後立ち上げるのだが、今のヨーロッパカワサキの前身である。
福井昇君はその後独立して国内ジェットスキー専門店の1号店を開店するのだが、今でもお付き合いがあって、来週はミニSLフェアで神戸フルーツフラワーでお会いする。
彼の想いは『神戸のハーバーランド』や『メリケン波止場』に常設のレールを敷いて蒸気機関車を走らせることである。
何時までも夢があっていい。そんな夢を少し手伝っている。
昨日だったか、7万台の挑戦の中でジェットスキーのことにもちょっと触れた。
その中で書こうかと思いながら書かなかったことがある。
89年にジェットスキーのデーラーミーテングをアメリカのオマハで開催している。
ジェットスキーを生産しているリンカーン工場と秋に『レークハバス』で行なわれるIJSBAのレース見学を兼ねてのアメリカツアーのことである。
私は、幕張のモータショーとの日程の関係で、デーラーミーテングだけでレークハバスには行けなかった。
その『レークハバス』と言う名前が思い出せなくて、
『ジェットスキー、レース、アメリカ』 で検索して探していたら、こんなサイトに出くわしたのである。
福井昇君のこんなコラムである。
こんなコラムを出しているのも知らなかったし、中味の話もよく知らない。
このブログにアップすることも彼には言っていないが、ジェットスキー創生期の貴重な面白い話なので、
昔の思い出話として是非残しておきたいと思ったのである。
興味のある方は是非ご一読下さい。
当時、85年ごろカワサキの明石の単車部門ではジェットスキーを担当する部門はなかったのである。
開発は発動機事業部。
エンジン生産も発動機事業部。
エンジンを送って生産はリンカーン工場で行なっていた。
販売はKMCでアメリカ市場が殆どであった。ヨーロッパや日本にもどこからかの輸入で少しは入っていた。
そんなことで明石の単車部門は全然関係なかったのである。
そんな時代であった。福井君は発動機事業部所属でどこにいたのか知らなかったがプライベートでジェットスキーのレースに出場していた。
私は単車の企画室にいた。
日本では西武自動車が輸入しカワサキの孫会社で細々と扱っていた。
その孫会社の社長さんが苧野豊秋さんで私や田崎さんの元上司であった。
ジェットスキー事業のアメリカ以外での展開案を企画するのは仕事の範疇であった。
故武本一郎君が企画にいて、JS400,500のエンジンを450,550ccにするための開発費の捻出や、アメリカ市場以外での販売を画策していたのである。
丁度、鶴谷君(気安く呼んでいるが今彼は川重商事の社長である)がオーストラリアから帰任した時で、企画にそのまま籍を置いて『ジェットスキー担当』としたのである。
単車にはジェットスキーに『乗れるヤツもいない』と福井君を強引に発動機から単車企画に引っ張ってきて鶴谷君の下につけた。
福井君の上司はたまたま私と同期の藤川さんだったので、頼み込んだのである。
国内はもとより欧州でのジェットスキー事業案を
企画室が計画し、市場調査も担当部門がなかったのでその販売までも全て実行もしたのである。
このコラムの話は、そのころのことである。
鶴谷、福井君のコンビは一生懸命であったし、国内の苧野、藤田、宇田川さんたち当時の開拓者の努力で今日があるのである。
国内のJJSBAを正規に立ち上げるべくアメリカのKMCに苧野さんとご一緒したりした、その当時のKMCの社長は田崎さんであった。
私はそんなお手伝いはしたのだが、
福井君が書いているこんなコラムの内容はよく知らない。それにしてもよくあちこちと行ったものである。
中味はよく知らないが、出張申請や出金伝票の決済は間違いなく私がしたのだと思う。世に言う『めくら印』である。
懐かしいいい時代であった。
遊んでいるようだがみんな一生懸命仕事をした。
こんな活動の成果でヨーロッパにジェットスキーの独立会社を後立ち上げるのだが、今のヨーロッパカワサキの前身である。
福井昇君はその後独立して国内ジェットスキー専門店の1号店を開店するのだが、今でもお付き合いがあって、来週はミニSLフェアで神戸フルーツフラワーでお会いする。
彼の想いは『神戸のハーバーランド』や『メリケン波止場』に常設のレールを敷いて蒸気機関車を走らせることである。
何時までも夢があっていい。そんな夢を少し手伝っている。