雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

三条市vs三木市、三条市and三木市?

2008-08-16 09:26:16 | みっきぃふるさとふれあい公園
今朝、exciteのブログにアップしたものである。

二輪業界にも関係が大いにあるので、ここにも掲載してみたい。


『こんな表題の『ケンオー、ドットコム』と言うブログを見つけた。
書いてある内容が面白いので、そのままご紹介する。


『国定勇人三条市長は、地元の新潟県央工業高校の甲子園初戦を観戦した翌日、兵庫県三木
市の三木JCで講演して以来、三木市との交流を推進している。どのように交流が深まっていくのか、とても興味深い。

三木市は三条市と同様、金物の町であることを知る三条市民は多いだろう。金物業界にいたことがないので客観的にはわからないが、三条市民にはライバル的な意識が強いのではないだろうか。どちらかといえばプラスよりマイナスのような気がする。

積極的なマイナスというよりは、どちらかというと知らんぷりをしているというか、向き合わないようにしているというか。一方で、事業所レベルでは三条市と三木市で関連があるのを知っている。ぜひ、三木市に対するイメージや感情を三条市の金物業界の人に聞いてみたい。

いずれにしろ、その三木市と交流しようとは、三条市民なら思いつかなかったではないだろうか。仮に思いついてもすぐに否定されそうな気がする。そんななかで国定市長が三木市と交流を進めようとしているところがおもしろい。地元からは出てこない発想で、今後の進展を見守りたい』


私は二輪業界に長くいた。
金物業界と同じく、世界的に見てそんなに主流の業界ではない。
然し、そのメーカーたちはそれぞれ特色があって、面白い。

戦後は200に近いメーカーがあったが、今残っているのは4つである。
ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキ。
これはライバルか? 仲間か?

ライバル視する人が多いが、私は常に仲間だと思っていた。
そしてそのように具体的に対応してきた。
ライバルとして戦っても、何のプラスも無いのである。
戦っているという自己満足だけである。

業界に200もメーカーがある隆盛期は、生き残りをかけて断固戦うべきである。
業界がおかれた立場、環境を考えるべきだと思っていた。
二輪業界でのライバルは、ホンダやヤマハではなくて、若者が目を向けたがる他の業界との戦いなのである。


金物も良く似ている、
三条と戦ってみても、お互い傷つくだけである。
ライバルではなくて、仲間として業界自体を盛り上げるべきである。

三条の国定さんにはそれを言った。
ちゃんと理解をして頂いたし、国定さんご自身もそのようなお考えのようである。

三木市vs三条市ではなくて、三木市and三条市が正解だと思っている。
行政は、三木の金物業界のことを思うなら、『金属工業技術センターの存続』も大事かも知れぬが、それよりも『業界協調』のほうが実効があることに早く気づかねばならない。

既に、国定さんはそれに気づいている。』

小さいところで、喧嘩したり競争したがるのは、
日本人の悪い癖ですかね、それとも人間のさがなんでしょうか?
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8月15日、終戦記念日

2008-08-16 05:19:36 | 発想$感想
昭和20年8月15日、私は中学1年生であった。
夏休み中で学校のプールに泳ぎに行っていた。

韓国の京城、今のソウルにいた。
天皇陛下の玉音放送を運動場の炎天下で何事かと気をつけの直立不動の姿勢で聞いた。
ラジオの声はよく聞こえなかったが、何となく『戦争に負けた』ということが解った。

外地での戦争体験は、何不自由なく、空襲はあったが爆弾も焼夷弾も落とさない偵察のようなもので、食糧事情も良くて普通の生活が続いていた。
ただ、小学校の5年くらいから教練まがいの訓練があって、
中学1年の夏休み中の宿題に『そもそもわが国の軍隊はーーーー』に始まる長い長い軍人勅諭の暗記が出ていて、そろそろ覚えないとと思っていた時の終戦であった。

お陰で、全然軍人勅諭は覚えていない。


戦争体験のある世代もだんだんと少なくなってきたが、
私など戦争体験と言えるようなものは何一つ無い。
ただ、中学の上級生は学徒動員で出征するのを送りに行ったりはした。
『お国のために立派に死んでこいよ』と何の疑いも無く見送りの下級生は叫んでいた。

そんな時代だったのである。
国のために戦うと言うことについては、みんながそう思っていた。
そんな教育だけは、内地よりも進んでいたかも知れない。


内地、今の日本をそんな呼び方をしていたが、内地は空襲で大変だったと言うのは何となく聞いていた程度である。
明石の空襲では、叔父と叔母が無くなった。
ビルマの戦争で母方の伯父が戦死した。

戦争は大変なことだと思ってはいたが、本当にそう思い出したのは、昭和20年終戦の年の12月に明石に引き揚げてからである。
小学生の低学年のころ帰省して、知っていた明石はそこに無かった。

見渡す限り焼け跡だった。
本家の庭には1トン爆弾が三つも落ちて、直径20メートルほどの円錐形の池になって水がたまっていた。
焼夷弾は、数えることが出来ないほど地面に突き刺さっていた。

米も無く、闇米が1升100円もしてびっくりした。
朝鮮では1斗100円だったのに。
そんな高い米が食えるわけは無く、なんば粉のパンやサツマイモなどが主食であった。
中学時代に腹いっぱい飯を食ったのは覚えていない。
高校になって野球部の夏の合宿が初めてだったような気がする。
2年のとき北陸に遠征に行ったらお土産に米を1升ずつ貰って、大事に持って帰った。

そんなまさに廃墟から日本は立ち直ったのである。
いろんな経験をした。
一生のうちにこんな経験をすることは、これからの世代には不可能だと思う。

戦争は大変である。
平和のあり難さに慣れてしまって、いまさら感じないそんな世の中である。
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