『ヤマ3シオ8セイコウカワ』
1965年5月3日(日曜日)
鈴鹿の現地に行っていた川合寿一さんから届いた電報である。
山本3位、塩本8位に入った鈴鹿ジュニアロードレースの結果である。
山本隆君はカワサキが誇るモトクロスライダーである。
後半はMFJのトライアル委員長も長く勤めたので、オフロード専門と言ったほうがいいかも知れない。
彼のブログ『60おじさん』は放っておくと、一向に更新されないので、ヨコからハッパをかけているようなものだが、私のブックマークにも入れさせて貰ったし、
こうしてフォローしているのである。
中身は結構面白い。 是非ご一読を。
ここから先は、読んで頂いたものとして、当時色濃く関係したものとして、私なりの補足をしてみたい。
<1965年5月3日はあいにくの雨降りだった。>
雨が幸いしたと思っている。これはカワサキの鈴鹿初登場で、ロードマシンなど初めてであった。
路面がすべる雨ゆえに、モトクロスライダー山本のテクニックが生きたのだと思っている。
ずっとBSの滋野の後を『スリップストリーム』でつけていて最後の最後で交わして3位に入ったとか。
『スリップストリーム』このとき初めて聞いた言葉である。
<64年シーズンオフに、ブリジストンファクトリーに移籍の話が纏まり、仮契約まで漕ぎ着けていたのだが、ある人物の一声で元の鞘に納まってしまったのです。>
これは大事件でした。
それまでレース担当部門でしたが、私はレースには直接タッチしていなかったのだが、この件で引っ張り出されたのである。
ある人物とは、レース界の大物、兵庫メグロの西海さんと、既にそのころは世界のトップライダーであった神戸木の実の片山義美さんでした。
この事件が無かったら、ひょっとしたら私はレースの世界に首を突っ込まなかったかも知れない。
そういう意味では、山本は私とレースを結んでくれた仲人だと思っている。
仲人と言えば、私は山本隆君の仲人でもある。
そんなことで、最近でも無理なお願いも遠慮なくしているのである。
<そこで私は、自費で購入してでも参加しますと決意を表明しました所、当時係長辺りだった田崎さん(現、川重会長)が「山本君私に任せなさい」と言って新車の85-J1Tを調達してくれたのです。>
ここのくだりは、先日まで知りませんでした。
昨年、山本君とMFJのふれあいミーテングに行った帰りのクルマの中で初めて聞いたことである。
当時はまだ、会社はロードはダメと言うことになっていたので、こっそりと鈴鹿モトクロスに出場することにして出かけたのである。
マシンは田崎さんが都合してくれた。
山本だけでは頼りないと、ロードをやっていた北陸の塩本君と2人、2台のマシンを作った。
ずっと以前に 『カワサキが始めて鈴鹿を走った日』というブログをアップしているが、同じようなことを書いている。
<Kawasakiマシンが憧れのスズカロードレースに初参加で初入賞したので上に下えの大騒ぎになりました!>
『勝てば官軍』とはよく言ったものです。
モトクロスの青野ヶ原もそうでしたが、あれも会社の公式出場ではなく、有志のボランテイアによるものでした。
あれだけ文句を言っていた会社の幹部たちが、1位から6位まで独占の記念写真に納まっていました。
このときも、3位に入ったし、モトクロスと違ってトロフィーは大きいし、『ホンダ、ホンダ、カワサキ』の3位でしたから、ホントに大騒ぎになりました。
ロードも本格的にということになって、翌月鈴鹿の6H耐久に3台のマシンを正式に造ってエントリーすることになったのである。
このレースはアマチュア資格のもので、モトクロスのセニアたちが多数ロードのアマチュアの資格で出場したのだが、
山本は既に1ヶ月前のジュニアロードレースに出場していたので、参加資格が無かったのである。
このレースに歳森康師がペアライダーに選んだのが金谷秀夫である。
金谷の無契約でのカワサキの第1戦だった。
こんなことで、山本隆君は『カワサキのロードレースへの道を拓いた』と言えると思っている。
この話に、出てくる田崎さん、今は偉くなって川重会長である。
若いころの、田崎さんをブログに書いたら、ご本人からコメントが来た。
このときの、マシンの話である。
この話も『続 田崎雅元さんのこと』と題して彼がコメントに書いてくれたことの感想を綴っている。
みんな昔の仲間である。
みんな昔話の類です。 昔話もまた楽しいものです。
1965年5月3日(日曜日)
鈴鹿の現地に行っていた川合寿一さんから届いた電報である。
山本3位、塩本8位に入った鈴鹿ジュニアロードレースの結果である。
山本隆君はカワサキが誇るモトクロスライダーである。
後半はMFJのトライアル委員長も長く勤めたので、オフロード専門と言ったほうがいいかも知れない。
彼のブログ『60おじさん』は放っておくと、一向に更新されないので、ヨコからハッパをかけているようなものだが、私のブックマークにも入れさせて貰ったし、
こうしてフォローしているのである。
中身は結構面白い。 是非ご一読を。
ここから先は、読んで頂いたものとして、当時色濃く関係したものとして、私なりの補足をしてみたい。
<1965年5月3日はあいにくの雨降りだった。>
雨が幸いしたと思っている。これはカワサキの鈴鹿初登場で、ロードマシンなど初めてであった。
路面がすべる雨ゆえに、モトクロスライダー山本のテクニックが生きたのだと思っている。
ずっとBSの滋野の後を『スリップストリーム』でつけていて最後の最後で交わして3位に入ったとか。
『スリップストリーム』このとき初めて聞いた言葉である。
<64年シーズンオフに、ブリジストンファクトリーに移籍の話が纏まり、仮契約まで漕ぎ着けていたのだが、ある人物の一声で元の鞘に納まってしまったのです。>
これは大事件でした。
それまでレース担当部門でしたが、私はレースには直接タッチしていなかったのだが、この件で引っ張り出されたのである。
ある人物とは、レース界の大物、兵庫メグロの西海さんと、既にそのころは世界のトップライダーであった神戸木の実の片山義美さんでした。
この事件が無かったら、ひょっとしたら私はレースの世界に首を突っ込まなかったかも知れない。
そういう意味では、山本は私とレースを結んでくれた仲人だと思っている。
仲人と言えば、私は山本隆君の仲人でもある。
そんなことで、最近でも無理なお願いも遠慮なくしているのである。
<そこで私は、自費で購入してでも参加しますと決意を表明しました所、当時係長辺りだった田崎さん(現、川重会長)が「山本君私に任せなさい」と言って新車の85-J1Tを調達してくれたのです。>
ここのくだりは、先日まで知りませんでした。
昨年、山本君とMFJのふれあいミーテングに行った帰りのクルマの中で初めて聞いたことである。
当時はまだ、会社はロードはダメと言うことになっていたので、こっそりと鈴鹿モトクロスに出場することにして出かけたのである。
マシンは田崎さんが都合してくれた。
山本だけでは頼りないと、ロードをやっていた北陸の塩本君と2人、2台のマシンを作った。
ずっと以前に 『カワサキが始めて鈴鹿を走った日』というブログをアップしているが、同じようなことを書いている。
<Kawasakiマシンが憧れのスズカロードレースに初参加で初入賞したので上に下えの大騒ぎになりました!>
『勝てば官軍』とはよく言ったものです。
モトクロスの青野ヶ原もそうでしたが、あれも会社の公式出場ではなく、有志のボランテイアによるものでした。
あれだけ文句を言っていた会社の幹部たちが、1位から6位まで独占の記念写真に納まっていました。
このときも、3位に入ったし、モトクロスと違ってトロフィーは大きいし、『ホンダ、ホンダ、カワサキ』の3位でしたから、ホントに大騒ぎになりました。
ロードも本格的にということになって、翌月鈴鹿の6H耐久に3台のマシンを正式に造ってエントリーすることになったのである。
このレースはアマチュア資格のもので、モトクロスのセニアたちが多数ロードのアマチュアの資格で出場したのだが、
山本は既に1ヶ月前のジュニアロードレースに出場していたので、参加資格が無かったのである。
このレースに歳森康師がペアライダーに選んだのが金谷秀夫である。
金谷の無契約でのカワサキの第1戦だった。
こんなことで、山本隆君は『カワサキのロードレースへの道を拓いた』と言えると思っている。
この話に、出てくる田崎さん、今は偉くなって川重会長である。
若いころの、田崎さんをブログに書いたら、ご本人からコメントが来た。
このときの、マシンの話である。
この話も『続 田崎雅元さんのこと』と題して彼がコメントに書いてくれたことの感想を綴っている。
みんな昔の仲間である。
みんな昔話の類です。 昔話もまた楽しいものです。