雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

名門『神戸木ノ実レ―シング50周年を祝う会』

2011-01-30 12:22:29 | M/Cレース

★土曜日に『神戸木ノ実レ―シング50周年を祝う会』がグリーンピア三木で行われたので出席した。

50周年と聞いてちょっと意外であったと言うのが実感なのである。

もっと旧いと思っていた。

昨日『青野ケ原モトクロス』のことを書いたのだが、

カワサキのレースのスタートとなった青野ケ原もほぼ神戸木ノ実のスタートと同じ時期だったのだと言うのは新たな発見だったのである。

 

50年前の日本のレース界、特にモトクロス関係は、MCFAJという全国のレーシングクラブからなるクラブ連盟の方がMFJよりもむしろ主力であった。

カワサキがレースを始めたころは、カワサキの契約ライダーのクラブは存在していなくて、

このあたりは推測だが、当時のカワサキ自販の小野田滋郎さんなどの手によって、厚木に三橋実が設立した『カワサキコンバット』というクラブがファクトリークラブであったのだろう。

三橋実と厚木周辺の岡部能夫、梅津次郎、加藤清丸などがメンバーでスタートした。

関西にはメーカー直属のクラブはなくて、片山義美さんが主宰する、神戸木ノ実レーシングの歳森康師、山本隆と個人的なライダー契約を結んでスタートしたのである。

 

★当時のモトクロスは、2サイクル車をもたないホンダはファクトリーチームは持っていなかった、CLなどの4サイクル車でのアマチュアの個人参加がちょっとあったくらいである。

ヤマハは、野口種晴のスポーツライダースというクラブでファクトリーライダーを集めていたし、

スズキは、東京の城北ライダース、関西は京都の小島松久のマウンテンライダースなどのクラブがファクトリー契約をしたライダーたちを擁していた。

そんな中で、神戸木ノ実レーシングは、御大の片山義美は二輪はスズキと7、四輪はマツダと契約し、当初そのクラブ員はカワサキやヤマハやBSなどとも契約すると言う独特のスタイルを持つレーシング倶楽部だったのである。

 

カワサキにとっては、歳森康師、山本隆に続いて、ロードレースで金谷秀夫、さらに村上力などとも契約を結んだし、片山の義弟の従野孝司なども一時カワサキの社員だった時期もありその後カワサキの契約ライダーになったりして、カワサキとの関係は非常に強くなっていったのである。

関東のカワサキコンバットが三橋や岡部、梅津などとの契約が切れて事実上倶楽部が解散してからは、

星野一義や清原明彦さらには和田将宏などカワサキの契約ライダーたちがその籍を置いてカワサキ色が強くなった時期はあるが、マツダとも、ヤマハ、スズキやホンダとの契約のあるライダーを有する非常に特色のあるレーシング倶楽部だったのである。

そういう意味では、名実ともに日本最大の名門レーシングクラブだと言っていいだろう。

一昨日はその50周年を祝う会がグリーンピア三木で行われた。

1960年代、70年代、80年代とこんなに大勢のライダーたちが集まった。

50周年だが、60年代の選手たちは、仲間と呼べる人たちばかりで、非常に楽しいミーテイングとなったのである。

既に昨日こちらのブログや、司会を務めたthiraiさんがそのブログTeam Green でアップしている。

そのほかにもこんな写真もあるのでご紹介してみよう。

御大片山夫妻への花束贈呈から始まった。贈呈者は愛弟子金谷秀夫と和田将宏夫人である。

当時の10数段ミションのスズキ50に乗る片山義美の写真を持つのはキヨさん清原明彦。

 

片山義美が加古川まで勧誘に来たと言うのが自慢の山本隆。二人ともご機嫌である。

会場には何故かカワサキKR500のファクトリーマシンも飾られた。

 『これが私』とこれはモトクロスならぬトライアルの山本隆である。

 

メインテーブルに座ったメンバー、前列左から

山本隆、片山義美、清原明彦、  後列左から私、金谷秀夫、和田将宏、村上力。

他にも毛利良一、杉尾良文、近藤博志、など全日本チャンピオンたちも出席していたので、まあ年寄りの特権ということか。

敢えて継承抜きで説明しているが、スターは一般に敬称抜きで呼ばれるものなので、それに従っている。

 

気がついてみると、片山義美以外は、全員がカワサキに関係があったのである。

スズキの契約であった片山義美もしょっちゅうカワサキに出入りしていて、貴重な意見をくれていた。

 

★このパ―テ―の最後に挨拶に立った片山義美さんが、

『神戸木ノ実レ―シングは本日の会合でその歴史を閉じたい。今後は神戸木ノ実クラブとして親睦会として継続したい。』と述べて50年の歴史の幕を閉じたのである。

この会には出席できなかった歳森康師、星野一義や片山敬済など、錚々たるメンバーが名を連ねたのである。

二輪ロード、モトクロス、トライアルさらには、四輪分野も有した、日本最大の名門レーシングクラブだったのである。

 

約1カ月後の3月4日には、この会の司会役を務めた平井さんが主宰する

参加者全員がNPO The Good Times の会員であることがMUST条件の

カワサキの想い出そして未来』で、また多くのメンバーや雑誌記者さんともお会い出来るのは楽しみなことである。

 

 

★私は三木に住んでいる。 

片山義美さんも、三木にお住まいなのである。

 

最後のこの一枚は、一昨日ではない。

道の駅みきで行われた西日本』最大のイベントBUG IN MIKI にメインゲストとして呼ばれた片山義美さん、お隣は二人とも、三木ではなかなかの有名人である。

ちなみにいえば3人ともNPO The Good Times のメンバーである。

 

私の仲間たちはみな、NPO The Good Times で繋がっている。

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青野ケ原のモトクロス

2011-01-30 07:51:34 | カワサキ単車の昔話

★『モトクロス黄金時代』という雑誌が八重洲出版から発行されている。

つい先日の、NPO The Good Times の新年会に、山本隆君が『自分の記事も載っている』と持参したものを見せてもらっている。

 

日本のレース時代の幕開けの記事のいろいろと一緒に、『カワサキのレースのスタート』ともなった、伝説の『青野ケ原モトクロス』の記事が4ページにわたって記載されている。

私自身も当時既に二輪営業の担当をしていて、直接ではなかったがこのレースに関していろんな思い出もある。

それこそ『カワサキ単車の昔話』の頂点に立つ話なので、知っている範囲で纏めてみたい。

 

 

 

★記事は、この4枚で構成されている。勿論ちゃんと取材をされた上の記事だから、その通りなのだと思う。

私は当時営業部にいて同僚の故川合寿一さんがマネージャー役をしていた。

記事の中にもあるようにこのレースが社命で行われたものではなくて、一部の人たち、それも中村治道さんや高橋鉄郎さんなど技術部というよりは、生産工場サイドで計画されたものであったことから、社内の状況はむしろ批判的な目で見る人の方が多かったのは、職制上から言えば当然かも知れない。確かにマシンなど開発する部門ではない生産部門が定時後とは言え、マシン開発などすることは、勤労部門などから見たらケシカラヌ行為に見えたのであろう。

そんな中で数少ない支援者のトップは、営業の故小野助治次長であったことは間違いない。

中村さんや高橋さんがまだ掛長の時代で、当時の部課長でそんなに積極的に応援した人はいなかった。

当然のことながら予算などなかった。私は営業部の管理掛にいて金の管理などは担当だったのである。

川合寿一さんがマネージャーような役割を担ったのも小野さんの指示であったし、

『金を都合してやれ』と私に指示を出されたのも小野さんなのである。何となくそんないい雰囲気を持った『おのすけ』さんであった。

 そんなに大金ではなかったが、営業部が都合できるぐらいの金を『ある意味ゴマカシテして捻出した』というのが、私の青野ケ原のレースに果たした役割であった。

この記事の最後にある当時のトップの人たちも含めての記念写真には、文句を言ってた部課長さんも並んでいるのを当時は、『結果が良ければ変わるものだな』と思って見ていたものである。写真の後列真ん中、背広姿、眼鏡をかけている方が『おのすけ』さんである。

 

★このレースのきっかけとなった鈴鹿のレースの強烈な印象は高橋鉄郎さんから何度もお聞きしている。

このチームのリーダーの役割を果たしたのは中村治道だった。強烈な個性でこのイベント?を引っ張っておられた。最初のページの一番左の方である。

レース当日風邪か何かでダメだったので、高橋さんが指揮を取られたと高橋さんご自身からお聞きしている。

マシンを作ったのは、故松尾勇さんとあるが、それは間違いない。

松尾さんは兵庫メグロの故西海さんが、カワサキでレースをさせるために兵庫メグロから送り込んだ人材なのである。後のF21Mもエンジンは故安藤さんだが、フレームを設計図もなしに仕上げたのは松尾勇さんであった。

初出場のカワサキが、なぜ1位から6位まで独占できたのか?

現場を見たわけではないが、当日は雨で水たまりがいっぱいできて、スズキやヤマハに乗ったライダーたちのマシンはみんな水をかぶって止まってしまったようである。カワサキの防水対策は完ぺきで、カワサキのマシンだけが完走したようなレースだったようである。山本隆君などもヤマハで出場していたのだが、止まってしまったのだという。

レースなどどんなものかも解らなかった私などは、水しぶきをあげて走っているレースの写真を見て、モトクロスレースとは水たまりなどの障害物の中を走るレースなのだと、正直そう思ったものある。

 

★このレースは単に、カワサキに優勝カップをもたらしただけではない。大げさに言えばカワサキの二輪事業の命運を分けたとも言えるであろう。

当時はまだ事業が軌道に乗っていたわけではなくて、B8の前のB7は、フレームの欠陥で大返品であった。

このまま事業を続けるべきか否か?

日本能率協会の大々的な調査の最中の出来事だったのである。このレースの優勝で現場の意気は上がっていたのを見て、その調査報告には、『末端の現場の意気高し』と記載されていたのである。事業存続の一つの判断材料になったのは、日能の報告書の中の記述を見ても明らかであった。

神様の天の恵みの雨であった。

 

このレースがカワサキの最初のレースのように言われているが、これ以前にも『カワサキ自販』などのレベルで、レース参加はなされていたのだと思う。

雁の巣や厚木や八戸などアメリカの基地周辺では、アメリカ人たちがレースをやるのに影響されて、盛んになっていったのではないだろうか。当時のカワサキ自販の小野田滋郎さんなどは、厚木にいたヤマハの三橋実を引きぬいたり、三吉一行くんにカワサキに乗せたりしていたようである。

その辺のところははっきりしていないが、メーカーサイドで非公式とはいえ大がかりでモトクロスレースに出たのは、『青野ケ原モトクロス』であったことは間違いない。

 

★こののち、営業の川合寿一さんがレース担当となって、

『神戸木の実』の歳森康師、山本隆、『カワサキコンバット』の三橋実などと契約を結び、翌年の第1回相馬が原の日本グランプリに臨むのである。

それまでも、地方の草レースにばかり出て連戦連勝だったから、当時レースの実情など知らなかった私などはモトクロスはカワサキが一番と信じていたのである。

各社の強豪が集まった相馬が原の日本グランプリでは、5位にも入れないのを見て『ビックリした』のを覚えている。

 

さらにその後は、私自身の担当分野となって、川合さんとともにレースを担当することとなったのである。

レースマシンに関しては、技術部よりも、松尾勇さんがダントツで詳しくて、『モトクロス職場』として、生産部門の担当となるのである。

その運営資金は広告宣伝費で負担し、モトクロス職場は生産部門管轄だったので、広告宣伝を担当した私や当時製造部にいた田崎さん(元川重社長)が創成期のレースに直接関係したのである。

エンジンは技術部、車体は製造部、ライダー契約やレース運営は広告宣伝課という3者協力体制で運営されていた。

 

★そんな50年前の時代であった。

 今日5時から、グリーンピア三木で、『神戸木の実クラブ創立50周年を祝う会』が行われて、出席する。

カワサキのレースの始まりは、世界の片山義美さんが主宰した『神戸木の実クラブ』とともに歩んできた。

『歳森康師、山本隆、金谷秀夫、星野一義、清原明彦、杉尾良文、など』のカワサキと関係のあったライダーたちが所属したクラブである。

 

そんな日に、『青野ケ原モトクロス』のことを書いている。

そんな時期に、『モトクロス黄金時代』という雑誌が八重洲出版から発行された。

何かのご縁のような気がする。

 

●改めて明日でもアップするが、その速報を、どうぞ。

昨日の司会をした、thirai さんも既にブログにアップしている

 

今は沢山あるバイク雑誌だが当時は、オートバイ誌とモーターサイクリストの2誌だけだった。

モーターサイクリストの酒井文人さんと確か関係の深かったMCFAJの方がレースの中心であった。

サイクリストは確か大橋さん、オートバイ誌は衛藤さん、衛藤さんは今でもお付き合いがあるのだがーー。

昔々のカワサキの昔話である。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする