★この年の後半もいろいろあった。
新しいこと、初めての経験がいっぱいあった。
カワサキの二輪事業そのものが創成期で、私だけでなくいろんな人が新しい初めての分野への挑戦だったのだと思う。
広告宣伝や、レースなどに熱中していて、事業そのものの損益などがどんな状況かなどは一切解っていない、ただ、金を使ってレースに没頭できた結構な身分であった。
国内市場が主力であったが、まだ当時は各地代理店制度が敷かれていて、車種はB8,M5に中間機種の85J1が出たぐらいだから、そんなによかったわけでもないだろうと思う。
ようやくアメリカ市場の見込みが立ちそうな時期であった。
ロードレースはようやくGP125ccの開発が春にはスタートし、A1,W1などの開発が進んでいた時期である。
世の中は、四輪免許を取得する人も何となく出てきて、私自身も6月には免許を取得したがマイカーを持つにはまだまだの時期ではあった。
出向先では課長という職位にはあったが、給料は3万円、ボーナス手取りで、76000円、そんな時代であった。
★モトクロスのほかにロードレースがスタートした。
5月のジュニアロードに山本隆がホンダに次いで3位入賞を果たした勢いをかって、6月13日のアマチュア6時間耐久レースには、3台関東の岡部、梅津、関西の歳森、金谷、それにテストライダーコンビで加藤、飯原の3チームが出場した。
3時間あたりの時には、加藤、飯原組がトップを走っていたのだが結果的にはダメだったが。カワサキのロードレースの幕明けだったのである。
このレースの監督、助監督を務めた、大槻さん、田崎さんはその1カ月後の7月には、
大槻さんはドイツ留学で、田崎さんはアメリカ市場に異動が決まって、レースチームから抜けることになったのである。8月10日に明石デパートの屋上ビヤホールでレースチームによる会費1000円の送別会をやっている。
そのあとも技術関係は安藤さんが引き継がれて、レースは続けられたが、モトクロスは兎も角、ロードレースは1年目は中々上手くは行かなかったのである。
秋には、岩城常務命でレース運営委員会が正式にスタートした。
守田工場長が委員長で、山田、苧野、堀江、中村、高橋、黒河内、渡辺、安藤のメンバーでその事務局を担当することになったのである。その後のカワサキの二輪事業を、カワサキ重工業を支えた豪華メンバーでもある。
★岩城良三常務が単車本部長に就任されて、カワサキの二輪事業のトップとして、もっとも明確なリーダーシップを発揮された時期でもあった。
『隣国の兵は大なり、その武器は豊かなり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず』
全ての訓示は必ず、その言葉から始まったのである。
特に上層部の方は岩城さんにピリピリしていたし、事業部全体が張り詰めていたが、
そのころはまだ、ホンダ、スズキ、ヤマハの競合各社にカワサキが敵うモノは、何一つなかったのである。機種も、性能も、販売台数も、販売網も、皆無であったと言っていい。
だから、私は広告宣伝課と言いながら、レースに懸けたウエイトは相当なものだった。とにかくホンダ、スズキ、ヤマハにどんな形でもいい、勝ちたかったのである。
その広告宣伝費が本社開発費であったために、トップだけしか出席しない開発会議に出席させらりしたし、予算の方針なども直接岩城常務に呼ばれて二人の間で決まったりしたのである。
この年飛躍的に伸びようとしたアメリカ市場は、これもどこまでも前向きな浜脇洋二さんが旗を振っていて、実績は前年の5倍にもなって、広告予算も超過したりした。その報告に岩城さんのところに行ったのだが、
『俺とお前の間で、これでやると決めた予算なのにそれで出来ないとは何事だ。任されて仕事をやると言った以上最後まで責任もってやれ。』とこっぴどく怒られたりしたが、親父に怒られているようで、かえって気持ちがよかった。
★7月からは、MFJの運営委員会にもカワサキ代表で出席するようになり、ホンダ、スズキ、ヤマハ、のベテランの部長さんの中でカワサキとBSだけが若手委員がメンバーだったのである。
初めての業界団体への会議出席であった。その会議で秋のGPにBSは50ccで出場すると言うのである。帰ってそれを報告すると関係の部課長さんはみんな、『BSが出場するなら、カワサキも』と仰るのである。然しそれは岩城本部長の決済が要る。
その岩城さんへの報告は、『お前がやれ』と押しつけられて、岩城さんに報告したがその時点では、GOにはならなかった。
その後いろんな経緯はあったのだが、秋のグランプリには安良岡健の個人出場という形で出場は決まったのである。
MFJ関係で言えば、7月31日には鈴鹿サーキットで行われた、日本で初めて開催された『24時間耐久レース』にも役員として参加した。確かこのレースはこの1回だけで終わってしまったのではと思うがーー貴重な体験ではあった。
MFJの11月の運営委員会の席上、スズキの岡野さんから、『うちの藤井敏雄から辞表が出た。彼は社員ライダーだから引き抜きは止めて欲しい。』との発言があって、その時点では私は全然知らなかったので、BSさんのことかなと思っていたのだが、
カワサキの技術部かどこかが接触していたようである。年が明けて早々藤井敏雄君との契約交渉を私がやることになったのである。カワサキのレースはまだ専門は居なくて、それぞれの部門が動いていたので、私がしらなかっただけである。
藤井君とはモーターショーの会場で久保和夫さんが紹介してくれて面識はあったのだが、かって城北ライダースのメンバーだったようである。
★GPレース関係を除いてのライダー契約は、全て私の管理下にあった。当時の契約ライダーの名前は広告宣伝課の嘱託課員として載っていたのである。だからレース以外の仕事、広告のロケや、A1の開発などはテストライダーのようなライデイングインプレッションもやっていた。
特に、スポーツバイクのA1のテストは名神などでやっていたが、金谷の乗っていたA1がミッションが焼きついたのにうまく制御して怪我しなかったというのは、金谷の自慢話のひとつにもなっている。どこかのフィンの形は星野の提案だとかいろいろあった時代であった。
ライダー契約は、この年から私が直接担当した。
金谷秀夫の初契約であったが、御大の片山義美さんとの話になった。秘蔵っ子金谷のことが気になったのだと思うし、一緒に弟さんの従野孝司君の話も出たりした。
星野一義も初めての契約だたっと思う。私はすっかり忘れていたが、日記帳には、『23000円の月給で』と書いてある。日本一速い男星野もこんなところからスタートしているのである。
ちなみに、山本隆君は、本人の希望通り、80万円で一発回答をしている。翌年は確か120万円だったと思う。
当時私の年俸が50万円ぐらいだアから、結構気前よく払っていたのだと思う。
★会社のことで精一杯で、家のことはほとんど一切家内に任しきりだったのだと思う。
5月には娘も生まれて、2児の父親になってはいるが、休みに里に戻っても、好きな釣りばかりに没頭していたようである。
それでも、長男の方はいろいろ休みには遊んでやっていたのかもしれない。
今は、私以上に釣りにハマってしまっている。
この時期、会社から歩いて5分の社宅住まいであった。
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