★昭和40年、前年に続いて広告宣伝を担当、レース関連も2年目、より色濃く関係した。
この年の前半は、いろいろあって波乱に満ちていた。
前年は新しい仕事を、1億2000万円もの予算を本社開発費から頂いたのだが、7000万円ぐらいしか使い切れずに、
この年はとにかく予算を使い切ることが、一つの目標でもあったのである。
広告宣伝費と言えばマスコミを使えば、それは簡単に使うことができるのだが、
この時期のカワサキの二輪事業は、輸出はまだスタートしたばかりで
、国内が主力市場、その販売車種は、125ccB-8、50ccM-5のモペットなど実用車オンリーで、その販売の主力市場は、まさに田舎中心、東北や九州であった。
テレビでも、新聞でも、一番必要でない市場が、『東京、名古屋、大阪』なのである。
『東京、名古屋、大阪』を除いたマスメデイアなど世の中に存在しないので、簡単な使いようがなかったのである。
マスメデイアの広告が使えるような、販売環境ではなかったのである。
★それでも、一念発起とにかくマスコミを使おうと、
新聞の全頁広告を高城丈二をモデルにして、新発売の85ccJ1 の広告を打つことにしたのである。
朝日、読売。毎日などの全国紙は使えないので、全国の地方紙を全てと言っていいほど使って、『全頁広告』をうったのである。
全部で幾つあったのか覚えていないが、20紙以上はあったと思う。大阪で挨拶回りだけでも1日に18社を訪れたりしている。
多分、こんな効率の悪い広告を打った会社は、その後も出ていないのだろう。
その広告は2月23日に各紙に掲載された。
当時広告業界では話題になって、広告よりも広告の打ち方で関心が集まっていた。
広告に関心があるうちにと、3月8日に明石工場のマスコミの見学会を起案したら、朝日、毎日などの全国紙を含めて50社以上の参加があったりした。
そんなに来るならと、J1Tの新車発表も、一緒にすることにした。
当時の岩城常務の耳に入り、常務自ら出席されることになり、事業部長以下総出の対応となったのである。。
新聞広告自体よりも、このことの方がカワサキの名前が売れたのでは、秘かにそう思った。
★あまり知られてはいないが、
この年の3月13日に単車工場の塗装場から火が出たボヤがあった。たまたまモトクロス職場にいたのでそのボヤを目撃したのだが、見る間に消火器が集まって、見事に火を消し止めた。
塗装場の屋根に上って陣頭指揮を執ったのが当時の工作課長高橋鉄郎さんである。
その日の日記にこう書いている、
『あの火消は見事であった。たぶん高橋さんは始末書を書くのだろうが、よく消したと表彰状でも送ることになならないだろうが、そうしてもいいほど見事だった。やはり海兵で鍛えた人は違う。』
高橋鉄郎さんには、その後もずっとお世話になっている、今のNPO The Good Timesでは相談役もしてもらっている。
この年、MFJの日本グランプリにもご一緒したし、広島、福山への販売店会議にもご一緒した。
この火事のころは、まだあまり話もしたことはなかったのだが、
高橋鉄郎さんを初めて意識したのはこの火事の日のことなのである。
★レース関連は、2年目だったが、本格的にレースに頭を突っ込まざるを得ない事件が起こったのである。
3月13日に、神戸木ノ実所属の、山本、歳森から突如、辞表が出てBSにいくと言うのである。
この話は当時直接担当していた故川合寿一さんが聞いて対応したようだが、どうにもならなくて、3月18日になって、私がバトンタッチを受けたのである。
いろいろやってみたが、うまく行かなくて、
神戸木ノ実の御大、片山義美さんと、兵庫メグロの西海さんに相談したのである。
片山義美さんからは、散々厳しいことを言われたが、もっともなことが多かった。
そんな経緯から、レースを私自身きっちり担当すると約束して、山本、歳森には西海、片山さんからカワサキに残るように二人に言い渡されたのである。
不思議なほど、簡単に二人のカワサキへの残留は決まったのである。
そんなご縁で、山本隆君、60おじさんとは今でも、親しくお付き合いをさせてもらっている。
当時、関東関係は、カワサキコンバットを三橋実が主宰、安良岡健さんもいて、この二人との一括の契約交渉だった。
MCFAJのクラブチームの全盛期で、それぞれのクラブチームリーダーの権限は絶対であったようである。カワサキコンバットには岡部、梅津が契約選手でいた。
星野一義もいたのだが、まだこの時点ではちゃんとした契約なしていなかったと思う。
★この年の4月1日に、大幅な職制変更があった。
川崎航空機、単車事業部営業部販売促進部に所属する全員が、カワサキ自動車販売に全員出向が決まったのである。
広告宣伝を何の肩書もなく、ただ担当していたのだが、出向が決まって平社員から突如『広告宣伝課長』なる肩書を頂いたのである。
32歳になったばかりであった。
二輪事業では、その後も海外で子会社が出来たりして、掛長から一躍社長になったりした人もいたが、
この時期、この時点では、会社始まって以来のことで、本人もびっくりしたのだが、『課長』と呼ばれるのは、気分のいいことであったことは間違いない。
サラリーマンにとっては、まさに『麻薬』のようなものである。
この時期からちょうど10年カワサキ自販への出向期間は続くのだが、
10年後その時には、もう川崎重工と合併していた単車事業本部企画室に戻ったのだが、戻った時の職位が課長で、部長と呼ばれていたのに『課長』とは、どうも寂しく思ったものである。
★そんなことがあった年の5月3日、鈴鹿サーキットであったジュニアロードレースに山本隆君がこっそりと出場し、見事ホンダに次いで3位入賞を果たしたのである。
私は、そのレースは見ていない。
現地に行っていた川合さんから、『ヤマ3、シオ8セイコウ カワ』 という電報を連休中に受け取ったのである。
このときのことを書いたのが、『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』なのである。
このレースの出場は、山本隆君のたっての希望で、マシンを2台作り、山本だけではロードレースは頼りないからと、北陸の塩本と二人で走らせたのである。
当日、鈴鹿は雨になって、モトクロスライダーの山本には、恵みの雨だったに違いない。
とにかく3位に入賞したのである。
青野が原のモトクロスも雨のお陰で、1~6位独占だったのである。
雨は、カワサキのレースに限って言えば、『恵みの雨』で、この3位入賞がなければ、金谷秀夫のカワサキ入りもなかったかも知れない。
ロードレース3位で、翌月の鈴鹿6時間耐久レースに、
初めてカワサキとして。正式に3台のロードレースマシンを作り、その1組を走ったのが歳森康師が連れてきた神戸木ノ実の同僚ロード専門の金谷秀夫だったのである。
初めてと言えば、レース監督が正規に任命されて指揮を執ったのは、このレースが初めてのはずである。
その初代監督は大槻幸雄(後Z1開発責任者)、副監督は田崎雅元(後川重社長)なのである。
私はライダーを含めてのマネージメント、広告宣伝費を余るほど持っていたので金主みたいなものだった。 レースも、エンジンの性能担当は技術部。マシンに仕上げるのは、兵庫メグロから来た松尾勇さん中心のモトクロス職場、工作部担当。 その運営予算やライダー契約は広告宣伝費、という3部門協力で、レース運営委員会でいろんな方針は決定されていた。
それまでの現場でのレース監督は、三橋実君が実質やっていたのである。
こんなメンバーが 、創成期のレースメンバーなので、
ひょっとしたら、thirai さんが主宰する 『カワサキの想い出、そして、、、』には、顔を出して昔の仲間として、『何かを語ってくれる』かもしれない。
★この年の5月4日、連休中に娘が生まれている。
2児の父親にもなった時期である。
家事は手伝ったりはしたが、あまりいい『イクメン』でなかったことは間違いない。
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