★この年の10月に突然、川重単車の企画部門に復帰を命じられた。
出向した10年前は川崎航空機工業であったが、途中川重、川車、川航の3社合併があって戻った時には川崎重工業になっていた。
カワサキの二輪事業は、日の出の勢いであったアメリカの市場も、ちょっと陰りを見せて、ようやく欧州への進出も始まり、東南アジアへ進出も検討しようという、そんな時期だったのである。
当時は発動機事業本部で事業本部長の塚本さんは、川航出身であったが、副本部長の青野さんは造船、企画室長の堀川さんは川重本社財務から、
さらに単車事業担当として吉田専務が直接指揮をとられるなど、この事業をどのように展開するのか、いろいろと社内でも意見のあった時期であった。
当時の企画室は堀川室長、高橋宏部長の下、部員制が敷かれていたが、なかなかオモシロイメンバーが揃っていた。
田崎、岩崎コンビで、KMC、リンカーン工場などを担当していたし、田付君が発動機、種子島君もいた。
私が一応は年次が上だったこともあって、長期計画、開発費、設備予算、人員対策などの分野の担当となったのである。
下には、武本、森田、今城君など、いいメンバーが居たのである。
堀川さんは企画だけでなく営業部門も担当されていた。
技術本部は高橋鉄郎さんで、渡辺、安藤、大槻さんなどが部長でおられた。
生産本部が川畑さん、資材本部に脇本さんだった。
★企画と言う部門は、川重の中では、企画と言うよりはむしろ管理機能が多くて、川重本社との予算管理などの関係も多く本社の人たちともいろいろと、関係することとなったのである。
いままでの、10年間はレースライダーや、二輪の販売店と専らお付き合いをしてきたのだが、一転メーカーのエリート集団との対応となったのである。
長く、販社では部下が100人以上もいるようなことに慣れていて、今度は職位は課長だし、扱う数字は大きいのだがやる仕事はそんなに大きいとも思えなかった。
川重の本社の人たちも確かにアタマは切れるし、理路整然と話はなさるのだが、どうももう一つ『迫力ナイな』と思ったのは事実である。
いままで付き合ってきた販売店などは、想いもあったし、話す言葉に迫力を感じたものである。
今でもそうだが、話す言葉に響きのない人は、幾ら綺麗事を言っても、どうも好きになれないのである。
単車部門も当時は、東大出の人たちは珍しくなく、会議の席上で出身校を数えたら、東大出が一番多かったりした時代である。
事業部長、副事業部長、企画室長が揃って東大出身だし、堀江、浜脇、種子島、武本と名前を連ねていたのである。
★そんな中に入っての仕事だったが、ちょうど吉田専務が陣頭指揮で、長期計画を造ろうとされていた。
その直接担当をしたのだが、吉田さんは元造船、そして鉄鋼の出身で、『こわい』ことで知られていたのだが、単車事業部の特に若手は少々のことには驚かないし、船や鉄鋼の受注産業と違って、自由にモノを発想することには慣れていて、なかなか専務の仰ることに、『Yes』とは言わないのである。
なかなか『はい』と言わないので、吉田さんは『俺は鉄鋼ではこわかったんだ、俺が怒ったら卒倒したやつがいる。』などと言われたりしていたが、単車事業そのものには、非常に愛着も関心も有り気に入っておられて、熱心に明石に来られていた。
その『長期計画』の話では、誠にオモシロイ話があり、私は深く関わっている。
★その年の12月に、吉田専務から『長期戦略』を年末までに纏めるよう指示があり、
『12月20、21日の土日に須磨の翠山荘で休みを返上して検討したい』と言う指示があったのだが、
企画室長の堀川さんが、『その日はゴルフコンペがあって、ダメですわ』と断られたのである。
断る堀川さんも流石だが、吉田さんからは『若手でもいいい。誰か出てこい』と仰るのである。
堀川さんに、『私がコンペを止めて、出ることにします』と言うことになって、私や森田君の若手で専務のお相手をしたのである。
吉田さんが『オモシロかった』と言われる、『翠山荘の会議』である。
、
★突然、ゴルフの優勝カップだが、
我が家には、優勝カップはいっぱいあるが、これは宝物である。 堀川運平さんが主宰された企営会の純銀製のカップである。
その第1回の優勝者が田崎雅元さんで、日時が写っていないが、50年12月20日、私は参加を止めた、まさに翠山荘の会議当日なのである。
みんながゴルフをしているさなか、吉田さんは若手を相手にいろいろと話をされたのである。
当時の川重専務が、途中抜きで課長や係長の若手と直接会議することなどは考えられない時代で、珍しかったから吉田さんもオモシロく感じられたのだと思う。
いろいろあったが、印象に残っているいい話を聞いた。
『人生は綱渡りである。過去はよかった、将来はいいだろうと思って綱を渡っていくが、いつも一番低い位置を歩いている。』
確かにそうだが、将来に夢があるから、今もまた、楽しいのだと思う。
自分史を書いたりするのも、過去はよかったと思っているのかも知れない。
★ところで、この優勝カップなぜ私の手元にあるのか。
このコンペは、田崎さんが優勝した第1回から14回続いている。
当時の事業部各分野の方が参加されているが、13人が優勝して、その『取り切り戦』で私が優勝して、今我が家にあると言うことなのである。
13人のメンバーがまた錚々たる方の名前が並んでいる。
第1回 田崎雅元 昭和50年12月20日
第2回 田中 誠 昭和51年4月24日
第3回 橋本 賢 昭和51年10月2日
第4回 宮田敬三 昭和51年12月4日
第5回 那波義治 昭和52年3月19日
第6回 土井栄三 昭和52年6月18日
第7回 古谷錬太郎 昭和52年9月17日
第8回 堀川運平 昭和52年12月3日
第9回 苧野豊明 昭和53年3月18日
第10回 野田浩志 昭和53年7月15日
第11回 若山禎一郎 昭和54年3月17日
第12回 酒井 勉 昭和54年7月21日
第13回 前田祐作 昭和55年5月2日
みんな懐かしい人たちである。
第1回のコンペを不参加で、翠山荘で会議などしていたので、神様が『取り切り戦』で勝たせて下さったのかも知れない。
堀川さんには、その後もいろいろとお世話になったがもう故人となられた。
そんな想い出のコンペの第1回がこの年にスタートしているのである。
この年の、川重企画はたった3ヶ月だけ、ただ、そこに居たと言うだけだったかも知れない。
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