★ 前年度の10月に10年間の国内出向期間を終え、当時は単車も発動機も含めた発動機事業本部の企画部門に復帰した。
この時期は、絶好調であったアメリカ市場に陰りが見え、ヨーロッパ市場への進出が始まっていた。
事業部の業績は低迷していたが、その規模だけは既に大きくなっていて、川崎重工業本社としても放置しておくわけにはいかなかったのだと思う。
本社の財務の中枢にいた堀川さんを企画室長に送り込み、吉田専務が事業部全体の統括責任者として事業本部の総合戦略を策定しようとしておられた時期である。
ただ、本社にも企画部門にも二輪事業の第1線の状況を解った人は、殆どいなくてなかなか具体的な戦略は纏っていなかったのである。
当時の発想は、主として生産サイドからの生産構造を改善し大量生産でコスト減を図り、低コストの小型車を量産しようと言うような、夢みたいな計画が既にスタートしていて、年間50万台を造ると言うような、確かCMCと呼ばれたプロジェクトが進行していたのである。
そんな状況の中での、企画の長期計画は直接の担当だったのである。東南アジアでのCKD事業についても、営業部でその検討が進められていた。
前年度、12月に一応は、『発本戦略』なるものの骨子は、出来上がったものの、具体的にどう展開するかはまだ纏っていなかったのである。
★企画部門に戻ってから退職するまで、いろんな形で二輪事業に直接関係するような、基本方針の分野を否応なく担当せざるを得ない立場に追い込まれた。
どのような観点から、どのように対応すべきなのか? 自らの考え方は全て自筆で書類にして残すことにした。それを纏めたのが写真のファイルである。
このファイルは、昭和50年の10月、企画に戻って以来、昭和52年8月までの、主として基本方針に関するもので、月別に整理してファイルされている。
こんなファイルが、今我が家には10数冊残っている。ある意味カワサキの二輪事業の歴史が刻まれている。
多分、どなたも見られたことがないであろう、堀川運平さんの直筆のユニークな『発本基本戦略』もこの中に入っているし、
自工会の企画部会で入手した『二輪車の中期見通し』 省資源時代の二輪車事業などにも触れられたホンダさんの産構審資料など貴重な資料も入っている。
森田君の力作『長計』も、武本一郎さんが纏めた数値資料などもある。 自分で眺めていても懐かしい。
これから後の自分史は、出来る限り忠実にこれらの資料をもとに、綴っていこうと思っている。
★開いている書類は、1月19日に纏めている 『 東南アジア市場に関する 当面の基本方針について』 答申したものである。
みなさん口ではいろいろ言われるのだが、どこまで本音で、どう思っておられるのか解らないので、企画としてはこういう方向で考えますが、いいですか?
と聞いてみたのである。
当時の営業の矢野部長、 企画の高橋宏部長、企画の堀川室長、事業本部の青野副本部長の関係する上司の決裁を頂いているのである。
●戦略市場として、インドネシア、タイ、マレーシア、イラン、フィリッピン
●具体策としての投入人員、投入機種、を示し
●販売台数計画、具体的市場別対策、タイムスケジュールは営業部、
●小型機種戦略と市場との関連計画、 総合的な東南アジア政策の纏め(人、資金、その他)は企画で担当すると書いている。
企画で担当と言っても、私のほかに纏める人いはいないので『私がやります』と宣言したようなものである。
★小型車への進出も、東南アジアへの進出も、当時アメリカを担当されていた浜脇さんは反対の立場をとられていたし、1月の時点では事業部としても何の具体的な決定はなされていなかったのである。
★この表はこの1年間を月別に纏めたものだが、
結果としては、5月に東南アジア市場の調査団を結成し、高橋鉄郎さん(当時技術本部長)を団長に担ぎ、11月には『市場開発プロジェクト室』を立ち上げ、その室長には高橋鉄郎さん、
私自身は、企画に残るか、新組織に移るかいろいろあったようだが、結局は市場開発室に移ることになったのである。
当時、企画にいた田崎さんや岩崎君は、しきりに『そうはならぬよ』と言っていたのだが・・・
田崎さんが企画に残り、岩崎君も新組織にやってきてイランを担当する事になった。
いろんな人から、『いいルートに乗った』などと言われていた企画部勤務は、たった1年で終わり、自ら市場調査し事業の方向を決めた新組織で、高橋鉄郎さんと一緒に、ゼロからの事業に携わることになったのである
★この東南アジア調査団は、高橋鉄郎さんを団長に、安藤(生産)川崎(技術、商品)山辺(営業)松田(カワ販)と私(企画)と現地に詳しい多賀井のメンバーで結成され、
台湾ーインドネシァ―タイ―イランーマレーシアの5カ国の末端市場も、現地でホンダさんや、ヤマハさん、三井物産、日商岩井などの人たちからもいろいろ話を聞いた。
その報告書は、生産分野を安藤さん、その他上記の分野は私が報告書を纏めたものである。
現地の経営者は華僑であったり、ペルシャの商人と言うか事業者たちである。その人たちの第1の関心事は資金なのである。商品などよりはそちらの方に強い関心があって、今までカワサキの人が何人も来たが誰もその話に乗ってくれなかったと言うのが、あちこちで聞かれた。
東北で代理店の社長の関心も資金だった。そう言う意味で東北での営業経験も都会での大型販売店とのやりとりも大いに役立ったと思っていた。
私が、東南アジアのCKD事業はカワサキでも『やれる』と思った理由は幾つもあるが、
日本や先進市場では、ホンダ、ヤマハ、スズキとまともに闘わねばならぬが、CKD事業はその展開環境そのものが、その競争条件を緩めてくれているのである。
● 導入機種は国によって違ったが、『数機種』と制限があるし、現地投入の人員も『ワーキングパーミットの制限』があって絞られている。
● さらに現地企業との合弁事業だから、いい相手と組むことで、そんなに差が歴然としないのである。
●50cc のモペットよりは、小型車と言っても100ccが中心なのである。
なにはともあれ、この年の年末は、タイにいた。方針通りタイ、インドネシア、イランの3カ国から攻めたのである。
★ 高橋鉄郎さんとは、現役の最後までいろいろと関係があるのだが、ホントにいろいろとお世話になって、
今現在も、NPO The Good Times の相談役などお願いしているが、直接仕事で関係が出来たのは、この時が初めてなのである。
ご本人は覚えておられないかも知れないが、この調査団の団長は、塚本本部長が決められたのだが、初めは大槻幸雄さんがその候補だったのだが大槻さんが断られて、高橋鉄郎さんになったと言う経緯がある。
お二人とも、今でもお付き合いが続いているが、若いころのレースでのお付き合いがベースにあって、何か運動部の仲間のような連帯感がある。
1年で終わった企画だったが、『本当の意味で企画の中枢に返り咲く日を楽しみに』などとメモっているが、
7年後に、再び高橋鉄郎さんとのコンビで、単車事業本部の企画を担当することになるのである。
★この年、オリンピックの年だった。 女子バレーがソ連を破って金メダル を獲得している。
子供たちは、息子は中学生、西日本選抜に選ばれて全国大会では決勝戦でオール清水に敗れはしたが、ここでも優秀選手に選ばれている。
娘は、小学校4年、マラソン大会で優勝している。
勉強は兎も角、子供たちのスポーツには熱心に応援している。
家の借金もあって、生活は豊かではなかったが、会社でも家でも元気な時期であった。
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